artscapeレビュー

写真に関するレビュー/プレビュー

やなぎみわ「婆々娘々!(ポーポーニャンニャン)」

会期:2009/06/20~2009/09/23

国立国際美術館[大阪府]

大阪の国立国際美術館のやなぎみわ展。なんとルーブル美術館展と同時開催ということで、お客の入りを心配したのだが、日曜日ということもあってけっこうにぎわっていた。今回は旧作の「マイ・グランドマザーズ」「フェアリー・テール(寓話)」シリーズに加えて、6月7日から開催されているヴェネチア・ビエンナーレにも出品されている新作「ウインドスェプト・ウィメン」シリーズが、国内で初公開されている。
「マイ・グランドマザーズ」はさっと流し見。「フェアリー・テール」のシリーズは、やはりとても魅力的な作品であると感じた。イノセントと残酷さに引き裂かれた少女性が、説得力のある物語として練り上げられている。「ウインドスェプト・ウィメン」も面白い。世界に嵐と破壊をもたらす「風の女神」たちの群像だが、モノクロームの巨大プリントが効果的で、見る者の心を揺さぶる力がある。ただ、特設のテントの中で上映されている映像作品の出来栄えはもう一つか。メイキング映像としての意味合いしか感じられなかった。それにしても、やなぎみわの真骨頂は物語性の強い神話世界の構築にあることを、あらためて確認することができた展示だった。

2009/06/28(日)(飯沢耕太郎)

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さよなら ポラロイド

会期:2009/06/16~2009/06/27

ギャラリー井上[大阪府]

昨年、ポラロイドフィルムの製造中止と言うニュースが伝わったとき、ショックを受けた人も多かっただろう。あの独特の質感、すぐに結果が見られるという特徴を持つポラロイドは、写真家たちの創作意欲を大いに刺激してきた。日本でも荒木経惟、森山大道などがユニークな作品を発表している。映像作家で多摩美術大学教授の萩原朔美もポラロイド愛好家の一人で、製造中止の一報を聞いて「何かひとつ時代の終焉を告げる木霊」を感じとり、「消え去るフィルムにさよならを言うために」と展覧会を企画した。昨年10月に、東京・阿佐ヶ谷のギャラリー煌翔で、27人が参加して第一回目の「さよなら ポラロイド」展を開催。今年は6月6日~14日の京都展(カフェショコラ)に続いて大阪展も開催された。その間に参加者は55名になり、最終的には100人にまで増やす予定だという。
萩原が教えている多摩美術大学の関係者である鈴木志郎康、高橋周平、港千尋、石井茂、神林優らに加えて、榎本了壱、森山大道、山崎博、屋代敏博、鈴木秀ヲなど出品者の顔ぶれもなかなかユニークである。実はぼく自身も「きのこ狩り」というちょっと変な作品を出品している。どうやらポラロイドには、撮り手を面白がらせ、エキサイトさせる不思議な力が備わっているようだ。全体的に遊び心を発揮した作品が多くなってくる。ポラロイドフィルムの存続を望む声は世界中で高まっており、最新情報によると、どうやらアメリカのグループがオランダの工場を買収し、2010年中にポラロイドの発売をめざすプロジェクトを展開中という。そうなると「こんにちは ポラロイド」展も企画できるのではないだろうか。

2009/06/27(土)(飯沢耕太郎)

躍動する魂のきらめき─日本の表現主義

会期:2009/06/23~2009/08/16

兵庫県立美術館[兵庫県]

本展は、1910~20年代(主に大正時代)に起こった前衛的な美術運動を、内面の感情や生命感を表わしたとして“日本の表現主義”と位置付け、約350点の美術・工芸・建築・演劇・音楽作品等で明らかにしようとするもの。同様のテーマで思い出されるのは1988年に開催された「1920年代日本展」だ。実際、出品物にも重複が多々見られるが、“日本の表現主義”とカテゴライズして一歩踏み込んでいるのが今回の特徴である。そのため、萬鐡五郎、村山知義、神原泰といった代表的な作家だけでなく、黒田清輝、富本憲吉など従来の感覚では当てはまらない作家も、表現主義的傾向が見られる例として出品されている。それゆえ記者発表時に、「表現主義を名乗ることは妥当か?」「作家の選定に納得できない」といった議論が起こった。そうした疑問にどう応えていくかは研究者の今後の課題であろう。それはともかく、枷から解き放たれて激情が噴出したかのごとき作品群は、今なおキラキラと輝いて見える。前述の課題はあるものの、図録の出来栄えも含め、十二分に魅力的な展覧会であった。

2009/06/23(火)(小吹隆文)

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プレス・カメラマン・ストーリー

会期:2009/05/16~2009/07/05

東京都写真美術館2階展示室[東京都]

「プレス・カメラマン」という言葉は、やや複雑な思いを引き出してしまう。第二次世界大戦中から戦後にかけては、新聞社や雑誌のカメラマンは時代の花形で、社会的な影響力も大きかった。写真を職業として志す若者の多くが、ロバート・キャパや沢田教一のような戦場カメラマンに憧れた時代があったのだ。だがベトナム戦争以後、報道の主力が写真からテレビやインターネットに移行するにつれて、「プレス・カメラマン」の存在感は次第に薄れていってしまう。今回の展覧会は、その黄金時代を支えていた朝日新聞社の5人のカメラマン、影山光洋、大束元、吉岡専造、船山克、秋元啓一の仕事にスポットを当てるものである。それに加えて、7万点以上に及ぶという朝日新聞社所蔵の「歴史写真アーカイブ」からピックアップされた、日中戦争とベトナム戦争を記録した写真も展示されており、「プレス・カメラマン」の仕事の光と影がくっきりと浮かび上がってきて見応えがあった。
朝日新聞社写真部の「三羽烏」と称された大束元、吉岡専造、船山克の写真を見ると、それぞれの写真家としての資質や姿勢が、作品にもきちんとあらわれている。大束の洒脱な才気、吉岡のドラマ作りのうまさ、船山のしっとりとした詩情──カメラマンの個性はむしろ報道の現場では抑圧されることが多いのだが、この時代の写真家たちは『アサヒカメラ』の口絵ページなどを通じて、自分のスタイルをきちんと確立しようとしている。そのあたりも、報道写真に翳りが見えてくる1970年代以降にはむずかしくなっていったということだろう。3階展示室で同時に開催された「旅 第一部東方へ」を見ても感じたのだが、東京都写真美術館の収蔵品を中心とした展覧会も、けっこう面白いものが増えてきた。学芸員たちに、手持ちの札を上手に使いこなす力量がついてきたということだろう。

2009/06/21(日)(飯沢耕太郎)

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島尾伸三「中華幻紀──WANDERING IN CHINA」

会期:2009/06/13~2009/06/21

PLACE M[東京都]

2008年に刊行された写真集『中華幻紀』(usimaoda 発売=オシリス)からピックアップした展示。もう20年以上も前の写真が多いので、フィルムが劣化し、プリントの全体に淡い緑色の薄膜のようなものがかかっている写真が多い(展示用のラムダプリントの制作は台湾で行なわれた)。だがそれが、逆に記憶のなかで色褪せていく光景を目で愛でているような、微妙な質感を醸し出している。ふらふらと漂うヒトやモノが、実体を失った心霊写真のようにも見える。中国の各都市の、どちらかといえば猥雑な情景が、「聖なる」と言いたくなるようなほのかな微光を放って見えてくるのは、島尾の「そのように見たい」という願望のあらわれだろうか。
プリントした作品の選別は、ギャラリーを主宰する瀬戸正人によるものという。悪くないが、島尾自身が選ぶと、もっと歪んだバイアスがかかった面白いものになったのではないだろうか。あわせて写真集に掲載されていた、たとえば「透過光/いつまでも飢餓感を抱いて景色を眺め、」「演出空間/実存さえも未発見気体(エーテル)のように手応えのなく、」といった、魔術的なレトリックを駆使したキャプションが割愛されているのが惜しまれる。

2009/06/17(水)(飯沢耕太郎)