artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
山崎弘義「DIARY」

会期:2009/08/20~2009/09/06
UP FIELD GALLERY[東京都]
山崎弘義は1956年生まれ。1980年代に森山大道に師事し、ストリート・スナップを中心に発表してきた。だが父や母の介護のため、写真活動を断念せざるを得ない状況に追い込まれ、今回が12年ぶりの個展になる。「DIARY」は2001年9月4日から、認知症の母のポートレートと自宅の庭の一隅を、毎日「日記的に」撮影し続けたシリーズである。母が亡くなる2004年10月26日まで、全部で1,149カット撮影され、会場にはそのうち40点(2枚組)が展示してあった。
ちょうど台風の大風と大雨が吹き荒れる日だったのだが、展示の雰囲気はとても穏やかで、優しい空気に包み込まれている。この種の「闘病もの」の写真にありがちな押し付けがましさが感じられず、山崎が祈るようにこの2枚だけを毎日撮影していった、その行為の痕跡が淡々とそこに置かれているのだ。とにかく必死に2カットを撮るだけでせいいっぱいで、他にシャッターを切る余裕はまったくなかったのだそうだ。むしろそのことが、過剰な感情移入をうまく回避することにつながったのではないだろうか。
展示はこれでいいが、1,149カットの厚みを体現できるような写真集も見てみたい。写真集を通常の形で印刷・出版するのは物理的に無理そうだが、出力したプリントを綴じ合わせるような私家版の形ならできそうな気もする。ぜひ実現してほしい。
2009/08/31(月)(飯沢耕太郎)
長谷良樹 展《THE HAPPINESS WITHIN》

会期:2009/08/15~2009/08/29
ギャラリーヤマキファインアート[兵庫県]
ニューヨークのイーストビレッジにあるHIVや薬物中毒者の施設で、アートセラピーとして撮影された写真作品。施設に入所している人々のポートレイトと、彼らの自筆テキストがセットで展示されている。困難な状況下でもポジティブに生きる人間の姿に心打たれた。長谷と被写体が心を通わせるまでには相当の時間と忍耐が必要だったと察せられるが、その苦労は見事に印画紙上に昇華されている。
2009/08/28(金)(小吹隆文)
『野島康三写真集』

発行所:赤々舎
発行日:2009年7月17日
かえすがえす残念だったのは、京都国立近代美術館の「野島康三 ある写真家が見た日本近代」(2009年7月28日~8月23日)を見過ごしてしまったこと。ついもう少し長く会期があるように錯覚していて、気がついたら展示が終わっていたのだ。展覧会とほぼ同時期に、赤々舎から写真集が出ているので、そちらを取り上げることにしよう。
野島康三(1889~1964)は、いうまでもなく日本の近代写真の創始者の一人。写真家として重厚なヌードやポートレートで高度な表現領域を切り拓くとともに、洋画専門の画廊、兜屋画堂の経営(1919~20)、月刊写真雑誌『光画』の刊行(1932~33)など、日本の戦前の芸術・文化の状況に重要な足跡を残した。本書は京都国立近代美術館に保存されている彼の作品のほとんどすべてをおさめた、決定版といえる写真集である。ページをめくれば、野島が日本の写真家にはむしろ珍しい、強靭な視線と骨太の造形力の持ち主だったことがわかるはずだ。以前、アメリカの「近代写真の父」アルフレッド・スティーグリッツと野島の作品が並んで展示されているのを見た時、野島の方が圧倒的に力強いオーラを発しているのに驚嘆したことがある。今回の写真集及び写真展では、これまであまり注目されてこなかった『光画』以後の、技巧をこらしたモード写真や静物写真、また彫刻家・中原悌二郎や陶芸家・富本憲吉の作品集のために撮影された写真などにもスポットが当てられている。野島の作品世界の全体像がようやく姿をあらわしてきたといえるだろう。
写真集のレイアウトで気になったのは、初期の「にごれる海」(1910~12頃)など、「芸術写真」の時代の名作のいくつかが、断ち落としで掲載されていること。このように画面の端が切れてしまうと、絵画的な、厳密な美意識で為されていたはずのフレーミングがわかりにくくなってしまうのではないだろうか。
2009/08/27(木)(飯沢耕太郎)
後藤剛「日日日日。2001─2008」

会期:2009/08/17~2009/08/30
蒼穹舎[東京都]
後藤剛は1970年生まれ、大阪在住のアマチュア写真家だが、2000年代初頭から街歩きのスナップ写真を撮り続けてきた。今回の展示は蒼穹舎から同名の写真集が刊行されたのをきっかけにして、これまでの作品をまとめたもの。大阪・兵庫を中心にどこか「昭和」の匂いのする光景が写しとられている。「斜陽」という言葉がふと頭に浮かぶ。別に西陽の写真がとりたてて多いわけではないのだが、夕方の、闇が迫ってくる時や季節の哀感が、写真全体から滲み出ているように感じるのだ。また、どうしても尾仲浩二の旅のスナップを思い出してしまう。被写体に対峙する距離感が共通しているのだろう。画面の細部からわらわらと湧き出てくる、建物や通行人たちの表情がなかなか味わい深い。もう既にスタイルとしては確立しているので、これくらいの質の写真はいくらでも撮れるのではないか。とすると、もう少し違ったテーマにチャレンジしてもいいのではないだろうか。
2009/08/23(日)(飯沢耕太郎)
松本陽子/野口里佳「光」

会期:2009/08/19~2009/10/19
国立新美術館[東京都]
絵画と写真、2人の女性アーテストによる2人展。松本に「光は荒野のなかに輝いている」(1992~93)というシリーズがあり、野口にも「太陽」(2005~08)というシリーズがあるなど、一応「光」というテーマがゆるく設定されているが、実際には2人の独立した回顧展といってよい。
野口は1990年代の「フジヤマ」(1997)から近作の「虫と光」(2009~)まで、意欲的に作品の幅を広げ、ライトテーブルを使ったインスタレーション(「白い紙」2005)や、島袋道浩との共同制作のビデオ作品(「星」2009)などさまざまな手法にチャレンジしはじめている。ちょうど伊島薫の太陽の作品を見た後だったのでより強く感じたのだが、照明を暗く落とした部屋に、スポットライトをあてて作品を見せる「太陽」のインスタレーションなどを見ると、野口と伊島の世代では、展示の意識と仕上げにかなり差がついてしまっているように感じる。90年代以降、印刷媒体からギャラリーや美術館での展示に作品の最終的な発表の媒体が変わったことの影響とその消化のあり方の違いが、端的にあらわれてきているのだ。
もう一つ松本の作品を見ながら考えたのは、同じく「光」を扱うにしても、絵画と写真ではその見え方が違ってくるということ。絵画は「光」を現在形で、その生成や変化の相でとらえることができるのに対して、写真はどうしても過去形、「かつてあった出来事」としてしか定着することができない。それを何とか「生まれつつある」形で提示するために、野口はさまざまな工夫を凝らしている。ブレ、ボケ、滲み、ハレーション──論理的で明晰な構造を備えた野口の作品にそのような「揺らぎ」が付加されているのはそのためなのだろう。
2009/08/23(日)(飯沢耕太郎)


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