2022年05月15日号
次回6月1日更新予定

artscapeレビュー

2015年06月01日号のレビュー/プレビュー

「燕子花と紅白梅──光琳デザインの秘密」展

会期:2015/04/18~2015/05/17

根津美術館[東京都]

琳派の祖・本阿弥光悦が洛北・鷹峰に光悦村(芸術村)を開いて今年で400年。さらに尾形光琳の300年忌にあたることもあって、「琳派」に関する展覧会が目白押しである。そのなかでも本展は「デザイナー」としての光琳の意匠に光を当てることに特色がある。なんといっても見どころは二つの国宝《燕子花図屏風》と《紅白梅図屏風》が並んで展示されること。そのほかにも、光悦や俵屋宗達・尾形乾山を含めた重要文化財の出品作がたくさんある。光琳が生家である京都の呉服商「雁金屋」で育ち、図案(模様)に深くかかわっていたこと、また縁戚にもあたる光悦や宗達らのジャンルを越えた装飾芸術への影響などから、デザイン性を昇華させていったことが展示品(屏風・扇・蒔絵・陶器・香包)を通じて明らかにされる。弟の陶工・乾山が、光琳の気に入っていたモチーフをアレンジして使った作品なども展観され、兄弟間の意匠の共通性についてもよくわかる。美術館の庭園にはカキツバタの群生が見頃を迎え、出品された屏風と併せて、なんとも贅沢な競演であった。[竹内有子]

2015/05/10(土)(SYNK)

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フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展

会期:2015/04/25~2015/06/30

東京都庭園美術館[東京都]

アール・デコの絵画や彫刻、装飾美術に用いられた主題には同時代のさまざまな社会状況、流行が影響している。東京都庭園美術館の前回展「幻想絶佳」(2015/01/17~2015/04/07)では、アール・デコと古典主義の関係が取り上げられていた。今回の「マスク展」に出品されているマスク──仮面は、フランスのケ・ブランリ美術館が所蔵するもので、もともとは世界各地から民俗資料として集められたもの。となれば、植民地として支配されたアジア・アフリカへのエキゾチシズムが西欧のアール・デコに与えた影響に焦点が当てられるのかと想像していたのだが、そうではなかった。
 展示はいわばマスクをモチーフにした空間インスタレーション。庭園美術館本館のアール・デコの空間のあちらこちらに異形のマスクたちが佇んでいる。部屋の中央で堂々とした姿を見せるマスクもあれば、棚の中に小さく隠れているマスクもある。書斎ではいくつかのマスクがこちらのほうを見ながら浮遊している。一部露出展示もあり、そうでないマスクも本展のためにつくられたという台座の上に浮き上がって見える。特筆すべきは、ほとんどの展示室のカーテンが開いていて窓から光が入り、マスクの背景には緑の芝生の庭が見えることだ。「暗い室内にスポットライトで浮かび上がる異形の面」というイメージで臨むと、これもまた裏切られる。夕方、外が暗くなったらこれらのマスクがどのように見えるだろうかと考えたが、この時期、閉館時間の18時でも外は明るいのでそれも果たせない。展示品たるマスクは本来は祭祀などに用いられる民俗資料なので、そのような関心から本展を訪れる人もあろう。展示は、アフリカ、アメリカ、オセアニア、アジアと地域別になっており、それぞれの歴史、用途などについて解説が付されているが、民俗学的な関心に応えるほど詳細が書かれているわけではないので、おそらくそれは主題ではない。図録に掲載されたマスクの写真は一部分がアップにされていたり、レンズの被写界深度を浅くしてぼかしていたり、まったく図鑑的ではない。なにしろここは博物館ではなくて美術館なのだ。こうした文脈の中に日本の能面が並んでいることもまた奇異に思われる。つまるところ、こうであろうという想像、期待をことごとく外してくれているのだ。
 こうした「期待」とのズレは、もちろん企画者が意図するところなのだろう。ケ・ブランリ美術館のキュレーター、イヴ・ル・フュール氏は、光の中にマスクを展示することについて、マスクが暗闇の中に展示されるのは西欧がかつてアフリカを暗黒の大陸と形容したような偏見に基づくものであり、それを変えるものとして本展示を企画したと語っている。西欧対非西欧は単に地理的な問題ではなく、先進的で洗練された文化と野蛮でプリミティブな世界という対比でもあった。2006年に開館したケ・ブランリ美術館が掲げた目標は「文明間の対話」というもの。その展示方法が文明間の優劣という文脈から相対化へと視点の転換を図るものと考えれば、この展示を「期待と違う」「ふつうとは違う」と考えてしまう私たちの「期待」と「ふつう」が、非西欧圏にありながらもひどく西欧的な価値観、西欧的なバイアスに犯されてしまっていることに改めて気づかされる。
 疑問に思う点もある。新館展示室では映像アーカイブ「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」から世界各地のマスクを使った祭の映像が上映されており、おそらくそれは本来の文脈のなかでのマスクの役割を見せているのだろう。それはとても良いのだが、ここにヨーロッパの祭の映像があるにもかかわらず、本館には西欧のマスクはひとつも展示されてない。それはケ・ブランリが非西欧の造形だけを集めているためでもあるが、その意味はよく考えてみる必要がある。また、黒い背景にマスクを配したポスターやチラシなどの広報物、見返しにも黒い紙を使っている図録は、企画の主旨と展示の実際から考えると私たちの先入観と偏見に近いという意味でミスリーディングだと思う。[新川徳彦]


以上、すべて展示風景

関連レビュー

幻想絶佳:アール・デコと古典主義:artscapeレビュー|美術館・アート情報 artscape

2015/05/10(日)(SYNK)

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高井信子「姿を求めて」

会期:2015/05/12~2015/05/17

ギャラリーヒルゲート[京都府]

人間と動植物が融合したキメラを描いた銅版画作品を出品。その図像は、昭和世代の筆者には漫画『デビルマン』に登場する悪魔たちを連想させる。作品はどれも正面から描かれており、写真製版以前の図鑑挿画を連想した。展示室の一隅にはスケッチも展示されているが、そこには作者が創作したと思しき文字で事細かに説明文が書かれており、作品の世界観構築に少なからず貢献している。得難い個性を持つアーティストだ。技術的にもレベルが高く、今後の展開が楽しみである。

2015/05/12(火)(小吹隆文)

遠藤一郎 個展「吉祥寺に潜伏しているというカッパ師匠の部屋」

会期:2015/05/06~2015/05/17

Art Center Ongoing[東京都]

遠藤一郎の個展。これまで「未来美術家」として全国のさまざまな現場で活躍してきた遠藤の、ある種のターニングポイントとなる重要な個展だった。
展示されたのは、積み上げられた大量のスピーカーとアンプなどを背に、ちゃぶ台の前で佇む遠藤自身。ただし、その姿は、顔面はもちろん手足の先までを緑色に塗りあげ、甲羅を背負ったもの。カッパ師匠が来場者にお茶を振る舞うパフォーマンス作品である。とはいえ、カッパ師匠は何かしらの演芸的なパフォーマンスを披露するわけではない。カッパの姿のまま会場に自然と佇み、来場者と雑談を交わすにすぎない。にもかかわらず、その情けなくも可笑しみのある風情が、なんとも味わい深い。「未来へ」や「GO FOR FUTURE」といった、じつにストレートで実直なメッセージを、並々ならぬ熱量によって発信してきた、これまでの活動からの明らかな方向転換である。
けれども、より重要なのは、その方向性だ。遠藤によれば、カッパ師匠とは愚直でだまされやすく、非力な妖怪であり、じっさい街を歩いていると、自らに注がれる視線には嘲笑や卑下の意味合いも含まれていることが少なくないという。遠藤は自ら、この情けない存在を引き受けたのだ。
思えば、遠藤一郎の名前が衝撃とともに脳裏に刻まれたのは、完成間もない六本木ヒルズに体当たりで突っ込む映像作品を見たときだった。「行くぞ! おい、みんな行くぞ!」と叫びながら、何度も何度も硬いコンクリート壁に激突する。当初はナンセンスな行動を笑っていられたが、次第に様子がおかしくなり、やがて真摯な悲壮感に心を打たれるようになる。自分の肉体を感電させて音を出す過激なパフォーマンスによってノイズ・バンドに参加していたように、かつての遠藤一郎は肉体の全身をフル稼働させることで、すべての神経を剥き出しにするような切迫感と緊張感にあふれていた。
だが、そのような切実な動機は、遠藤に限らず、ほとんどのアーティストにとって、それが切実であればあるほど、やがて自分自身から遠く離れていくことを余儀なくされる。そのとき、失われていく初発の動機を取り戻そうともがくのか、あるいは別の無難な動機に切り替えて乗り切るのか、アーティストのアティチュード、すなわち態度が問われるのは、おそらくこの点である。遠藤が素晴らしいのは、ある程度アーティストとして名を挙げたいまもなお、いや、いまだからこそ、見下される存在に自分自身を徹底的に貶めることを、この作品において見事に体現しているからだ。言うまでもなく、この作品が意味しているのは新たな面白キャラクターの発見などではない。それは、遠藤が、かつてとは違ったかたちではあれ、いまもなお、自分の肉体をある種の「壁」に激突させ続けているという厳然たる事実である。その、きわめて純粋な誠意に、改めて心を打たれた。

2015/05/13(水)(福住廉)

片岡球子 展

会期:2015/04/07~2015/05/17

東京国立近代美術館[東京都]

片岡球子(1905〜2008)と言えば、日本画の由緒正しい画題である富士山を、まるでヘタウマのイラストレーションのように大胆きわまるタッチで描いた日本画家という印象だった。しかし今回の回顧展で彼女の画業を通覧すると、そうした理解がいかに皮相であったかを存分に思い知らされた。
展示されたのは、昭和初期の作品から代表作「面構」のシリーズ、そして晩年の裸婦を描いた作品まで、資料を含めて100点あまり。何よりも印象深いのは、その卓越した描写力。一見すると、大胆不埒な画面のようだが、それはあくまでも全体の構図に由来するのであって、細部に目を凝らすと、とてつもない執着心で絵の具を塗り重ねていることがわかる。とりわけ着物の柄やレースの靴下などは尋常ではないほど緻密に再現しており、これはもはやフェティシズムと言ってもいいほどだ(だからこそ晩年の裸体画は着物の装飾性を自ら封印したがゆえに、筆先が上滑りしているように見えて仕方がない)。そのようにして徹底して細部に拘泥する一方で、全体としては豪放な印象を与える二重性に、片岡球子の真骨頂がある。
かつて片岡球子の絵を見た小林古径が「自分で自分の絵にゲロが出るほど描き続けなさい」と激励したという逸話がある。それが「ゲテモノ(下手物)」と評されることの多かった彼女の絵に対する、文字どおりの激励なのか、はたまた皮肉に満ちた逆説なのか、その真意はわからない。しかし、いずれにせよ、そのゲテモノ性を突き詰めたからこそ、小林古径のような優美な線と色によって構成された上手物の日本画には到底望めない、片岡球子ならではの画境を切り開いたことは間違いあるまい。日本画に限らずとも、師匠や先達の乗り越え方を鮮やかに示している点で、学ぶところは大きいはずだ。

2015/05/14(木)(福住廉)

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2015年06月01日号の
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