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写真に関するレビュー/プレビュー

「こどもの情景──戦争とこどもたち」展/「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」展/「世界報道写真展2011」展

東京都写真美術館[東京都]

3つの写真展が開催されていたが、いずれも非常時をテーマにしていた。「こどもの情景──戦争とこどもたち」展は意外におもしろく、社会が起す過酷な状況において、社会経験の少ない子どもがどう反応するかを考えさせられる。「ジョセフ・クーデルカ プラハ1968」展は、街が闘争の場となる歴史的な事件の貴重な現場写真だが、パネルの画質が粗く、もっと良いクオリティで見たかった。「世界報道写真展2011」展は、世界各地の悲惨な出来事を記録している。今はどうしても日本の悲劇に目を奪われがちだが、世界にはわれわれが知らなかった事件や災害があまりにも多い。その後、初台に移動し、ホンマタカシの「ニュー・ドキュメンタリー」展を見たが、金沢21世紀美術館とは逆の順番で構成されていた。ベタなドキュメンタリーとは一線を画する世界の切りとり方である。

2011/06/12(日)(五十嵐太郎)

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ZINE/BOOK GALLERY

会期:2011/05/07~2011/07/15

宝塚メディア図書館[兵庫県]

簡易印刷、簡易製本の手作りアートブックが、いつのまにか「ZINE」と呼ばれるようになり、注目を集めはじめている。「ZINE」を集めて展示したり販売したりするイベントも、いろいろな場所で行なわれるようになってきた。
写真集の図書館や映像・写真のワークショップなどを運営している宝塚メディア図書館で開催された「ZINE/BOOK GALLERY」は、おそらく関西でははじめての本格的な「ZINE」のイベントだろう。募集期間があまりなかったにもかかわらず、個人とグループを含めて96人、231冊が集まったというのは、まずは成功といえそうだ。6月11日には出品者のうち20名余りが集まって、トークイベントが開催された。僕も司会役で参加したのだが、こういう出品者同士の交流の機会が持てたことはとてもよかったのではないかと思う。お互いにどんな「ZINE」をつくっているのか確認できて、いろいろな刺激を受け、今後の制作活動に活かすことができるからだ。
ただ、出版物のレベルという意味では、まだまだという印象だった。パソコンを使ったデザイン・レイアウトが簡単にできるようになり、プリンターの性能が上がったことで、「ZINE」を実際に制作するうえでのハードルはかなり低くなっている。それが安易な垂れ流し的な表現につながっていることは否定できない。また、プライヴェートな日常の断片を無作為に綴っていくような「写真日記」的な造りの「ZINE」があまりにも多すぎるのも気になる。リラックスと緊張感をうまく使い分けて、写真集としてのクオリティを上げていってほしいと思う。
会場に並んでいた「ZINE」のうち、個人的には櫻井龍太の『姉とモモンガ』が面白かった。大阪人らしいサービス精神と語り口のうまさが、軽やかな写真の構成に活かされている。中国出身の劉通の『jin』にも別な意味で注目した。「jin」は「ZINE」ではなく「神、仁、人」のことだという。神話的な原風景を探し求める営みが、震えるような手触り感のあるモノクローム写真に封じ込められている。これら、あまりにも対照的な二つの写真集が、同じテーブルにほぼ隣り合って並んでいるのも、こういうイベントの醍醐味だろう。

2011/06/11(土)(飯沢耕太郎)

写真家・東松照明 全仕事

会期:2011/04/23~2011/06/12

名古屋市美術館[愛知県]

会期ぎりぎりで、なんとか間に合って見ることができた「写真家・東松照明 全仕事」展。タイトル通り、デビュー作の《皮肉な誕生》(1950)から、沖縄・那覇をデジタルカメラでスナップした近作まで、名古屋市美術館の全館を使って500点以上の作品が並ぶ大規模展である。「記憶の肖像、廃墟の光景」「占領/アメリカニゼーション」「投影──時代と都市の体温」「長崎──被爆・記録から肖像へ」「泥の王国」「太陽の鉛筆──沖縄・南島」「“他者”としての日本への回帰──京・桜」「“インターフェイス”──撮ることと作ること」という8部構成は、東松の代表作を時間軸にそってほぼ全部フォローしており、ここまでかゆいところに手が届くような展覧会は、これまでなかったのではないだろうか。
ただ、これだけの量になると、観客は互いに衝突し、さまざまな方向に伸び広がり、飛び散っていくイメージのカオスに巻き込まれてしまって、ほとんど呆然としてしまうしかない。僕のように東松の作品をずっと見続けてきた者でもそうなのだから、初めて彼の写真に接するような観客にとっては、「この写真家は何者なのだ?」という疑問が深まるだけではないだろうか。むしろ、もう少しテーマを絞り込み、たとえば最後のパートで提示された「撮ることと作ること」という、東松の、対立的でありながらどこかつながってもいる問題意識に焦点を合わせて展示全体を再構築していくのも面白かったかもしれない。《ゴールデン・マッシュルーム》(1990~92)、《キャラクター・P 終の住処》(1996~98)、また1960年代に制作された《オリンピック・カプリッチオ》(1962)、《廃園》(1964)といった、いわゆる「メイキング・フォト」系の作品群については、これまであまり系統立ててきちんと論じられてこなかったからだ。それにしても、見れば見るほど謎が深まっていく東松照明という写真家の、どこか狂気じみた迷宮性を、あらためて強く感じざるをえない大展覧会だった。

2011/06/10(金)(飯沢耕太郎)

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文士の肖像

会期:2011/04/25~2011/07/01

ノエビア銀座ギャラリー[東京都]

昭和を代表する写真家である濱谷浩、林忠彦、田沼武能が文士を撮影した肖像写真を見せる展覧会。小規模とはいえ、同じく昭和に活躍した文士の肖像写真はいずれも味わいのあるものばかりで見応えがあった。その味が撮影の技術に由来しているのか、それとも被写体となった文豪たちの顔の造作や所作の美しさに起因しているのか、よくわからなかったが、おそらく両方が混在しているのだろう。写真の傍らに添付された撮影時のエピソードを綴ったテキストも、その味わいによりいっそう深みを増していたようだ。自宅の玄関口にかけた札に「世の中で人の来るこそうれしけれ、とはいふもののお前ではなし」と記した内田百聞の言語的感性こそ、無駄口だけで安易に他者とつながりたがり、自己目的化したコミュニケーションに現を抜かしている現代人に、もっとも欠落した品性である。言葉の密度を取り返したい。

2011/06/09(木)(福住廉)

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瀬戸正人「binran」

会期:2011/06/03~2011/06/26

BLD GALLERY[東京都]

瀬戸正人の「binran」のシリーズは、2008年にリトルモアから写真集として刊行されている。これまで、瀬戸自身が運営するPLACE Mで展示されたことはあるのだが、写真集を含めてそれほど評判にはならなかった。僕は以前からなかなか面白い仕事だと思っていたので、銀座のBLD GALLERYであらためてきちんと見る機会ができたのはとてもよかったと思う。
ビンラン=檳榔とは、台湾をはじめ東南アジア各国で広く嗜好品として用いられる木の実のことだ。ずっと んでいると赤い汁が出てきて、噛みタバコのような軽い神経の興奮を覚える。若い女の子を売り子に、そのビンランの実を売る小さな店が、1990年代以降、台北などの都市の郊外に急速に増えてきた。瀬戸が集中して撮影したのは、四角いガラスの金魚鉢のようなブースに、ミニスカートの、あられもない格好をした女性たちが座って客を待っている、その「ビンラン・スタンド」の光景である。
瀬戸の代表作であり、1996年に木村伊兵衛写真賞を受賞した「部屋」のシリーズもそうなのだが、彼の手法は「ディテール主義」とでも名づけることができるだろう。大判、あるいは中判カメラの克明な描写力を活かして、それほど広くない空間を、文字通り細部まで舐めるように撮影していくやり方だ。その手法はこの「binran」でも見事に活かされていて、カラー・プリントにくっきりと浮かび上がってくる、女の子たちのきらびやかだが哀切感が漂う衣裳、幼さと開き直りが同居する表情、中・洋折衷のキッチュなインテリアなどの取り合わせが実に面白い。西欧的なポップ・カルチャーが土着化していく過程の見事な実例といえるだろう。なんとも奇妙なたたずまいの「ビンラン・スタンド」それ自体が、現代美術のインスタレーションのようにも見えてくる。

2011/06/07(火)(飯沢耕太郎)