artscapeレビュー
2015年06月01日号のレビュー/プレビュー
横尾忠則 展「カット&ペースト」
会期:2015/04/18~2015/07/20
横尾忠則現代美術館[兵庫県]
1980年代末から90年代初めの時期にかけて描かれた横尾忠則の絵画作品を「カット&ペースト」をキーワードに読み解く展覧会。私たちが日ごろPCで常用する操作「カット&ペースト」を、たんなる手法というより、むしろ芸術上の重要な概念として、横尾が先取りしていたという点が非常に興味深い。そしてこれが、グラフィックデザイナーから出発した彼の職能(版下作りの経験等)に由来しているという。80年代後期の作品は、画面を20センチ幅に切り、古典的絵画や映画等の多様な図像を描いた細長い布を編み物状に貼り付け、元のキャンヴァス上の図像とはまったく異なるコンテクストをもたらす試みを特徴とする。そこでは同時に、切り裂かれた布の物質性を強調するがごとく、垂れ下がった糸やねじって転回された様態で張り付けられ、画面に新しい次元がもたらされていた。90年代になると、CGの技法を用いた作品、「テクナメーション」(テクニックとアニメーションをかけた造語)が登場する。過剰なまでにカット&ペーストされた多様なイメージの集積とアニメのように動く水流で構成される仮想空間は、まるで万華鏡のような効果をもたらしている。ちょうど、DTPがグラフィックデザインに普及したのがこのころ。横尾が創り出す奇想でありながら洗練された概念的なアートに見惚れた。[竹内有子]
2015/05/04(月)(SYNK)
大ニセモノ博覧会──贋造と模倣の文化史
会期:2015/03/10~2015/05/06
国立歴史民俗博物館[千葉県]
毎年、担当するクラスの学生に模倣という行為について悪いことなのか良いことなのか、コメントを書かせている。年によって多少の差はあるが、良いという答えと悪いという答えはだいたい拮抗する。そしてどちらも絶対的に良い、悪いとするのではなく、必ずなんらかの留保がついている。すなわち模倣には良い模倣と悪い模倣があると考えているのだ。良いとする理由について、模倣は創造の源泉であるという真っ当な意見もあれば、好きなデザインの製品をニセモノでもいいから安く買いたいという企業のブランド担当者が聞いたら白目をむきそうな回答もある。とはいえ、憧れの商品を手に入れたいというモチベーションが商業活動を活発化させ、似たものを自分たちで安くつくりたいという要求が歴史的に各国のものづくりを発展させてきたことは間違いない。「ニセモノ」という言葉にはネガティブなニュアンスが含まれているが、じっさいのモノには人間の複雑な欲望と価値観とが絡み合っている。この展覧会もまた、贋造や模倣という人間の営みを善悪に留まらずに多面的に捉えようとする試みだ。
とくに興味深い展示は「見栄と宴会の世界」。客人をもてなす饗宴の席を、その家の主人は書画骨董で演出する。家の格を自慢するためには名のある作家の美術工芸品が必要とされ、そうしたなかにニセモノへの需要があったというのである。はたして主人がニセモノとわかっていてそれを入手したのかどうかはいまとなっては定かではないと言うが、この場合「騙される」のはニセモノの買い手ではなく、もっぱら客人である(しばしば主人の子孫も騙されて、ニセモノのお宝を鑑定団に出品する)。贋作の存在は、ただつくり手、売り手が買い手を騙して儲けるだけのものではない。貝輪(貝をくりぬいてつくった腕飾り)を粘土の焼き物で模倣した「縄文時代のイミテーション」も面白い。なかには多数の貝輪を装着した状態を模した焼き物もある。当時の人たちでもこれらをホンモノとは見違えなかった思うが、それでも似たものを身につけたいという需要は古の時代から存在したのだ。これは上に挙げた「ニセモノでもいいから欲しい」という現代の若者の欲求となんら変わらない。
このように「ニセモノ」の諸相をさまざまな角度から見せてくれる展示であるが、展示の最初に「安南陶器ニセモノ事件」や古今東西の歴史的な贋作事件が取り上げられているほか、人魚のミイラのようなインパクトのある贋造品が出品されており、展示全体はそれを企図していないにもかかわらずニセモノの供給側を主体とした「騙し騙される」という構造に意識が向いてしまう。ニセモノの歴史を功罪相合わせて捉えようとするならば、誰が、どのような理由でニセモノを求めたのかという需要側の考察はもっと強調されても良かったように思う。[新川徳彦]
2015/05/06(水)(SYNK)
フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展
会期:2015/04/25~2015/06/30
東京都庭園美術館[東京都]
ケ・ブランリが所蔵する仮面を一堂に集めた展覧会。改装された東京都庭園美術館の本館と新館でそれぞれ作品が展示された。昨年、国立民族学博物館が所蔵する民俗資料を国立新美術館で展示した「イメージの力」は改めて人類による造形の魅力を深く印象づけたが、それに比べると本展はいかにも中庸な展示で、じつに退屈だった。だが問題は、そうした印象論を超えて、ことのほか根深い。
もっとも大きな問題点は、本展の展示方法が、取り立てて工夫の見られない、凡庸だった点。さまざまな仮面は、ガラスケースの中に収められていたため、鑑賞者はそれらについての解説文を読みながら、一つひとつの造形を鑑賞することになる。美術館においては王道の鑑賞法であるが、本展のような文化人類学的な民俗資料を展示する場合、必ずしも王道として考えることはできない。なぜなら、それらの民俗資料は本来的に美術館から遠く離れた異郷の地に存在していたものである以上、美術館でそれらを造形として鑑賞する視線には、その土地に根づいていたものを引き剥がしたという暴力の痕跡を打ち消してしまいかねないからだ。1990年代以降のポストモダン人類学やポストコロニアリズムの功績は、そのような展示する側と展示される側の不均衡な権力関係を問題化してきたが、本展の展示構成はそのような学術的な蓄積を前提として踏まえているようにはまったく見えなかった。問題を問題として認識していない無邪気な素振りが、問題である。
例えば、前述した「イメージの力」展は、まさしく古今東西の仮面を凝集的に展示することで、仮面の造形に隠された妖力を引き出すことに成功していた。それが、展示する側の権力性を免罪することには必ずしも直結しないにせよ、少なくとも本来の文脈を、テキストによって解説するという安易な方法ではなく、あくまでも展示という方法のなかで伝えようとしていた点は高く評価するべきである。言い換えれば、展示という方法の芸術性を存分に引き出していたのだ。だが、本展のそれは、そのような芸術性はまったく見受けられなかった。むしろ逆に、(そのような意図が含まれていたわけではないにせよ、結果的には)この美術館の歴史性が帝国主義的ないしは植民地主義的な視線をより一層上書きしてしまっていたようにすら思える。
その「イメージの力」展の関連イベントとして、2014年4月12日、国立新美術館で「アートと人類学:いまアートの普遍性を問う」というシンポジウムが催された。新進気鋭の3人の人類学者による基調講演に、同美術館館長の青木保や写真家の港千尋がコメントするという構成だったが、何より驚かされたのは、いずれの発表にも「普遍性」という言葉が、あまりにも無邪気に用いられていた点である。人類学は、その「普遍性」を徹底的に再検証してみせたポストコロニアリズムやカルチュラル・スタディーズの経験を忘却して、かつての古きよき人類学に回帰してしまったのだろうか。本展の中庸な展示が、そのような「普遍性」の無批判な称揚と同じ地平にあるとすれば、他者への不寛容と攻撃性が増している昨今の社会状況にあっては、十分警戒しなければならない。
2015/05/07(木)(福住廉)
アート(AM Ver.) 伊東宣明 / Nobuaki Itoh
会期:2015/05/05~2015/05/10
Antenna Media[京都府]
2013年にアートと制度を巡る問題をテーマにした映像作品を発表した伊東宣明。本展で発表した新作のテーマは「アートとは何か」だ。伊東は全国各地のランドマークで自画像を撮影し、「アートとは何か」をカメラに向かって語りかける。彼にとってアートは、不可視で手に入れられないものや、到達不能な理想に向かって邁進するアーティストの姿勢そのものに内在する。19世紀ロマン主義以来の理想に基づいた価値観と言えよう。ただ曲者なのは、当の本人がアートの理想を本当に信じているのか、それとも敢えてドン・キホーテ役を演じたのかが定かではないことだ。おそらく伊東は意図的に両義的な作品を作ったと思われる。観客に作品の二律背反性を気付かせ、アートとは何かを自問自答させること。そこに本作の真意があるのだろう。なお本作は、今年2月から4月にかけて愛知県美術館で発表した作品の京都バージョンである。
2015/05/08(金)(小吹隆文)
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
[東京都]
『バベル』や『ビューティフル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督による新作。マイケル・キートンが演じる落ち目のハリウッド俳優が、ブロードウェイで再起を図るという物語の構成はシンプルだが、全編ノーカットに見える編集をはじめ、エドワード・ノートンやエマ・ストーン、ナオミ・ワッツといった贅沢な脇役の素晴らしい演技が相俟って、じつに厚みのある傑作に仕上がっている。
見どころは多い。「バードマン」というキャラクターを演じるマイケル・キートンが、『ダークナイト』より前の『バットマン』を演じていたため、観客はおのずと「バードマン」に「バットマン」を重ねてしまう。そのようなメタ物語によって観客の視線と意識を牽引しつつ、しかし最終的には、ある種のファンタジーのように物語の結末を観客の想像力に委ねるという手口が、じつに鮮やかである。ラストシーンの高揚感は、この物語の束縛からも、メタ物語のそれからも解放された、私たちの想像力の爆発的な飛翔を示しているのかもしれない。
とりわけ注目したのは、この映画のサブタイトル。「無知がもたらす予期せぬ奇跡」とは言い得て妙で、じっさい、主人公の俳優は信じがたいほど知性に乏しい。軽薄というわけではないにせよ、猪突猛進というか意固地なわりに考えすぎるというか、いずれにせよ合理的な思考とは無縁のタイプである。周囲の登場人物たちが、いずれも鋭い観察眼や深い洞察力、的確な言葉に恵まれているため、その貧しさがよりいっそう強調されているのだ。追い詰められた彼が直情的な直接行動に身を乗り出す様子には、まるでテロリズムを決断する被抑圧者の心持ちが透けて見えるようだ。
しかしながら、この主人公の「無知」は、彼特有の精神性というわけではあるまい。これはあくまでも主観的な印象だが、物語が展開するにつれ、主人公の胸中には「もしかして世界で俺だけがバカなんじゃないか?」という強迫観念が芽生えつつあるように見えた。こうした物語がある種のユーモアを醸し出すことは疑いないとしても、別の一面では、現代人が苛まれてやまない知性主義への劣等感や強迫観念を暗示していることもまた否定できない事実である。「本物はすげえじじいだ!」と若者に笑われながらパンツ一丁で路上を力強く歩く主人公の姿に泣くほど笑いながら、同時に、心の底に深い影が落ちているのを実感するのは、そのような強迫観念にどこかで身に覚えがあるからにほかならない。
今日的な症候を暗示しつつも、それを想像力によって爆発させる、きわめて良質の映画である。
2015/05/08(金)(福住廉)