artscapeレビュー

2021年03月15日号のレビュー/プレビュー

TPAM ホー・ツーニェン『Voice of Void』/アイサ・ホクソン『Manila Zoo』ほか

会期:2021/02/06~2021/02/14

[神奈川県]

今年のTPAM(国際舞台芸術ミーティング in 横浜)は、当然ながら、コロナ禍における舞台芸術のあり方を探るプログラムが目立った。言い方を変えると、オンライン、もしくはヴァーチュアル・リアリティをいかに導入するか、である。もちろん、すでにテクノロジーの進化によって、こうした兆候がなかったわけではないが、今回は一気に加速した、いや、せざるをえなかった。

ホー・ツーニェンの『Voice of Void』は、形式的には4人で参加するものだが、相互のインタラクションはなく、また演者はいない。ゴーグルを装着して、リアルな畳の上で動くと、世界が切り替わる。すなわち、じっと静止していると、SF的な空間の広がりをもつ座禅室/少し動くと、茶室における京都学派の座談会/立ち上がると、モビルスーツが漂う空中/寝そべると、監獄という4つの空間だ。初日に体験したせいか、機材の設定トラブルが続き、何度かゴーグルを装着し、おかげで付け方が上手くなったのだが、おそらく、この技術の未来は、舞台の内部に入り込む体験だろう。

さて、6年前にポールダンスを観たアイサ・ホクソンの『Manila Zoo(ワーク・イン・パンデミック)』はKAAT 神奈川芸術劇場で観劇したが、やはりホストをのぞくと、そこに生の演者はいない。それぞれの個室で動物を演じるフィリピン人のダンサー陣の映像、ならびにドイツの電子音楽をリアルタイムで横浜に配信し、大きな画面で観るからだ。コロナ禍ゆえに、家にこもる人間と檻の中の動物が重なり、さらにきちんと機能しない政治への怒りが表明される。もちろん、ただ鑑賞するだけなら、あらかじめ録画された映像を流せばよい。だが、ダンサーが激しい運動を続けた後の休息をかねて、会場のホストと観客を交えたインタラクティブな演出(質問タイム、記念写真、アクション、照明など)が挿入される。そのとき、これが遠い場所だけれども、同時進行のライブであることを痛感した。

ほかのTPAMのプログラムでは、オンライン配信によって、谷賢一(DULL-COLORED POP)の福島三部作を鑑賞した。原発誘致前夜の「反対しなかったな/日本の原発は安全です/寝た子は正しく起こせ」など、各パートにおいて、印象的な言葉が突き刺さり、国外や記憶が薄れる未来に対して意義をもつ作品である。だが、家にいながら画面に向かうだけの視聴だと、途中で映像が止まったり、集中力が散漫になりやすい。以前、第一部の『1961年:夜に昇る太陽』のみは、駒場の小劇場で鑑賞していたが、やはり生で観たい作品だった。

ホー・ツーニェン『Voice of Void』
公式サイト: https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=voice-of-void
会期:2021/01/24〜2021/02/06
会場:BankART Temporary

アイサ・ホクソン『Manila Zoo(ワーク・イン・パンデミック)』
公式サイト: https://www.tpam.or.jp/program/2021/?program=manila-zoo
会期:2021/02/09〜2021/02/11
会場: KAAT神奈川芸術劇場

2021/02/09(火)(五十嵐太郎)

DULL-COLORED POP 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』、第二部『1986年:メビウスの輪』、第三部『2011年:語られたがる言葉たち』

会期:2021/02/09~2021/02/11

KAAT 神奈川芸術劇場[神奈川県]

福島県双葉町の農家に生まれた三兄弟をそれぞれ主人公に据え、原発誘致の決定から東日本大震災における原発事故までの50年間を、一家族の大河ドラマと重ね合わせて描く三部作。2018年に第一部、2019年に第二部と第三部が上演され、2020年に岸田國士戯曲賞を受賞した。DULL-COLORED POP主宰の谷賢一は福島県生まれで、原発で働く技術者を父に持つ。モデルとなった実在の双葉町町長、東電社員、被災者たちへの2年半にわたる取材を元にした合計約6時間の大作が、TPAM 2021で一挙上演された(筆者はオンライン配信を観劇)。

第一部『1961年:夜に昇る太陽』では、東大で物理学を学ぶ長男の穂積孝が主人公。地元の顔役である祖父の元に、東電社員や双葉町町長、県庁職員が土地の売却を持ちかけ、原発誘致の決定までを描く。「夜」すなわち「貧しい東北地方の中でも最貧県」と言われた福島に、産業の発展と経済的恩恵をもたらす「明るい未来のエネルギー」である原発への夢が、明治以降の福島が被ってきた政治的不遇と経済格差、日米安全保障の陰に潜む核武装への欲望といった政治史的背景とともに語られる。


第一部 [撮影:前澤秀登]


第二部『1986年:メビウスの輪』では、かつて原発反対運動のリーダーだった次男の忠が主人公。原発稼働から15年経った双葉町では、住民の1/4が原発関連産業で働き、税収の半分も原発に依存する。「原発建設で土建屋が儲かり、税収が増え、公共施設が建ち、工事を請け負う土建屋が儲かり、さらに税収が増える」という依存のサイクルから抜け出せなくなった町。だが、安定した原発関連工事の供給がなければ、この先も現在の経済状況を維持できないことは明らかだ。そんななか、第一部で原発誘致を働きかけた町長の汚職が発覚。地元の政治家たちは忠に町長選出馬を持ちかけ、「元原発反対運動のリーダーだからこそ、原発の危険性を東電や国に強くアピールし、引き換えに補助金と安全対策の補修工事費のカネを引き出せ」と迫る。「原発反対だが推進する」という矛盾した立場を引き受けた忠は見事当選するが、チェルノブイリ原発事故が発生。ロックミュージックに乗せ、記者会見で「日本の原発は安全です」と連呼する姿は道化のようだ。



第二部 [撮影:前澤秀登]


第三部『2011年:語られたがる言葉たち』では、地元テレビ局の報道局長となった三男の真が主人公。県民への取材を通して、放射能の風評被害、被災者どうしの分断や差別の再生産があぶり出されると同時に、視聴率(資本主義)と報道の使命とのジレンマが描かれる。また、原発事故後、精神を病んで入院した兄の忠に対して、元町長としての言葉を引き出そうとする真の、家族への思いと使命感との葛藤も描かれる。

それぞれが唱える「正論」「正義」「理想」の対立がドラマの推進力となるオーソドックスな作劇手法であり、感情をぶつけ合う俳優たちが「クライマックス」で泣き笑い絶叫する演技も王道である。また、「科学技術」「政治経済」「報道」という三つの視点を三兄弟に担わせ、史実や取材を元に膨大な情報を台詞に落とし込みつつ「家族ドラマ」としてのツボもしっかりと押さえる構成は、よく練り上げられている。三部作全体をとおして、田舎/都会、地方/国、原発推進/反原発、搾取/依存、父(家父長)/息子といった二項対立的構図を描きながら、最終的には第三部で「単純な二項対立ではすくいとれない多様な声に耳を傾けること」が提示される。

ただ、戦後日本社会の構造的歪みを徹底して描出する本作だが、もうひとつの「歪み」が(おそらく無自覚に)戯曲に内在化しているのではないか。それは、「それぞれの正義と理想を胸に生きた男たちの熱いドラマ」の脇に配された、女性の表象のあり方である。ドラマの構造もテーマ自体も「男性の領域」であるからこそ、その男性中心主義性をどう批評的に捉え直すかが鍵となるはずだ。だが、第一部・第二部で登場するのは、「肝っ玉母さん」「故郷で待つ恋人」「背中を押してくれる妻」という「対立しつつも最終的には理解し、傍で支えてくれる」応援団的な役割である(ちなみに、第二部で町長に担ぎ上げられる忠を見守るのも、「モモ」という名の忠実な雌犬の魂だ)。


第三部 [撮影:前澤秀登]


そして、それ以外の女性登場人物が「増えた」第三部で提示されるのは、「無垢な犠牲者」と「産む性」への還元という二極への収斂である。テレビ局員に取材されるのは、「放射能に怯える妊婦」、「妻と娘を津波で流された男」である(「無垢な犠牲者」は「女性」でなければならない)。また、放射能汚染を動画で訴える女子高校生に対して「差別を広げるだけだからやめろ」「放射能がうつるから口をきくな」と差別感情をぶつける若い女性の対立が物語の軸のひとつとなる。両者が共有するのは「出産への不安」であり、彼女たちを取材した女性テレビ局員の「原発事故後、女性社員のみ自宅待機命令が出た。本能的に怖いと思った。生理なんて鬱陶しいと思っていたのに、自分が産む性であることを自覚した。女性にはそういう得体の知れない直感がある」という台詞は、「産む性」としての一方的な本質化にほかならない。


第三部 [撮影:前澤秀登]

このジェンダーをめぐる本質主義が物語の帰結において必須であることが露呈するのが、病室の忠が最期を迎えるラストシーンだ。寄り添う老いた妻は「あんたは、ただ町の発展のために尽くしてきただけ。他人が悪く言おうとも、私だけは愛している」と呼びかける。「死は(再)生への新たな出発」であると語られるなか、「この道はいつか来た道」の童謡を優しくあやすように歌う妻。それは、死を看取りつつ、再び誕生へ向かって送り出す「母」の二重化された存在であり、本作が最終的に希求するのは「すべてを赦し、癒し、そして自分を再び産み直してくれる大いなる母」である。ここで、忠を看取って(再)生へと送り出す彼女が、第一部では長男の恋人、第二部では次男(忠)の妻と、役割を変えながら三部作すべてに登場していたことに留意しよう。それぞれ別の女優に演じられ、別人のようにも見える彼女こそ三部作を貫く影の主人公であり、そこに投影されているのは、「戦後日本の構造的病理がもたらした傷を、男性中心主義への反省を欠いたまま、癒しと赦しの役割を女性に求める」という幻想の物語である。

TPAM 2021
公式サイト:https://www.tpam.or.jp/program/2021/


2021/02/09(火)(高嶋慈)

シアターコモンズ’21

[東京都]

昨年はシアターコモンズのプログラムに参加したのを最後に、コロナ禍によってかなりの期間、観劇する機会が失われた。そうすると、パフォーミング・アーツをめぐる状況が変わってから丸1年たったわけである(ちなみに、初めてマスクをつけて展覧会に行ったのは、昨年2月の「第12回恵比寿映像祭」だった)。前回もVRによる小泉明郎の『縛られたプロメテウス』や、壇上の二人が発話しないジルケ・ユイスマンス&ハネス・デレーレの『快適な島』など、すでにポストコロナを予感させる作品はあったが、今回は社会の動向を見すえたうえで、VRやARを本格的に活用した作品を用意しながら、新しい可能性に挑戦していた。

以下、空間に着目して、体験した作品をまとめておく。ツァイ・ミンリャン『蘭若寺(らんにゃじ)の住人』は、六本木のビルで椅子に座って、HMDを装着し、VR映像の空間に没入する。病の男が佇む廃墟の美を彩るのは、水と光と緑だ。本作を演劇の延長と捉えるなら、壁はあっても、普通の舞台なら、見えない/つくらない天井の染みを自由に眺められるのが興味深い。

スザンネ・ケネディほか『I AM(VR)』も、完全なVRの映像だが、少しだけ体を動かすことができる。最初の閉鎖的な空間から、どんどん世界が広がり、かなり没入感の高い体験だった。あえてゲーム的な空間を創造したようだが、ここまでできるなら、建築、インテリア、ランドスケープのデザインをもっと洗練させる余地があるのではないか。

一方で、中村佑子『サスペンデッド』は、東京ドイツ文化センターに付設された家の中を歩き、病の親をもつ子供を主題とするAR映像を体験する。各部屋で実際に窓から光が差し込み、影が揺れるのだが、それと仮想の映像スクリーン(=もうひとつの窓)の共存が印象的だった。この効果は、晴れた日の昼頃がベストかもれない。

そしてもっともハイブリッドな作品だったのは、小泉明郎『解放されたプロメテウス』である。これはAR(横たわる仮想のベトナム人が5名出現)と、VR(それぞれが実際に見た夢の世界への没入)が切り替わるタイプの体験を味わう。一部の場面では、会場がSHIBAURA HOUSE 5階のガラス張り空間であることも効果的だった。さらに、帰りにもらうプリントのQRコードから、動画「もう一つの夢」にアクセスし、鑑賞するまでが小泉の作品と考えるべきだろう。別の視点から、自らの体験を振り返ることになるからだ。

ところで、新橋エリアで開催された高山明による「光のない。─エピローグ?」は、ラジオというアナログなメディアを使いながら、個別にセルフツアーによって、街に埋め込んだ福島と重なる場をたどるという意味で、実は三密を回避し、もともとポスト・コロナにもぴったりの上演の形式だったのは興味深い。むろん、これはコロナ以前から実践していたものだが、コロナ禍によって、ポスト・シアターの意味が鮮明になったと言えるかもしれない。なお、詩の朗読を聴くために耳は奪われるものの、視覚は解放されているので、せんだいスクール・オブ・デザインのスロー・ウォークのように、普段はじっくり見ないビルの細部も思わず観察することになった。改めて、電線と配線の多いことに気づかされるが、これらも本作がテーマとしていた東京電力が供給する電気が、こうした街の風景をもたらしている。

公式サイト:https://theatercommons.tokyo/


2021/02/11(木)(五十嵐太郎)

若手アーティスト支援プログラムVoyage かんのさゆり・菊池聡太朗展「風景の練習 Practicing Landscape」

会期:2021/02/06~2021/03/28

塩竈市杉村惇美術館[宮城県]

《塩竈市杉村惇美術館》は、鈴木弘人+東北芸工大が《塩竈市市公民館本町分室》(1950)をリノベートした建築である。注目すべきは、高さ約10mに及ぶ大きな集成材のアーチが連なる講堂だろう。近年、木材の使用が積極的に叫ばれているが、すでにモダニズムの時代にこれだけの規模の大架構を試みていたことに驚かされる。2階の常設展示室では、既存の窓もあえて潰さず、再び開くこともオプションとして残しており、原形に復旧可能な改装だった。またボトルシップのように、もう外に出せない、企画展示室内の2つの大きな白い可動壁の存在が興味深い。


集成材のアーチが特徴的な《塩竈市杉村惇美術館》講堂

ここで企画公募による二人展「風景の練習」が開催された。写真家のかんのさゆりは、一見、日本のどこにでもありそうなフラットなハウスメーカーの住宅を撮影した作品を外周に並べる。しかし、均質な風景を批判しているわけではない。それゆえ、ホンマタカシの郊外写真も想起させるが、実はこれらは被災地の復興住宅だ。また彼女はデジタル・カメラで撮影しており、基本的には人が不在の住宅写真だが、細部の小物、後付けの造作や装飾に住人の個性がほのかにうかがえる(もっと大きなサイズの写真の方がわかりやすかったかもしれない)。ほかにも沿岸の復興工事を撮影した作品があり、前述した可動壁は脇に追いやって、青いビニールシートをかけている。また企画室の窓はカーテンなどで遮光せず、空間と対話していた。


二人展「風景の練習」より。かんのさゆりの展示風景



かんのさゆりの展示風景



かんのさゆりの展示風景


菊池聡太朗のパートは、既存の巨大な可動壁を再配置しつつ、彼が修士設計で構想した展示空間の案を部分的に実体化させた新しいヴォリュームと、効果的に組み合わせている。これらが同居することによって、新しいヴォリュームは、可動壁をくり抜いた空間のように感じられるのも興味深い(個人的には「現代美術への視点─連続と侵犯」展に参加した青木淳の作品を想起した)。そして通常であれば、展示には不向きな窓から差し込む光が、印象的なシーンを生む。インドネシアの増改築が続く特殊な家屋と塩竈における石のリサーチ、そして《杉村惇美術館》の空間特性をアクロバティックに混淆させた建築的なインスタレーションだった。本来、出会わないモノ、あるいは空間と時間が、展示室において遭遇するのだが、あまり唐突さを感じさせることなく、抜群のセンスによってまとめられている。



二人展「風景の練習」より。菊池聡太朗の展示風景



菊池聡太朗の展示風景



菊池聡太朗の展示風景

2021/02/12(金)(五十嵐太郎)

イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示

会期:2021/02/06~2021/02/28

京都伝統産業ミュージアム 企画展示室[京都府]

19 世紀後半から 20 世紀前半、欧米帝国主義諸国で華やかに開催された万国博覧会。そこで、植民地を含むアジアやアフリカなど非欧米圏の人々や先住民が、「○○村」と呼ばれるネイティブ・ヴィレッジやパビリオン内に「再現」した住環境のなかで、日常生活や歌や踊りを見せる「人間の展示」が行なわれていた。本展は、写真と絵はがきを中心に、版画、ポスター、パンフレット、新聞や雑誌の挿絵など「イメージの流通」を示す約1500点の膨大な資料群によって、多角的な問いを照射する。企画はキュレーター・映像作家の小原真史。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


近代を駆動させるさまざまな欲望と、いかに視覚が結び付いているか。いかに眼差しが権力性と結び付いているか。本展は、他者をイメージとして領有する欲望を、圧倒的な物量で解き明かす。最先端の産業の精華を示す製品が並ぶ万博会場が、照明やガラスの魔術的な効果とともに百貨店のショーウィンドーに継承され、「万博の常態化」として消費の欲望を喚起し、資本主義を支える装置として機能すること。「タヒチの純粋な大地」に憧れたゴーギャンや黒人芸術に影響を受けたキュビスム、ジャワの音階を取り入れたドビュッシーなど、モダニズムを内部で駆動させるエキゾチシズムの共犯関係。人類学や進化論といった学問は、非欧米圏の人々や先住民を、身体的特徴による計測と分類の対象として扱い、「動物から人間への進歩」を示す序列化を行なった。そうした学術的根拠は、「文明と未開」の構図を示しつつ、「野蛮な自然状態から啓蒙へ導く」シナリオとして、植民地主義に合理的正当性を与えた。また、肥大した臀部と性器を持つアフリカ人女性が生前は「見世物」となり、死後は標本化されたように、女性の官能的なパフォーマンスが博覧会につきものとなり、「性に奔放な非欧米圏の女性」という(白人男性にとって都合のよい)イメージが流通し強化されていく。そしてこれらを支えたのが、出演者たちの長距離移動と観客の大量動員をともに可能にする交通網の発達と、イメージをより遠くへ大量に伝達する写真技術というテクノロジーの両輪である。「魅惑的な異国」への入口として、(しばしば誇張されて正確性を欠いた)各地の建築物の特徴をあしらった「ゲート」は、ディズニーランドなど娯楽的なテーマパークに引き継がれ、「異国の旅人」となった観客が、絵はがきや立体視を楽しむステレオカードといった「お土産品」を持ち帰れることで、ステレオタイプな他者イメージがより強化されていく。私たちが会場で目撃するのは、その膨大な欲望のおびただしい残滓だ。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


また本展は、「見る/見られる」という視線と主体をめぐる複雑な政治学にも言及する。19世紀後半、開国前の日本から万博の視察に訪れた日本人たちは、欧米人から好奇の眼差しや人類学の計測写真のレンズを向けられる対象でもあった。だが、1903年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会では、「学術人類館」でアイヌ、沖縄、台湾などの先住民を「展示」し、自らの優越性や植民地支配の正当化を展示装置を通して行なおうとした。同様の「展示」は、1912年開催の拓殖博覧会でも実施。そこでは、「内地観光」という名目の懐柔策で訪れた台湾の先住民が、「首狩り族」への珍奇な期待とともに「見られる」対象へと反転する。「人類館」をひとつのターニングポイントに、日本が「見られる」エキゾチシズムの対象から視線と権力の主体へ移行するプロセスは、「帝国」の外部や周縁に、「より未開で劣った」人種や部族を「発見」し、獲得すべき植民地を「表象」として一足先に領有する企てでもある。帝国・中心はつねに「外部・周縁」を欲望し、「外部・周縁」が帝国の欲望を支えているという表裏一体性こそを、私たちは眼差さねばならない。



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]



[Photo by Akane Shirai, Courtesy of Kyoto Experiment. ]


本展はまた、過去と未来の2つの万博という時間的レイヤーを有している。第四回内国勧業博覧会(1895)の跡地である京都の岡崎で開催されたことと、2025年の大阪万博を批評的に射程に入れていることである。そして最後に、本展が「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING」のプログラムとして開催された意義を述べたい。住居や生活用具を「舞台装置」のように設え、民族衣装をまとった「異民族」が日常生活を送る様子を演劇的に「再現」し、儀礼的なパフォーマンスを見せる「人間の展示」への再考。それは、近代の歴史的射程や(本展でも紹介されている)「フリークス」の展示という舞台芸術の系譜のひとつに対する反省性のみならず、「他者を表象として切り取り、一方的に視線を向ける」権力性や欲望と分かち難い舞台芸術それ自体に対する再帰的な批評として機能する。


KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2021 SPRING 公式サイト:https://kyoto-ex.jp/shows/2021s-masashi-kohara/


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人類学写真 | 小原真史:Artwords(アートワード)

2021/02/19(金)(高嶋慈)

2021年03月15日号の
artscapeレビュー