artscapeレビュー

2021年02月15日号のレビュー/プレビュー

Kyoto Art for Tomorrow 2021―京都府新鋭選抜展―(特別出品:高嶺格《118の除夜の鐘》)

会期:2021/01/23~2021/02/07

京都府京都文化博物館 別館ホール[京都府]

毎冬開催されている「京都府新鋭選抜展」は、選抜された若手作家の新作を展示し、審査委員や各新聞社などが受賞作を決めるコンペ展。あわせて、ベテラン作家による「特別出品」も展示される。今年度は、高嶺格が体験型作品《118の除夜の鐘》を発表。本評では、この高嶺作品をメインに取り上げる。

会場の別館ホールは、明治期に建てられた旧日本銀行京都支店の重厚な建築物であり、天井高のある広い吹き抜け空間が広がっている。その空間に、鉄パイプを7段、ほぼ水平に渡した円形の檻のような構造物が組み上げられている。鑑賞者はこの構造物の中央の椅子に座り、袋のなかから鉄球を一つ選ぶよう、スタッフに促される。椅子の正面では、最下段の鉄パイプの先が、巨大なメガホンか蓄音機のラッパ型ホーンのような形状で口を開けて相対する。選んだ鉄球は、スタッフの操作で最上段の鉄パイプのなかに投入され、金属管のなかを何かが転がっていくような音が、一段ずつ周回しながら走っていく。見えない気配を想像させる「音」は、加速とともに次第に増幅し、否応なしに緊張感を高め、椅子に固定された身体を包囲する。比例して徐々に暗くなる照明、轟音と加速度のクライマックスを包む闇。相対するラッパ型に開いた開口部から、鉄球がこちらに向かって飛び出すのではないかという恐怖。だが、加速の付いた鉄球の代わりに飛び出すのは、「えー、領収書が」というブツ切りの音声と鐘の音であり、床にボトッと転がり落ちた鉄球は、脱力に一転する。



高嶺格《118の除夜の鐘》



高嶺格《118の除夜の鐘》


高嶺によれば、タイトルの「118」は「安倍元首相が国会でついたとされる嘘の数」であり、ブツ切れの音声は、「桜を見る会」の会計処理をめぐる国会答弁の一部かと思われる。そうした政治批判にとどまらず、「自分の選択した小さな行為が、姿の見えないまま次第に膨れ上がり、制御不可能なものに変質して自らを脅かし、逃げ場所を奪って包囲する」という構造は、例えば(コロナ禍における)「SNS上で呟いた一言がデマとなって拡散・巨大化し、自分自身をも脅かす」事態を想起させ、極めてアクチュアリティに富む(なお、本作自体には実は「もうひとつの仕掛け」があるのだが、ネタバレとなるので伏せておく)。


ただ、例年のことではあるが、ベテラン作家が広い別館ホールを独占する「特別出品」と、(メインであるはずの)選抜若手作家たちの扱いには、大きな非対称性がある。ダイナミックな空間を実質上の個展として独占できるベテラン作家に対し、「ひとり1点」の制限やサイズ規格を受けた若手作家たちは、展示室に大勢が詰め込まれる。「新作」という出品要請の一方、フィーは出ない。本当に「若手支援」を目指すのならば、展示空間の割り当てや資金面での不均衡を解消すべきだろう。また、例年、選考・審査委員の顔ぶれも「60代、70代男性」に偏っており、ジェンダーや世代の多様性が必要ではないか。

2021/01/24(日)(高嶋慈)

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松田正隆作・演出『シーサイドタウン』

会期:2021/01/27~2021/01/31

ロームシアター京都[京都府]

地方の荒廃、血縁関係のしがらみ、隣国からの攻撃の脅威と緩やかに浸透する全体主義。現代日本社会の病理を凝縮したような辺境の海辺の町を舞台とするオーソドックスな会話劇と、実験的な上演形式のハイブリッドが本作の特徴である。劇作家・演出家の松田正隆は、書き下ろしの新作戯曲を、主宰する「マレビトの会」で実践してきたミニマルな形式で上演した。

場ミリ(スタッフや出演者のために、舞台上につける大道具や立ち位置の目印)の白テープが散りばめられただけの素舞台。そこに、ひとりの男が登場し、引き戸を開け、直角に舞台上を横切り、蛇口をひねってコップに水を満たす仕草を淡々とマイムで行なう。舞台奥から挨拶の声をかける隣人。何もない空間に、玄関、縁側、廊下、洗面所といった見えない空間の弁別が立ち上がる。この空き家に引っ越してきた男(シンジ)は、東京で職を失って帰郷した。隣家には平凡な夫婦と高校生の娘が住むが、とりわけ妻は「住民訓練」への参加を熱心に呼びかける。それは、(「東京アラート」の陰で忘却の彼方となった)「Jアラート」発動時に、「隣国からの弾道ミサイル攻撃に備えて身を守る」ための訓練だ。「住民の一体感」を高めるイヴェントとして参加を要請する隣人、「全体訓練」を近隣市町村との「合同訓練」に拡大させようとする市長。36か所の「着弾予想地点」や避難経路が書かれたハザードマップがシンジにも配られる。だが、シンジのバイト先の友人、トノヤマは「着弾予想地点で性行為か自慰を行なうことで、着弾を回避できる」という自説を実践する。それは、アナーキーな秩序攪乱による全体主義への抵抗なのか。隣人の高校生の娘は「将来の夢は殺し屋」と作文に書き、確執を抱える母親が探しても見つからない「ナイフ」はなぜかシンジの部屋で見つかり、トノヤマは「ファシズムの手先の市長を刺す」と息巻く。だが彼は暗殺計画ではなく別の卑近な暴力に手を染め、疑いをかけられたシンジは蒸発し、何事もなかったかのような夏の気怠い日々が続いていく。

小道具を一切使わず、観客にも「見えない」ナイフは、行き場のない鬱屈や卑小な悪意の比喩として手から手へと渡り、矛先を間違えた一瞬の暴発を引き起こし、霧消して再び消え失せてしまう。善意と悪意、平凡さと異様さが区別不可能に混ざり合った淀みがゆっくりと全身に絡んでいくような後味が残った。



[撮影:中谷利明]



[撮影:中谷利明]


リアリズムの手触りの強い戯曲だが、「演劇」を極限まで縮減し解体するような形式で上演される。舞台美術のない素舞台、小道具の不在とマイムの動作、効果音やBGMの欠如、最低限の照明操作。俳優たちはほぼ正面向きで直立を保ち、抑揚を欠いた棒読みに近い発話で会話する。さらに、俳優どうしが目を合わさず、現実にはありえない距離感と位置関係で「配置」されている点も特徴だ。足元に露出する「場ミリ」が示唆するように、「身体に一定の導線と配置の圧を加える」演劇が行使する力は、訓練の反復によって「権力の要請に馴致された身体を集合的に形成する」力と秘かに通底していく。



[撮影:中谷利明]


一方そこには、「マレビトの会」を通して松田が実践してきた形式的な実験の系譜がある。『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』(2010)では、「広島と、在外被爆者の多く住む韓国のハプチョンでの体験や思考の報告」を、客席と舞台の区別がない空間に点在した出演者が、同時多発的に発話やパフォーマンスを行なう。この特異な上演形式は、(観客自身も含む)他者が行き交う「都市の雑踏」を出現させると同時に、多層的な声による「ヒロシマ」の脱中心化が企図されていた。続く『N市民 緑下家の物語』(2011)では、この「点在した俳優による行為の同時多発性とリニアな時間軸の解体」の手法が、ドキュメンタリーから「ドラマ」へと移植された。

そして、震災後の『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』(2012)では、東京から福島へと移動しながら現実空間で数ヵ月にわたって上演される戯曲と、その上演記録を出演者たちがSNSやブログ上に蓄積していく「第一の上演」のあと、その記憶を思い出している出演者の身体を劇場内で展示する「第二の上演」が行なわれた。「ドラマ」は一回性の出来事に限りなく近づき、ネット上の無数の痕跡は出来事の「真偽」を宙吊りにしつつ、「想起のための空間」と化した劇場内には見るべきものはおろか、想起のための手がかりもほぼ皆無である。ここには、「演劇」という表象形式と、(松田自身の故郷、長崎を含む)集団的な災厄の「表象」それ自体への抵抗が極点で交差する。その後、『長崎を上演する』(2013-2016)、『福島を上演する』(2016-2018)では、複数の執筆者による共同創作というかたちで、長崎や福島での取材を元にした戯曲が、本作同様ミニマルな上演形式で試みられている。

こうした系譜上にある本作は、「長編戯曲」という松田の原点に回帰しつつ、「ドラマはどう自律し、どこまでの解体に耐えうるのか」という強度を自己点検する実験性のなかに、「悲劇以降の時間/まだ到来せぬ悲劇」のあいだで宙吊りになった、日常の微温的な狂気を描いていた。

2021/01/30(土)(高嶋慈)

佐藤可士和展

会期:2021/02/03~2021/05/10

国立新美術館 企画展示室1E[東京都]

佐藤可士和は、いまの日本のデザイン業界のなかでもっとも成功したひとりと言えるだろう。彼がクリエイティブディレクターとして携わった企業や商品・サービスのブランディング事例を見ても、それは頷ける。楽天、ユニクロ、セブンプレミアム(セブン&アイ・ホールディングス)など業界を牽引する面々が並ぶからだ。彼はまさに日本経済を動かしている男とも言える。空間構成から個々の展示物まですべてをディレクションしたという本展も面白かった。小難しくなく、直感的で、エキサイティングで、最初から最後まで鑑賞者を飽きさせない。この万人を虜にする力こそ、佐藤のクリエイティブの特徴である。

展示風景 国立新美術館 企画展示室1E

まず本展の入り口で無料音声ガイドの案内があるが、これは絶対に利用した方がいい(QRコードを読み取って自身のスマホで聞くタイプなので、感染症拡大防止にも対応している)。会場で立ち止まって解説文をじっくりと読むよりも、展示物を眺めながら、佐藤自身が語る音声に耳を傾ける方が頭にすんなりと入ってくるからだ。展示は彼が小学生時代に制作したという、すでに才能の開花が見られるコラージュ作品や絵画に始まり、原寸大の屋外広告、ロゴを巨大化したインスタレーションへと続く。誰もが一度は見たことのある屋外広告もロゴも、ホワイトキューブの中で観たり、巨大化されたりすることで何とも言えない違和感が生じ、刺激的に映る。こういう大胆な仕掛けが鑑賞者を飽きさせない。

佐藤は独自のブランディング手法を「アイコニック・ブランディング」と呼ぶ。そう、アイコンなのだ。シンプルで、明快、人々の記憶に残るビジュアルづくりが得意なのである。この勢いやわかりやすさは飛び抜けているように感じる。しかもロゴを核としながら、ロゴだけに留まらない、その企業や商品・サービスの価値を上げるブランディングを最終目的とする。一方で、「LINES / FLOW」と題した抽象的なアート表現にも挑んでいる。これらは、言わば彼の美意識を探る作品群だろう。小学生時代の作品にも通じる純粋さがあり、彼が得意とする簡潔明瞭な造形や色彩が生み出される背景に触れるようだった。そして最後の展示「UT STORE @ THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO」では、鑑賞者がユニクロのTシャツを買う体験まで用意されていた。なんだ、結局は広告なのか?と思いつつも、その巧みな仕掛けには脱帽してしまった。

展示風景 国立新美術館 企画展示室1E

展示風景 国立新美術館 企画展示室1E


公式サイト:https://kashiwasato2020.com

2021/02/04(木)(杉江あこ)

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蓮實重彦『言葉はどこからやってくるのか』

発行所:青土社

発行日:2020/10/30

本書は、蓮實重彦の著書のなかでもいささか特異な印象を与える。この1936年生まれの著者がこれまで上梓してきた書物は、単著・共著・編著などをあわせてゆうに100冊を超えるが、本書はそれらとまぎれもなく通底する一書であると同時に、そのいずれにも似ていない。本書の主題は、映画でも、文学でも、はたまたそれ以外の何かでもない。厳密にはそのいずれでもあるのだが、まず本書に収められたテクストが、特定の分野や領域に集中してはいないということをはじめに確認しておきたい。

本書は全Ⅲ部からなる。本書のメイン・パートである第Ⅰ部には、2016年の「三島由紀夫賞受賞挨拶」にはじまり、同年の『新潮』に掲載された受賞記念インタビュー「小説が向こうからやってくるに至ったいくつかのきっかけ」、2003年の『ユリイカ』のロラン・バルト特集に収められたインタビュー「せせらぎのバルト」、同じく2004年の『ユリイカ』を初出とするインタビュー「零度の論文作法」、さらには1992年のAny会議(湯布院)で発表されたド・モルニー論「署名と空間」、そしてさらにさかのぼること1989年の共著『書物の現在』所収のインタビュー「『リュミエール』を編集する」の6篇が収められている。

このように、時代もテーマも多種多様であるが、それは本書の成立経緯じたいが「著者自身が好んでいながら、まだどの書物にも収録されていないあれこれのテクスト」(334頁)を集めたものであるという事情に拠っている。しいていえば、これらはいずれも「語りおろし」を初出とするという点では共通している。「署名と空間」のみ、かぎりなく論文に近い講演原稿であるが(初出は『Anywhere』NTT出版、1994)、これもやはり、ある特殊な状況において発せられたパフォーマティヴな言葉であるという意味では性格を同じくしている。また、大学行政についての話題が中心である第Ⅱ部も、リベラルアーツや映画をめぐる第Ⅲ部も、時々の求めに応じてなされたインタビューであるという点では第Ⅰ部と相違ない。その意味で、本書所収のテクストは緩やかな統一をみせているとも言えよう。

しかし、著者が過去にそのような書物を発表してこなかったわけではない。はじめに、本書が「いささか特異な印象を与える」と言ったのは、第Ⅱ部に収められたテクストの性格に拠るところが大きい。ここに収録されている「「革命」のための「プラットフォーム」」と「Sustainability」は、いずれも著者が東京大学総長という立場で行なった公的なスピーチであり、なぜこれらが本書の収録テクストとして選ばれたのか、という疑問は残る。しかも、これらはすでに『私が大学について知っている二、三の事柄』(東京大学出版会、2001)という単著に収められており、「まだどの書物にも収録されていない」テクストというわけでもない。したがって、おそらくこの二篇は、続く「「AGS」をめぐる五つの漠たる断片的な追憶」というテクストの関連で再録されているのだろう、というのが自然な推論である。不思議なことに、この後者のテクストを収めているという──「初出一覧」(337頁)に挙げられた──文献『AGSの記録』(東京大学AGS推進室、2020)は、これを書いている時点では一般に公表された形跡はなく、おそらく存在するにしても広く流通している媒体ではないのだろう。東京大学が海外の諸大学と結んでいるAlliance for Global Sustainabilityを意味するらしいこの「AGS」というプラットフォームをめぐって書かれたこの回想録に、著者がいかなる思い入れを持っているのか──こればかりは、それぞれの読者がテクストの端々から想像するほかない。

いずれにしても、あるときは『伯爵夫人』(新潮社、2016)により三島由紀夫賞を受賞した小説家として、あるときは『季刊リュミエール』(筑摩書房、1985-88)の編集長として、またあるときは東京大学総長(1997-2001)として、それぞれ異なる立場のもとで書かれた(語られた)これらのテクストが、いずれもめっぽう面白いものであることには心底驚かされる。本書のあちこちを開くたびに評者の脳裏をよぎったのは、これほど読み手の意表をつく言葉がいったい「どこからやってくるのか」という、ただしく本書の表題にもなっている問いであった。

2021/02/08(月)(星野太)

須藤健太郎『評伝ジャン・ユスターシュ──映画は人生のように』

発行所:共和国

発行日:2019/04/25

本書『評伝ジャン・ユスターシュ』は2019年4月に刊行された。いまだ謎の多いフランスの映画作家についての──日本語では初となる──モノグラフであり、昨年(2020年)の表象文化論学会賞、渋沢・クローデル賞奨励賞を立て続けに受賞した。末尾の謝辞にある通り、本書は2016年にパリ第三大学に提出された著者の博士論文(Jean Eustache : génétique et fabrique)がもとになっている。その学術的な達成がいかほどのものであるかは、その華々しい受賞歴が示す通りだ(いずれも選評がオンラインで公表されている)。だが、本書はすぐれた学術書であると同時に(あるいはそれ以上に)、ユスターシュの映画を愛する者にとって、あるいは映画一般に関心を寄せる者にとって必携の一冊である。刊行後すでにさまざまな媒体で取り上げられているが、著者とほぼ世代を同じくする人間として、いくぶん個人的な回想も交えつつ本書を紹介することにしたい。

現在、ジャン・ユスターシュ(1938-81)という作家について、いったいどれほどのことが知られているだろうか。約3時間半におよぶユスターシュの長篇『ママと娼婦』(1973)が日本で初めて劇場公開されたのは1996年のことである。その後、2001年には特集上映「ジャン・ユスターシュの時代」がユーロスペースで開かれ、『わるい仲間』『サンタクロースの眼は青い』『ママと娼婦』『ぼくの小さな恋人たち』『不愉快な話』『アリックスの写真』の6作品が上映された。その後、幻の作品『ナンバー・ゼロ』が発見され、2003年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されたことは大きな話題となった。その後、わたしの知るかぎり、ユスターシュの映画がまとまって上映される機会はしばらくなかったが、2019年にはふたたびユーロスペースとアンスティチュ・フランセ東京で特集上映が行なわれた。本書『評伝ジャン・ユスターシュ』の刊行計画も、この特集上映と同時進行で進められていたという(第11回表象文化論学会賞「受賞者コメント」より)。

ユスターシュはわずか2本の長篇映画と、数本の中篇映画・ドキュメンタリー作品のみを残して、1981年11月に拳銃自殺した。初長篇『ママと娼婦』は1973年のカンヌ国際映画祭で複数の賞を受賞するなど批評的な成功を収めたが、つづく『ぼくの小さな恋人たち』(1974)は公開当時にかならずしも好評をもって迎え入れられたわけではなかった。何より、後述する複雑な権利問題により、ユスターシュの死後に生まれた世代がその作品を実見できる機会はきわめて乏しかった。東京都内にかぎって言えば、2001年の特集上映以来、前述の2本の長篇が上映される機会はままあったため、その限られた機会に劇場に足を運んだ者も多かったはずである。本書はまず、そうしたユスターシュの映画に魅了された観客にとって待望の一冊として現われた。

本書は、ユスターシュの作品について、現在アクセスしうるあらゆる資料と、関係者への膨大なインタビューをもとに書かれた、きわめてスリリングな一書である。ユスターシュという作家をめぐる今日の評価は揺るぎないものであるが、先に挙げたような制約もあって、実際にその作品に接するには大きなハードルがある。それもあってか、42歳で亡くなったこの映画作家に捧げられた書物は、仏語や英語でもけっして多いとは言えない。まして、これだけ多くの関係者にインタビューを行ない、各作品の制作背景をはじめとする事実を明らかにした書物は、おそらく今後も存在しえないだろう(なぜなら本書の調査・執筆時においてさえ、すでに鬼籍に入っていた者が少なくなかったのだから)。

さらに言えば、読み物としても非常に魅力的な本書は、ユスターシュの映画にふれたことのない読者をも、大いに興奮させることだろう。先述したように、ユスターシュの作品は、日本で一時期発売されていた──現在では入手困難な──DVD-BOXを除けば、いっさいソフトになっていない。しかしその一方で、現在ではそのほとんどが英語字幕つきでYouTubeにアップされている。こうした奇妙な状況の中心にいるのが、現在ユスターシュの作品の権利をもつ次男ボリス・ユスターシュである。本書では、この次男のみならず、『ナンバー・ゼロ』の被写体であるユスターシュの祖母オデット・ロベール(第二章)、『ママと娼婦』の登場人物マリーのモデルであり、初号試写の直後にみずから命を絶ったカトリーヌ・ガルニエ(第七章)、『不愉快な話』をはじめとする数作品に出演するなど、公私ともにユスターシュの重要な友人であったジャン=ノエル・ピック(第八章)など、この映画作家の周囲にいた人物たちに次々と輪郭が与えられる。

本書は「ジャン・ユスターシュの伝記」ではなく、あくまでその「作品の伝記」であると著者は言う(12頁)。ユスターシュは「カメラが回れば、映画はひとりでにできあがる」として、映画における「作者」の概念を否定した。これはこれでひとつの美学であろうが、しかし少なくとも文章の場合、そこでは一定のオートマティスムに基づく映画よりもはるかに「作者」の介入が必要とされることは言うまでもない。この「作品の伝記」という困難な試みを可能にしているのは、ほかでもなく、この著者の堅実かつ魅力的なエクリチュールである。

★──このあたりの詳しい事情については、須藤健太郎×廣瀬純の対話「ジャン・ユスターシュとは誰か? 人生は映画のように[前篇]」(『Digging Deep|共和国のウェブマガジン』2019年11月12日公開)を参照のこと。

2021/02/08(月)(星野太)

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