artscapeレビュー
写真に関するレビュー/プレビュー
『ゼラチンシルバーLOVE』

会期:2009/03/07~2009/04/10
東京都写真美術館 1Fホール他[東京都他]
写真家として長いキャリアを持ち、ピラミッドフィルムの主宰者としてコマーシャル・フィルムも多数製作してきた操上和美の映画監督第一作。主演の宮沢りえの妊娠騒ぎなどもあって話題の映画を、東京都写真美術館のホールで観てきた。
冒頭からいかにも操上らしいクローズアップの質感描写が続く。重厚で切れ味の鋭さをあわせ持つ映像の魅力は全篇に貫かれていて、その点では安心して観ていられる。ストーリーもとても古典的でストイック。見続ける男(カメラマン=永瀬正敏)と見られる女(殺し屋=宮沢りえ)が、永遠に交わらない平行線のような関係を延々と続け、その間に彼女の姿を盗撮した映像に対する男の欲望が異様に昂進していくと言う筋立ては、あまり新鮮さはないがきちんと練り上げられている。ただ映画の後半になるに従って、男と女が実際にクロスしはじめると、緊密な構成に破綻が生じてくるように感じる。「触れることなく、言葉も交わさずに、愛を昇華する──」というのが映画のチラシの謳い文句なのだが、男も女もかなり饒舌に、互いに言葉をかける場面があるのだ。しかもこれは脚本家の責任だと思うが、セリフが堅苦しく、聞いていてちょっと白けてしまう。
もう一つ、永瀬正敏が自分の作品として撮影している写真がどうもぴんとこない。「なぜこんな黴みたいに気持ちの悪い写真を撮っているのか?」と問われて、「僕はこれが美しいと思って撮っているのです」と答える場面があるが、普通のカメラマンならこんな歯が浮くようなことは絶対にいわないだろう。これまた脚本家が勝手に想像して書いたセリフだと思うが、できれば監督としてチェックしてほしかった。いい脚本家と組めば、もっといい映画ができそう。次作はぜひ笑える映画にしてほしい。今回はコメディアンとして優れた素質を持つ永瀬正敏が熱演しているにもかかわらず、笑いが不完全燃焼。
2009/03/14(土)(飯沢耕太郎)
秋元茂「CRYSTALOGRAPHY」

会期:2009/03/03~2009/04/30
gallery bauhaus[東京都]
「CRYSTALOGRAPHY」というのは「結晶図像学」とでも訳せばいいのだろうか。写真家の部屋の中にいつのまにか集まって来たオブジェ群が、知らぬ間に「結晶化」し、まったく違ったものに変容する瞬間があるのだという。4×5判のカメラを用いて、その瞬間を精妙なバランス感覚で固定した端正な写真が並ぶ。ガラス、木片、楽譜、グラスと水など素材はシンプルだが、「偶然性に出来る限り依存せず、被写体を含めたすべてを自己のコントロールの下に置き、思念を過飽和状態にして結晶化の行為を待つ」という科学者のような態度が貫かれていて、ぴんと張りつめた緊張感がある。秋元茂は博報堂写真部を経てフリーランスで活動するベテランだが、このような職人的な技巧の冴えをきちんと見せてくれる写真家も少なくなってきた。1Fに展示されていた田辺聖子、蜷川幸雄、樹木希林などのポートレートも、隅々まで神経が行き届いていてなかなかよかった。
ところでgallery bauhausに行ったのは、秋元の個展を観るだけではなく、その前の横谷宣展で購入した作品を取りに行くためでもあった。オーナーの小瀧達郎さんと話をして驚いたのだが、なんと横谷の作品は51点(!)も売れたのだという。5万円台という手頃な価格設定ということもあっただろうが、ほとんど無名の写真家の初個展ということを考えると、これは驚くべき数字である。口コミやブログでじわじわと人気が高まり、初めて写真作品を購入するような人が次々に訪れて買っていったらしい。横谷本人の修行僧を思わせる特異なキャラクターもさることながら、やはり彼の写真そのものに力があるということだろう。いい作品はきちんと動く。そのことを証明する快挙といえるのではないだろうか。
2009/03/13(金)(飯沢耕太郎)
小栗昌子「トオヌップ」

会期:2009/03/03~2009/03/31
ギャラリー冬青[東京都]
名古屋出身の小栗昌子は、1999年に岩手県遠野に移住した。『遠野物語』に憧れて夏に旅行したのがきっかけで、たまたま出会ったお祭りや住人たちの佇まいに魅せられ、そのまま居ついてしまった。写真展と同時に刊行された写真集『トオヌップ』(冬青社)の「あとがき」にはこんなふうに書いている。
「……私は心の中にある芯が揺さぶられ、
ひとつの蓋が外されたような気がしたのです。
そして同時に“この場所を撮りたい”と強く思いました。
その時の思いを今でもはっきりと憶えています。
今も胸に抱きつつ、この場所に立っています。」
小栗が書いている「ひとつの蓋が外されたような」感覚を、写真を見るわれわれもまた共有できる気がする。「トオヌップ」の写真に写っている人々や風景からは、始源的な生命力としかいいようのないエネルギーの波動が直接伝わってきて、われわれの閉ざされた心の覆いを取り払ってしまうのだ。こんな光や風に包み込まれて、愛おしく逞しい遠野の人たちとともに暮らしていたい──そんなことを強く思ってしまう。
前作の『百年のひまわり』(Visual Arts、2005)でも強く感じたのだが、小栗昌子の一見オーソドックスで何の変哲もない写真には、不思議な力が備わっている。見ているうちにじわじわとその世界に みとられ、「これでいいのだ」という確信が育ってくるのだ。本当にいい写真家だと思う。彼女が遠野で写真を撮り続けているということを思っただけで心が安らぐ。
2009/03/10(火)(飯沢耕太郎)
鬼海弘雄『Hiroh Kikai: Asakusa Portraits』

発行所:ICP/Steidl
発行日:2008年
鬼海弘雄が1970年代から続けている「浅草のポートレート」の集大成。草思社から2003年に刊行された『PERSONA』を定本に、ニューヨークのICP(国際写真センター)とドイツのSteidl社の共同出版で刊行された。
6×6判のカメラを使い、雷門の無地の壁をバックにたまたま通りかかった人たちに声をかけて真正面から撮影する。何とも味わい深い、一言でいえばとても「濃い」人間たちのコレクションである。こういう写真群を見ていると、八つ当たりで申しわけないのだが、やなぎみわの「マイ・グランドマザーズ」のシリーズがどうしても上滑りで単調なものに思えてしまう。鬼海の仕事はノンフィクションであり、やなぎの作品はフィクション的な虚構の世界の再構築だから、比較しようがないという見方もあるだろうが、本当にそうだろうか。鬼海の「浅草のポートレート」のモデルの大部分は、かなり自覚的な演技者なのではないかと思う。彼らのやや特異な風貌や身振りは、長年にわたって鍛え上げられた“藝”であり、鬼海は雷門に小舞台を設定してその演技を記録しているのだ。それ以前に、写真を撮る─撮られるというシチュエーションが、必然的にモデルを演技者に変身させてしまうということもありそうだ。
「浅草のポートレート」と「マイ・グランドマザーズ」がどちらも演劇的設定によってできあがった作品だとすれば、問われるのはその演技の質ということになるだろう。いうまでもなく前者は人間(というより人類)の生の厚みを感じさせる凄みのある存在感を発しており、後者はどう見ても底の浅いお嬢様芸でしかない。やはりこの分野はやなぎには分が悪そうだ。何度も書くように物語化、記号化を徹底させていくべきではないだろうか。
2009/03/07(土)(飯沢耕太郎)
インシデンタル・アフェアーズ うつろいゆく日常性の美学

会期:2009/03/07~2009/05/10
サントリーミュージアム[天保山][大阪府]
「インシデンタル(日常的な、取るに足らない物事)」をキーワードに選んだ17作家の作品を展覧。宮島達男やウォルフガング・ティルマンスといった有名作家から、ニューカマーの横井七菜までが選ばれており、ジャンルもバラエティ豊か。現代アートの多様な魅力を伝える意図が強調されていた。私にとっては、さわひらき、横溝静、榊原澄人の作品を見られたのが収穫。木村友紀と田中功起の展示もいい感じだった。関西では美術館の現代アート展が明らかに不足しているので、こういう企画はどんどん増やしてほしい。
2009/03/07(土)(小吹隆文)


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