artscapeレビュー

2015年06月01日号のレビュー/プレビュー

いぬ・犬・イヌ

会期:2015/04/07~2015/05/24

松濤美術館[東京都]

昨春は「猫」だったが、今春は「犬」。埴輪の犬から現代の作品まで、犬をモチーフとした日本の絵画・彫刻作品が並ぶ、犬づくしの展覧会。渋谷といえばハチ公。安藤照による初代ハチ公像の試作像もある。中島千波《春爛漫のボンボンとアンジェロ》、畠中光享《花と犬》は、本展のためにイヌを主題に描かれた特別出品作品。見て楽しいのは、第三章「かわいい仔犬」。応挙、蘆雪、仙崖らの描く仔犬たちの姿に悶絶する。第五章「みんなが知っているイヌたち」で目を惹くのは西郷隆盛像。床次正精、服部英龍、作者不詳の3作が出品されているが、いずれも連れている犬の種類が異なるようだ。鰭崎英朋による講談社絵本「花咲爺」原画に描かれた犬は動物としての姿で描かれるが、斎藤五百枝「桃太郎」原画では犬は具足を付けて立ち、しかし顔や手足はリアルな犬として描かれているところが面白い。「犬追物図屏風」(江戸時代)は武士が武芸の鍛錬のために犬を獲物として追う催事「犬追物」を描いたもの。「人間の最も忠実なる友・人間の最も古くからの友」が展覧会のサブタイトルであるが、彼らはつねに友として相当に扱われてきたわけではないらしい。[新川徳彦]

関連レビュー

ねこ・猫・ネコ:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2015/05/15(金)(SYNK)

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狂転体 展

会期:2015/05/09~2015/05/23

CAS[大阪府]

「シュルレアリスムの再認識」を目的に、1977年に結成されたグループ「狂転体」。メンバーは、美術家、デザイナー、音楽家、TVプロデューサーなどで、常時7名前後のメンバーが入れ替わりながら、1983年まで活動を続けた。本展では、彼らの過去のイベント(現在のパフォーマンスに近いニュアンス)の遺物を展示した他、メンバー数名で共作した新作オブジェ、記録写真などが展示された。一部とはいえ、よくも作品が残っていたものだと感心したが、それ以上に重要なのが記録写真の存在である。筆者は「狂転体」の存在を知らなかった。研究者でも、よほど精通した人でなければ知らないだろう。関西の現代美術では、こうした活動の数多くが埋もれたままになっている。早急なアーカイブが必要だが、体制が整っておらず残念でならない。当事者たちが資料を整理してウェブを立ち上げるだけでも随分違うと思うのだが、いかがだろう。

2015/05/16(土)(小吹隆文)

かえるP『Color babar』

会期:2015/05/15~2015/05/18

こまばアゴラ劇場[東京都]

桜美林大学出身の大園康司と橋本規靖が振り付け、演出を行なうかえるPの第6回公演。印象的なのは、ポップソングにあわせて踊るシーン。とくにビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」をバックに20代の男3人が激しく踊るところは鮮烈だった。腹を「ピシッ」と叩くしぐさなどコミカルな振りもあるけれど、こわばり、力の出しどころが見当たらないかのような、もどかしい身振りになにより惹かれる。モーリス・ベジャールのソロにも似ていなくはないけれど、芸術系よりは、ジェローム・ロビンスやボブ・フォッシーなどのミュージカル映画系のダンスになぞらえたくなる。絶対にいわゆる〈美しい振り付け〉はしたくない。既存のダンス・テクニックとも距離を置きたい。身体がここにあることを伝えたい。できたらその身体が嘘っぽくなく躍動していてほしい。そんな思いがこちらの胸に飛び込んでくる。タイトルは「からあ・ばばあ」と読める。なるほど、老人の身体なのか、腰を屈めた姿勢でうろうろするシーンがあり、そんなところでは「コンセプトだけ知っているけど見たことないままに舞踏を踊ってみたひと」みたいに見えた。正直、なぜこの角度のセンスなんだろうと理解できない部分もあるが、それは近年の若者ロックに思うのと同じような疑問で、99パーセント筆者が年をとった徴だろう。ただ、できることならば、2人の審美性がもう一歩だけ観客に近づいて伝わりやすい部分が増すならば、ダイナミックな展開が始まるのだろう。そんな予感に満ちた作品だった。

2015/05/17(日)(木村覚)

山口小夜子 未来を着る人

会期:2015/04/11~2015/06/28

東京都現代美術館[東京都]

むかし、一龍斎貞水の講談を演芸場で見たとき、不思議な体験をした。演目は「徂徠豆腐」で、貞水が御用学者の徂徠と彼の貧しい時代の恩人である豆腐屋の男を演じ分けていたところ、ふと貞水の口元を見やると、どういうわけか歯が欠けているように見えたのだ。先ほどまではしっかりとした歯並びだったのに、いつのまにか上の歯が一本抜けている。あるいは、単なる眼の錯覚だったのかもしれない。けれども、豆腐屋の男が貞水を乗っ取ってしまったのではないかと勘ぐるほど、その日の貞水の講談は確かに熱を帯びていた。あれはいったい何だったのか、いまだに解決しがたい謎として、いまも心の奥底に残されている。
本展とまったく関係のない講談の話から始めたのは、ほかでもない。本展で発表された山川冬樹の映像作品が、まさしくそのような謎を喚起する作品だったからだ。映像に映されているのは、被災地である福島。そこを、白い仮面を被って小夜子に扮した山川がさまよい歩く。むろん、仮面であるから、じっさいの顔の輪郭と正確に重なっているわけではなく、不自然な印象は禁じえない。にもかかわらず、人影の見当たらない海岸や森のなかを彷徨するその姿を見ていると、山口小夜子本人なのではないかと直感する瞬間が幾度となくあった。
鑑賞者の心を撃つ、その瞬間はいったい何なのか。仮面は緻密な再現性を追究して造形化されているわけではないので、外形的な印象に由来しているわけではあるまい。山口小夜子本人を知っているわけでもないので、記憶の重力がイメージを引きつけたわけでもなかろう。あるいは貞水の豆腐屋のように、物語という明確な輪郭のなかに挟まれていれば、その一貫性のある前後関係が鑑賞者の視覚を偏らせることもあるのかもしれない。だが山川の作品は、全編にわたってモノローグが映像に重ねられていたように、定型をもたない散文詩のような構成である。物語の構造がイメージを実体のように見せたとは到底考えられない。
むろん、降霊現象のようなオカルトめいた話に落ち着かせたいわけではない。しかし、山川のパフォーマンスは、少なくとも、あの一龍斎貞水と同じ水準まで熱が入っていたことは間違いない。その熱の入れ方は異なるはずだが、鑑賞者の視線をさらうほどの熱量を投入することは、おそらく芸能であれ芸術であれ、優れた芸の基本的な条件だったはずだ。視線のアブダクションを体験できるパフォーマンスである。

2015/05/17(日)(福住廉)

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フランス国立ギメ東洋美術館・写真コレクション Last Samurais, First Photographs──サムライの残像

会期:2015/04/18~2015/05/31

虎屋 京都ギャラリー[京都府]

「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」の会場のひとつ、虎屋 京都ギャラリーでは、幕末から明治期に消え行く侍たちを撮影した写真が展示されている。ギメ美術館の創立者、エミール・ギメは1876年に日本を訪れ、写本や書籍、版画、磁器、仏教彫刻などをフランスへ持ち帰った。その後、ギメのコレクションを継承してきた同館では、現在、19,000枚以上の日本関連の写真を収蔵しているという。本展には、そのなかのおよそ20点が展示されている。ベアト、シュティルフリート、パーカーら異国人であるヨーロッパの写真家が撮影したものもあれば、日下部金兵衛、小川一真ら日本人写真家が撮影したものもある。
なかでも感慨深いのは、英国海軍の文官、サットンが撮影した、最後の将軍、徳川慶喜の肖像である。普段着の帯刀した羽織袴姿の一点と礼装である直衣姿の一点で、どちらも座した両膝の上に握りしめられた二つの拳と斜め遠方にむけられた堅い眼差しが印象的だ。緊張感漂う慶喜の姿とは対照的に、「将軍」というタイトルの写真には将軍の地位を示す舞台衣装と小物を身につけた歌舞伎役者がぼんやりとした表情で佇んでいる。2枚の写真の隔たりはおそらく20年から30年。この短いあいだに、将軍は実像からステレオタイプ化して虚像へと変化したのである。
激動の時代、写真はその変化を生きた日本人の姿をつぶさに伝えている。[平光睦子]

2015/05/18(月)(SYNK)

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2015年06月01日号の
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