artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

原久路「Picture, Photography and Beyond」

会期:2011/09/03~2011/10/02

MEM[東京都]

2009年に「バルテュス絵画の考察」シリーズを発表して注目を集めた原久路の新作展が開催された。新作といっても、前作から派生した作品である。テーマになっているのは、バルテュスの素描や油彩画で描かれている静物で、前作と同じようにやはり微妙な修整が施されている。たとえば素描に描かれた洋梨のような果実(西欧静物画の伝統的な主題)は柿に置き換えられ、撮影の舞台になった旧診療所の建物に残されていた医療器具が、画面の中に微妙に配置を換えて写し込まれている。一点だけ出品された少女の肖像も含めて、ここでも原自身の「バルュテス絵画」に対する解釈や批評が、はっきりと打ち出されているといえるだろう。
結果として、できあがった静物写真=絵画は、どこか神秘的でもある生命感をたたえた画像として成立している。それらを見ているうちに、野島康三が1920~30年代に制作したブロムオイル印画法による一連の静物写真を思い出した。《仏手柑》《枇杷》など、果実をテーマにしたこれらの静物写真もまた、アニミスム的といえそうな雰囲気を感じさせる。そういえば森村泰昌が野島の《仏手柑》を原画として、自分の手と足に置き換えた作品を発表したことがあった。森村もまた、野島の静物写真の不思議な魅力に気づいていたということだろう。
今回は、同じ画像から写真史の草創期に使われた鶏卵紙に焼いたプリントと、大きめのデジタルプリントとを並置する展示も試みられている。原の表現領域を拡大していこうという意欲を感じることができた。ただ、バルテュスのみにこだわり続けていくと、やや煮詰まってしまうこともありそうだ。他の画家や写真家たちの作品から得たインスピレーションも、積極的に取り込んでいってほしいと思う。

2011/09/07(水)(飯沢耕太郎)

秦雅則「埋葬」

会期:2011/09/02~2011/09/14

新・港村(新港ピア)/Under 35 GALLERY[神奈川県]

横浜トリエンナーレの一環として、さまざまなジャンルのアートや文化振興企画を展開している新・港村。その一角のUnder 35 GALLERYは、「35歳以下の現代美術家、写真家、建築家をそれぞれ紹介していく連続個展シリーズ」である。8月6日~17日の西原尚に続いて、秦雅則の展示がスタートした(奥村昂子展を同時開催)。
秦はこの欄でもたびたび取りあげてきたが、僕が今一番注目している若手写真作家のひとりだ。2008年に写真新世紀でグランプリを受賞してデビューし、東京・四谷の企画ギャラリー・明るい部屋の活動を通じて、その表現力に磨きをかけてきた。今回の「埋葬」シリーズを見ても、瘡蓋を引きはがすように心理的なズレや歪みを暴き立てていく作品によって、誰も真似ができない領域に踏み込みつつあるように感じる。秦はこのところずっと、エロ雑誌をスキャニングした画像を微妙にずらしたり組み合わせたりしながら、架空の女の子のイメージを増殖させる作品を発表してきた。今回の展示はその集大成というべきもので、A5判ほどのサイズの小さな写真を300枚以上、フレームにおさめて壁にびっしりと並べ、床にはやや大きめのサイズの写真を12点、やはりフレームにおさめて置いていた。ピースサインで決めている裸の女の子のポーズの能天気さと、身体の各パーツを寄せ集めたゾンビのような土気色の肌とが合体して、悪趣味の極致としかいいようのない強度に達している。ここまで気持ちが悪いグロテスクなイメージ群を見せつけられると、逆に妙な快感が生じてくるのが不思議だ。
秦雅則の作品はどう見てもおさまりが悪い。だが、逆にいつでも分析・分類が不可能であることの凄みを感じてしまう。

2011/09/06(火)(飯沢耕太郎)

Signs of a Struggle: Photography in the Wake of Postmodernism(苦闘のしるし──写真にみる)

会期:2011/08/11~2011/11/27

ヴィクトリア&アルバート美術館 ギャラリー38A[ロンドン]

1970年代半ばから今日にかけての約30年間にわたる、写真におけるポストモダニズム的アプローチについて探求する企画展。シンディ・シャーマンやリチャード・プリンスからアン・ハーディ、クレア・ストランドらの作品が展観されていて、小規模な展示ながら見応えがあった。ポストモダニズムとは、モダニズムの価値観に対抗する、文学・建築・デザイン・思想の複数領域に幅広く及んだ文化現象。では、写真にみられるポストモダニズム的表現の手法はどのようなものか? ひとつが、「引用・パロディ・流用(アプロプリエーション)」で、イメージにしばしば文字が混入される。例えば、D・ホックニーの《写真の死》は、観者を惑わすさまざまな仕掛けに満ちている。二つの同じ、花瓶に入ったひまわりが並置される。が、ひとつは実物、その隣にあるのは作家によって描かれた絵。そこには子どもが書くような文字で「早くよくなってね」と貼り紙が添えられる。この「ひまわり」とは、まさにあのゴッホ作品の引用である。そのほか、自然に技巧を入り混ぜる手法や、念入りな場面構築を行なう手法など。例えば、ストランドの連作《苦闘のしるし》は、警察の科学捜査班が犯罪現場で撮影した証拠写真を思わせる作品。観者はこれらの作品と向き合うとき、その意図的な曖昧さとコンセプトとに、深く考えさせられ/ときには愉快な気分に/また冷めた気持ちともなり/そのイメージの前で宙吊りにされるだろう。なお、同館では大規模な企画展「Postmodernism: Style and Subversion 1970 1990(ポストモダニズム──様式と転覆 1970-1990)」が9月27日から開催される。ポストモダニズム──デザイン史で現在、もっとも論議を呼ぶテーマといえる──を振り返る同館初めての展覧会であるから、大いに期待される。[竹内有子]

図版:クレア・ストランド《苦闘のしるし》シリーズ、ゼラチン・シルバー・プリント、2002

2011/09/02(金)(SYNK)

齋藤亮一「佳き日」

会期:2011/08/27~2011/09/06

コニカミノルタプラザ ギャラリーC[東京都]

齋藤亮一はこれまでバルカン半島、中央アジア、キューバ、インドなど、世界中を旅して写真を撮り続けてきた。あまり目的のある旅ではなく、人々や風景との偶然の出会いを、精度の高いスナップショットの技術で写し止めていく。写真展の開催や写真集の刊行もコンスタントに積み上げており、優しく温かみのあるその作品世界は完成の域に達している。だが逆にここ数年、どこか吹っ切れない思いが強まっていたのではないかと想像できる。真面目な作家だけに、これから先どのように写真を撮り続けていくのかという悩みもあったのではないだろうか。その答えが、今回の展示で完全に出たとは言い切れない。だが、壁にカラーピンで無造作に留められた写真を眺めているうちに、齋藤が何かを みかけているように思えてきた。
今回のシリーズ「佳き日」のテーマになっているのは、「日本の各地に脈々と受け継がれてきた『はれ』の日」の情景である。青森県の八戸えんぶりから香川県の中山農村歌舞伎まで、全国の祭りや民間行事を丹念に撮影している。日常生活のなかに押し込められていた「佳きエネルギー」が爆発するようなそれらの写真を包み込むように、「はれ」の日のなかの「はれ」の日というべきお花見の場面が並ぶ。それを見ると、咲き誇る桜の花が、やはりどこか心をワクワクさせるような不思議な力を秘めていることがよくわかる。これらの写真を通じて齋藤が確認しようとしているのは、やや月並みな言い方になってしまうが、日本人の感性のルーツ1だろう。世界中を回遊する日々の果てに、もう一度写真家としての原点に回帰したいという思いに至ったのではないだろうか。
人々の晴れやかな笑顔を見ていると、これらの写真の持つ意味がやはり震災後に切実なものに変わってしまったと感じざるをえない。かまくら(秋田県)、みちのく芸能祭り(岩手県)など、東北地方で撮影された写真が多かったので、そう感じたのかもしれない。この時期だからこそ発表したかったという齋藤の気持ちが伝わってきた。なお写真展にあわせて、手にとりやすい同名の写真集もパイインターナショナルから刊行された。

2011/09/01(木)(飯沢耕太郎)

谷敦志「ポップでフェティッシュな日常が今日もダラダラ続く!」

会期:2011/08/27~2011/09/05

ポスターハリスギャラリー[東京都]

大阪出身の谷敦志は、今どきむしろ絶滅種に近いフェティッシュ=エロティシズム系の写真家。『BURST』『夜想』『トーキングヘッズ』などの雑誌を舞台に、耽美的で危ない写真作品を発表し続けてきた。近年は音楽や演劇関係のジャケットやポスターの仕事も精力的にこなしており、コアなファンも多い。
今回の展覧会のタイトルが、彼の現在の心境をよく示していると思う。「ポップでフェティッシュな日常が今日もダラダラ続く!」。自分でも「B’zの歌詞みたい」といっていたが、半ばやけくそでこのうっとうしい時代を突っ走っていきたいという気概と覚悟が感じられる。たしかに以前のエロスのダークサイドのうごめきを探り当てようとしていた作品と比較すると、今回のシリーズには「ポップでフェティッシュな」気分が強調されている。大阪人らしく、こてこての笑いを取ろうという意欲も感じられる。
とはいえ、ラテックス製のチューブを巻きつけた奇妙な衣裳に身を包み、どぎついメーキャップを施され、ぎくしゃくしたマネキン人形のようなポーズをとらされている人物たちから透けてくるのは、どす黒い血の匂いであり、時代の暗部をぎりぎりまで抉り続けようとする姿勢にはまったく揺らぎがない。この「Coolでおバカで大丈夫な写真たち」が、ふたたびまったりと弛緩しつつある震災後の日常に、非日常的な裂け目を入れ続けることを期待したい。さらに走り続けていくと、もっととんでもない写真の世界が見えてきそうな予感もする。

2011/09/01(木)(飯沢耕太郎)