artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

吉野英理香『ラジオのように』

発行所:オシリス

発行日:2011年3月10日

ブリジット・フォンテーヌの名曲をタイトルにした吉野英理香の新作写真集の巻末には、2009年1月から2010年7月までの日記の抜粋がおさめられている。それがめっぽう面白くて、つい読みふけってしまった。かったるいような、妙に冷めたような文体がなかなか魅力的だ。
その2010年1月3日(日)に、次のような記述がある。
「本庄に帰る高崎線の二つ手前の深谷あたりで、車窓に流れる景色を見ながら、写真をカラーにしてみようと思いつく。暗室もいらないし、現像液をつくったり、使用後の液を捨てたり、あの煩わしい作業がなくなることを考えたら、なんて身軽なことか。」
写真家が何かを変えていくきっかけは、こんなふうに何気なくやってくるということだろう。吉野はそれまでのモノクロームフィルムをカラーに変えて撮影しはじめる。日々出会った雑多な場面を積み上げていくやり方に変わりはないが、そこにはどことなく「身軽な」雰囲気があらわれてきている。調子っぱずれの色や形が散乱する画面は、以前のモノクロームのスナップよりも風通しがよく、軽快なビートで貫かれているように見える。
日記と写真を照らし合わせてみると、吉野の、独特の角度を持つ観察眼も浮かび上がってくる。2010年5月29日(土)の記述。豆腐屋で自分の前に並んでいた「白いノースリーブのブラウスを着た女性の、内側に着ているキャミソールの白と黒の紐がどこまでも延々とねじれていく」。この通りの場面が写っているのだが、たしかにそのねじれたキャミソールの紐から眼を離せなくなってしまう。写真と文章をもっと積極的に併置してみるのも面白そうだ。

2011/05/09(月)(飯沢耕太郎)

中村紋子「Silence」

会期:2011/05/07~2011/06/05

B GALLERY[東京都]

中村紋子から届いたDMに「マジメな写真展します」と添え書きしてあったので、どういう展示なのかと思って見に行った。というのは、中村は以前『週刊あやこ』というイラスト、写真入りの小冊子を発行したり、ピンク色の長い耳をつけたサラリーマンたちの演出的なポートレート「ウサリーマン」のシリーズを発表したりしていて、どちらかといえば「マジメ」にはほど遠い作風だったからだ。
「Silence」はたしかに張りつめた緊張感が漂う、「マジメ」な作品群だった。雲、花、魚群、水面の波紋、空を行く鳥の影など、自然を写している写真が多いのだが、動物の剥製、遊覧船の老夫婦、眠る女性の横顔なども含まれている。生まれたばかりの赤ん坊の写真もあるが、そこにも産声や身じろぎの気配はなく、どこか標本めいた沈黙が画面を支配している。楽しくて、元気いっぱいの印象が強かった中村にこんな一面があったことはたしかに意外であり、本人もそれを「二面性」という言い方で認めている。写真家としての表現力の高さは、このシリーズにも充分に発揮されているのだが、やはり違和感が残る。おそらく何かきっかけがあれば、その極端に引き裂かれたふたつの世界が融和し、溶け合うことがあるはずだ。中村自身は、その時期はかなり先のことと思っているようだが、そうともいえないのではないだろうか。それこそ「マジメ」にふたつの世界の線引きなどせずに、時々気軽にひょいと越境してみるといいと思う。中村の「笑えない」作品をずっと見せられるのは少し辛い。
展覧会と同時に『Silence』(リブロアルテ、発売=メディアパル)も刊行された。小ぶりだが、しっかりと編集された写真集だ。

2011/05/08(日)(飯沢耕太郎)

ホンマタカシ「between the books[Mushroom…]」

会期:2011/05/02~2011/05/15

LimArt[東京都]

ホンマタカシからの嬉しいプレゼント。東京オペラシティアートギャラリーの「ニュー・ドキュメンタリー」展(4月9日~6月26日)のカタログの巻末に掲載されていたきのこの写真を見て「これは!」と喜んでいたのだが、意外に早くLim Artでの展示が実現した。
僕らきのこフリークにとって、きのこの写真が掲載されている図鑑類はとても大事なアイテムだ。だが写真評論家として見れば、図鑑はあくまでも図鑑であり、たしかに生態的には正確に描写されてはいるが、表現としてのふくらみにおいては物足りない。写真作品としてのクオリティの高さと、きのこの生きものとしての魅力を両方とも満足させてくれるようなきのこ写真がないものかと、以前からずっと思っていたのだが、それが本当に実現した。ホンマタカシの手法は、まさにきのこたちの姿を繊細に描写したポートレートといえるだろう。白バックに一体ずつ精妙なアングルで捉えられ、土や枯れ草がついた根元の菌糸の部分にまでしっかりと目配りされた写真群は、実に愛らしく、しかも凛とした生命力にあふれている。僕にとってのホンマの最高傑作は、1990年代に『S&Mスナイパー』誌に連載された「Tokyo Willie」のシリーズだったのだが、ついにそれを超える作品が登場したといえるだろう。
展示にも工夫が凝らされている。「between the books[Mushroom…]」というタイトルは、アート関係の洋書古書店であるLim Artの本の間に、きのこの写真が並んだり挟み込まれていたりしている展示にぴったりしている。まさに「書棚のきのこ狩り」の気分を味わわせてくれるのだ。写真にはきのこのほかにトケイソウのような植物や山や森の風景も含まれている。それはそれで悪くはないのだが、わがままを言えば、今回はきのこだけに絞ってほしかった。

2011/05/08(日)(飯沢耕太郎)

松本典子『野兎の眼』

発行所:羽鳥書店

発行日:2011年4月15日

奈良県吉野郡天川村。まだ行ったことはないのだが、以前からずっと気になっていた。紀伊半島のほぼ中央に位置し、龍神信仰で知られる大峯山龍泉寺があるこの村は、その名の通り天から流れ落ちる水がゆるやかに巡って、森羅万象を生気づけているような場所なのではないかと思う。写真を撮影する条件はいろいろあるが、土地そのものが発するパワーを、どんな風に受けとめて投げ返すのかも大事なポイントになるのではないか。この天川村に住む少女を撮り続けた松本典子の写真集『野兎の眼』を見ながらそんなことを考えた。
松本は1997年頃、村の秋祭りで14歳の少女に出会った。その瞬間に「何か大きなものにつながっている」気がして、思わず「10年間写真を撮らせて」と話しかけていたのだという。彼女の両親が東京から天川村に移り住んでいたこともあって、それから帰省するたびに待ち合わせて、年に1~2回くらいのペースで彼女を撮影し続けていった。まだ幼さが残っていた少女はみるみるうちに成長し、妖艶な大人の女性になり、結婚し女の子を産む。その10年間のめまぐるしい変化とともに、おそらく千年、二千年といった単位でゆるやかに移り動いていく森や大地や海のたたずまいが対比的に捉えられている。とはいえ、少女も自然もどっしりと安定しているのではなく、微かに震えながら明滅を繰り返しているような「生きもの」として見えてくることには変わりはない。写真集を見た後もその余韻は続いていて、なんだか舟旅を終えた後のように、体に揺らぎが残っている気がしてくる。たしかに「10年」という区切りはつき、写真集も見事に仕上がったのだが、まだここで完結したという感じがしないのだ。少女とその娘の行く末を見つめ続けることで、さらなる「天川サーガ」を編み上げることはできないのだろうか。

2011/04/30(土)(飯沢耕太郎)

石井孝典「Nio ヤドリの石」

会期:2011/04/13~2011/05/28

TRAUMARIS SPACE[東京都]

NADiff Galleryの上のTRAUMARIS SPACEでは、石井孝典の個展が開催されていた。石井孝典の母方の祖母が暮らしていた香川県三豊郡仁尾町(現三豊市)の古い家を、6×6判のカメラで撮影したシリーズである。
石井孝典は小説家のいしいしんじの実弟であり、この仁尾の家についてはいしいの「小四国」(『熊にみえて熊じゃない』マガジンハウス、2010年所収)というエッセイに以下のように描写されている。
「それは広大な屋敷で、土蔵が二棟建ち、昔綿羊を飼っていたという菜園、日本庭園がふたつあり、昔の田舎屋敷がどこもそうであるように、家のなかでまだ足を踏み入れたことのない部屋が土間の向うや向い屋敷の奥にいくつもあった。昼間は海やすいかや鱚やでそこらじゅう喧しいが、夜は便所までの長い回廊が子ども心におそろしく、半透明に浮きあがるなにかの影を石灯籠や古いガラス面の上に幾度も見たとおもった。綿羊がいた菜園に、母の記憶によると戦前には象がいた」
石井孝典がここ10年ほどかけて、何度も通い詰めて撮影したという土蔵のある「広大な屋敷」の写真群を見ると、まさにこのいしいしんじの記述の通りの眺めで、その中に誘い込まれ、吸い込まれていくように感じた。庭のあちこちに石やら壷やら瓶やらが転がっていって、それらが大地から生え出しているように見えるのが実に興味深い。まさにアニミスムの生気に満たされた空間であり、屋敷そのものが神寂びた生き物のようにうごめき、いまなお不可思議な気配を発しているのだ。この屋敷を横糸に、それにまつわる家族の歴史を縦糸にして、さらに複雑な絵模様の写真シリーズを織り上げていけそうな気もする。

2011/04/28(木)(飯沢耕太郎)