artscapeレビュー
2015年06月01日号のレビュー/プレビュー
画楽60年 渡辺豊重 展
会期:2015/04/04~2015/06/21
川崎市市民ミュージアム[神奈川県]
川崎市市民ミュージアムの二つの展示室を使い、渡辺豊重の60年におよぶ画業を振り返る大規模な回顧展。美術学校に行かず、団体に所属せず、自らをコンクール世代と称する。平面に留まらず、パブリック・アートとしての彫刻作品も手がける。美術学校には行かなかったが、画材店が主宰する研究所で難波田龍起、中谷泰の指導を受けたという経歴が興味深い。1950年代後半の具象的な初期作から岩手県立美術館での展覧会が始まった2014年の巨大な最新作まで約130点が並ぶなかで、とくに1970年代から80年代に掛けてのシルクスクリーン作品に惹かれる。フラットな画面に鮮やかな色とグラデーションで塗られたカタチは、なんら明示的ではないにもかかわらず、驚くほどエロチックなのだ。
なお、世田谷美術館でも渡辺のシルクスクリーン作品が展示されている(世田谷美術館〈それぞれのふたり〉シリーズ「渡辺豊重と平野甲賀」、2015/4/21~7/20)。[新川徳彦]
2015/05/23(土)(SYNK)
「スピード太郎」とその時代
会期:2015/04/04~2015/07/05
川崎市市民ミュージアム[神奈川県]
大正から昭和初期にかけて活躍した漫画家・宍戸左行(1888-1969)の仕事を、左行の遺族から川崎市市民ミュージアムに寄贈された原画や関連資料、そして同時代の他の漫画家などの作品などによって位置づける企画。左行の代表作である『スピード太郎』を中心に、展示は概ね時系列に構成されている。宍戸左行は旧制中学を卒業後に洋画を学ぶために渡米(その時期、期間については諸説あるらしい)。アメリカではアルバイトをしながら画塾に通い、漫画の通信教育を試したという。帰国後は各種漫画雑誌に漫画を発表、新聞に政治・風刺漫画を描くほか、舞台デザイン、書籍の装幀・挿絵を手がけた。左行が留学時代にどのような作品に影響を受けたのかはわかっていないそうだが、ここでは左行も目にしたであろう同時代のアメリカのコミック、日本の漫画が紹介される。
昭和5年(1930)年12月、左行は読売新聞日曜版付録に『スピード太郎』の連載を開始。昭和9(1934)年2月まで3年余にわたって連載は続く。物語は少年・太郎が「ドルマニア国」の内紛と隣国「クロコダイア国」との戦争に巻き込まれ、クマとサルを仲間に、自動車や飛行機、船、潜水艦、ロケットなどの空想科学的な乗り物や道具を駆使して縦横無尽に活躍する冒険活劇。人気を呼んだ連載は昭和10(1935)年10月には四色刷クロス製本で箱入りの豪華版単行本として発売され、大ヒットとなっている。出版元は長谷川巳之吉(1893-1973)が創業し、おもに豪華な造本の文学書を出版していた「伝説の出版社」第一書房。そのような出版社がなぜ子供向けの漫画本を刊行したのか。古い新聞をあたってみると、長谷川がその理由を述べた文章があった。曰く「これは過去の漫画の域を全く超越して、子供の世界に大きなイメージを与えるのみならず、大人が見ても色々な思慮と暗示とを受ける点に、非常に傑れたもののあることを発見」し、「過去の漫画の概念を一変せしめるのではないか」と。作品を描いた宍戸左行、掲載した読売新聞がはたしてそれを意図したのか、あるいは当時の一般的な読者がどのように読んだのかは不明だが、長谷川は「『スピード太郎』は、子供の童心の中に発展する強い正義感と勇敢な機知とが打って一丸となる美しい詩だと思っている」と高く評価している(読売新聞、昭和10年10月13日広告)。展示されている第一書房版のカラー原稿はとても状態がよい。登場人物のアメリカ的な衣装、奇想天外な道具だて、躍動的なストーリーと構図に魅了される。昭和初期にこのようなスタイルの漫画表現があったとは恥ずかしながら知らなかった。原画のほかには、「流線型」や「スピード」など、当時世界的に流行していたイメージが解説され、また同時代の漫画家たちの作品が出品されている。
戦後のコーナーは、復刊された『スピード太郎』や昭和30年代初期までに描かれた左行の漫画作品の紹介、そして手塚治虫『新宝島』(昭和22年)の表現の「新しさ」を巡る近年の議論のなかでの『スピード太郎』の位置づけと再評価へと至る。すなわち手塚作品に見られるクローズアップや俯瞰的構図の多用とその映画的なストーリー構成には、すでに戦前期に優れた先行事例が存在したのではないかという指摘である。この点については論評が掲載された雑誌等の当該ページが展示されているが、漫画史に明るくない者にとっては、議論の具体的な内容も示して欲しかったところである。[新川徳彦]
関連レビュー
2015/05/23(土)(SYNK)
砂連尾理『猿とモルターレ』
会期:2015/05/23~2015/05/24
卸町イベント倉庫 ハトの家[宮城県]
砂連尾理の公演は、ここ数年、国内の舞台作家の公演のなかで群を抜いて見過ごせないものになっている。それは、彼が障害者とともに踊り、車椅子の老婦人と踊り、東日本大震災の被災地の人々と踊ってきたことと関連はあるけれども、そればかりではない。彼が目を背けないでいるのは、弱さを抱えた者ばかりではない。ダンスそのものにこそ彼のこだわりはある。このことは忘れてはいけない。砂連尾はダンスを更新しようとしている。他ならぬそのことにもっとも強い印象を受けた。冒頭で女(磯島未来)が1人、東北なまりで語りつつ、静かに踊る。はっきりとは聞き取れなかったのだが、どうも、「ここで起きたこと、ここでの死者のありようを確認しなければ……」と語っていたようだった。ほどなくして、喪服姿の男2人が現われる(砂連尾理と垣尾優)。2人は目隠しをして踊ったり、それぞれの動きを瞬時に模倣したり、椅子に腰を下ろし密着しながら互いが独り言を投げかけるような、シュルレアルな会話を行なったりした。ばかばかしくユーモラスにも映るが、立派な大人が血迷っているようにも見える。主としてその行為は、誰かを確認するというよりは、自分自身の身体のありようを確認しているのであり、自分の身体さえ不確かな真っ暗闇で必死に自分を捜している、まるでそんな時間だった。1960年代のポストモダン・ダンスに倣って、このアイディアを「タスク」と呼ぶこともできよう。「タスク」とは、いわゆるダンスに見えぬ日常的でシンプルな行ないをパフォーマーに課して、その行ないをパフォーマーに遂行させるという、非ダンス的にダンスを踊るためのアイディアである。そこには、妙技を披露する身体や、妙技を通して現われるイリュージョン(バレエなら「妖精」などを舞台に出現させるだろう)もない。代わりに、淡々とことをこなすだけの、ゆえに嘘いつわりのない「リテラルな(文字通りの)」身体の行ないが現われる。砂連尾の狙いのひとつがおおよそそこにあるのは間違いない。けれども、砂連尾はその身体の上に、喪服を着た男2人のドラマを据え置こうとするのだ。「タスク」のようなアイディアを通して、ダンサーたちは自分の「身の丈」をあらわにするダンスを踊る。できること、できないことが示される。しかし、そのうえで、2人の男は喪服姿で自分たちの任務を生きようともしている。2人の男の任務とは、要するに、3.11以後の世界を生きる仙台と向き合うことだろう。その難しさ、過酷さ。タイトルの『猿とモルターレ』は「salto mortale」(とんぼ返り、命がけの跳躍)の意味を帯びている。ユーモラスな姿をさらして、失笑も浴びながら、2人はこの不可能のダンスを淡々と踊りつづける。最後には、互いの足の裏を揉み、すると、事前に行なわれていたワークショップの参加者10人ほどが割って入り、大きな塊をつくった。互いの足裏を揉みながら、少しずつ、全体の形が変化していった。互いに足を揉んでいる様に、気持ち良さそうだなと思いつつ、その塊のこう着状態に、つい復興の進展が鈍化している社会の姿を透かし見てしまう。それでも進んでいくのだ。そんな意志を見たような気がした。
2015/05/24(日)(木村覚)
岩井秀人×快快『再生』
会期:2015/05/21~2015/05/30
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ[神奈川県]
多田淳之介原作の『再生』は、同じパフォーマンスを3回繰り返す。90分の舞台。ゆえに30分の同じパフォーマンスを演者は3回行ない、観客は3回見る。この最小限のしつらえに、1回目は戸惑い、2回目は親しみを感じ、3回目は応援したくなってしまう。不思議だ。普通、同じ舞台を3回繰り返したりはしない。音楽だって同じ曲を3回演奏しないだろうし、映画だってそうだろう。演者も観客も〈再生の牢獄〉にいて、3回繰り返すことの退屈と悲惨を共に生きる。いや、快快ら演者たちは10日で10回もこの3セットをこなしていくのだから、30回分の3に観客はつき合ったに過ぎないのだ。などとつい〈過酷なトレーニング〉のように本作を形容してしまうのは、パフォーマンスがかなり激しいからで、アップテンポの曲が大音量で流れるなか、7人の演者たちは緻密に組み合わされたダンスをひたすら踊りまくる。ペットボトルが舞台に転がる。役名は見当たらず、快快ら演者たちはSFアニメのキャラクターのような出で立ちで、絶叫し、観客を煽り、激しくてユーモラスでかわいくもある踊りを踊りまくる。劇場の構造がそう想像させたのかもしれないが、アリ地獄に落ちたアリのような、踊り地獄。長時間踊りつづける舞台ならば、クリウィムバアニーが300分の作品を上演しているし、映画だったら『ショアー』がある。渡辺謙は『王様と私』3時間の舞台をマチネとソワレを合わせ1日で計6時間演じていたらしい。だから90分で疲労しちゃいけないよとも思うのだが、時間が進むごとに疲労が蓄積されていくさまこそ、この作品の構成要素なのである。時間が経過するにつれ、舞台がどんどん有酸素運動の場に見えてくる。1回目はただの混沌としてしか映っていなかった構成が、2回目になると緻密に組み合わされたものであると気づくようになる。そうすると踊りが際立ってくる。テンテンコ(ex.Bis)のゆるいダンスに目が引きつけられる。周りが疲労していくぶん、がんばらないダンスが際立ってくる。3回目は誰のどのダンスも形が崩れ、できない体がむき出しにされる。面白かったのは、二度ほど音量が絞られたこと。絞られると演者たちのぜーぜーいう声があらわになる。いや、それだけではなく、どれだけ音楽がこの場を支配してきたのかもあらわになる。なるほど、この舞台の主役は、演者たちではなく、音楽なのではないか? 律儀に3回繰り返されるのは、なによりも再生装置から発せられる音楽であり、演者たちは音楽に促され踊るのだ。だとすれば、この〈3回の音楽再生とそれに操られた7人の人間たち〉の関係こそが本作の物語なのである。そのリアルでフィジカルな関係性の語りにとって、キャラの立った快快らメンバーは最適な演者だったといえるのかもしれない。けれども、これ、快快の舞台なのだろうかとも思う。彼らほどキャラが光っていなければ舞台の強度は保てないだろうが、快快の魅力の一部しか活用されていないのも事実だ。演者の実存に光を当てるという点は、確かに、一貫して快快が見せてきた部分ではあるけれども。
2015/05/27(水)(木村覚)
三井の文化と歴史(後期)──日本屈指の経営史料が語る三井の350年
会期:2015/05/14~2015/06/10
三井記念美術館[東京都]
三井文庫の開設50周年と三井記念美術館の開館10周年を記念する展覧会。春季展の後期は、三井文庫が所蔵する17世紀半ばから20世紀までの経営史料、文書類、絵画などを通じて、三井家及び三井の事業の350年にわたる歴史を紐解く。三井文庫の前身は明治36年10月に旧三井本館内に設けられた三井家編纂室。大正7年に現在の品川区豊町に移転して三井文庫と称し、三井の家族史および事業史の蒐集・整理・編纂作業が行なわれてきた。戦後その活動は一時休止するが、昭和40年に財団法人として再出発。戦前期は史料は外部には非公開であったが、昭和41年からおもに研究者を対象として公開されている。所蔵している史料は、近世を中心とした三井家記録文書と、近代の三井関係会社事業史料、そして三井家の顧問であった井上馨関係史料などから構成されている。これらの史料の多くはけっして偶然に残されたものではない。すでに三井の元祖・三井高利(1622-1694)とその子どもたちが活躍した元禄・宝永期には文書の体系化と保存への意識がみられ、享保期(1716-1735)にはその保管も体系的に行なわれ始めていたという事実には驚かされる。帳簿や文書類を保管・管理するための当時の帳簿も現存しているのだ。もちろんそれらは事業を管理・継続していくことを目的としたものであるが、歴史研究者にとっては近世から近代にかけての日本の商業や金融の発展を跡づけるうえでかけがえのない史料となっている。本展ではそうした、事業を記録し残すという活動にもまた焦点が当てられている。
展示前半は近世江戸期。松坂の商人・三井高利のルーツから江戸への進出、三井家とその事業である呉服店と両替店の展開が示される。後半は近代明治以降で、三井銀行・三井物産・三井鉱山の歴史を中心に構成されている。いずれの項目も出来事に合わせてキーとなる史料が選ばれて展示されているが、史料があってこそ歴史が明らかにされ、叙述されていることを忘れるわけにはいかない。
展示されている史料は三井文庫の10万点におよぶコレクションからいずれも厳選されたものばかりであるが、いくつかをピックアップしてみる。「商売記」(1722)は三井高利の三男・高治が高利の事業について記録したもの。高利が江戸で成功を収めた新商法「現金掛け値なし」もここに記されている。「店々人入見合書帳」(1764)は越後屋の江戸と大坂の営業店と競合呉服店の来店者数を記録した史料。他店のデータは店先に奉公人を派遣して調べさせ、その数は三井独自の符帳で帳面に書かれている。この符帳は他にもさまざまな文書に用いられていたという。奉公人の不始末──商品の横流しや使い込み、門限破りなど──を記録した「批言帳」(1786)も、江戸期の奉公人の実態を知るうえで興味深い。近代の史料としては、富岡製糸場でつくられた生糸(1901)がある。明治半ばに三井銀行の経営改革を行なった中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)は工業部を新設して三井の工業化路線を推し進めた。政府から払い下げを受けた富岡製糸場もそのひとつである。しかし業績の不振、中上川の三井内部での孤立と早い死ののち、工業部門は売却または独立させられていった。富岡製糸場は原富太郎(三渓)の原合名会社に売却されている。三井家関連史料としては一族の資産共有を定め結束を象徴する「宗竺遺書」(1722)、「三井家憲」(1900)がとても興味深い。大正から昭和初期にかけての三井家の人々の姿、視察旅行などを捉えた映像もまた見所である。[新川徳彦]
関連レビュー
2015/05/27(水)(SYNK)