artscapeレビュー
2023年01月15日号のレビュー/プレビュー
DAZZLER
会期:2022/11/05~2022/12/10
京都芸術センター[京都府]
生物が捕食者の目を眩ませる「擬態」は、「迷彩」という戦争技術の着想源となった。本展は、そうした擬態、迷彩、目眩しといった視覚の技術が、「不都合なものの隠蔽」「不可視化」「社会的排除」のために用いられ、ジェントリフィケーション、隔離政策、「国民の健康増進」といった生政治的権力に奉仕してきたことを突きつける、極めて明瞭な批評性に貫かれたグループ展だ。企画者の林修平のほか、永田康祐、五月女哲平、飯山由貴、吉田裕亮、木原結花が参加した。
第1展示室の永田康祐、五月女哲平、飯山由貴の作品は、「視認不可能性」「不可視化」のキーワードで捉えられる。永田康祐の映像作品《Theseus》は、都市の高層ビル群を映し出すが、像には無数の歪みが発生している。この歪みは、Photoshopの「スポット修復ブラシツール」による。修整したい範囲を指定すると、周辺の画素を用いて、周囲と滑らかに連続して自然に見えるように自動的に修整する機能だ。永田の作品では、この画像修整機能を画面全体に施すことで、元の画像は1ピクセルも残さず「修整後」のものに置き換わり、もはやその必要がなくとも「修整」がさらに上書きされていく。タイトルが示す「テセウスの船」は、「ある船を構成するパーツをすべて別のパーツに置き換えたら、それは“元の船”と同一だと言えるのか」というアポリアだ。永田の作品では、「いま、どの部分が修整中なのか」それ自体は視認できず、「修整の常態化」だけが画像の歪みとしてそこにある。映された風景にはブルーシートとタワークレーンが見え、「再開発」を示す。「画像修整」すなわち「不都合なものの排除と隠蔽」が常態化し、もはや視認不可能になった「日常の風景」に私たちが暮らしていることを、永田の作品は逆説的に可視化する。
五月女哲平は、「黒い正方形に正円」という同じ構図、同サイズの絵画を約30枚、一列に並べるが、円の色は隣と微妙に異なる明度で塗られ、灰色のグラデーションを形成し、色どうしの「境界線」を確定できない。だが、徐々に「黒」に近づいていく円は、最後の一枚で「地」と完全に同化し、画面は真っ黒に塗り潰され、一枚だけ切り離して展示される。「差異のグラデーション」が、次第に単一の色に近づき、「真っ黒」に塗り潰された沈黙を強いられる。視覚的認知についての問いと同時に、幾何学的構図が「日の丸」を想起させることで、差異を塗り潰して同化を強いていく抑圧的な構造それ自体の可視化としても解釈できる。
飯山由貴の《湯気 けむり 恩寵》は、大正時代の新聞記事のスクラップブックを起点に、書籍、音源、映像、当事者へのインタビューなどのリサーチ資料により、皇室プロパガンダとしての「救癩事業」を歴史的射程で掘り起こす。聖武天皇の妃・光明皇后が、ハンセン病患者の身体を清めて癒した伝説の残る法華寺の浴室。大正天皇妃・貞明皇后が詠んだ短歌を元にした歌が、強制隔離政策の推進キャンペーンとして使われたことを示すレコード。「ハンセン病療養所で皇后にお目にかかった」と話す、元患者のインタビュー。法華寺の浴室を映す映像は、立ち込める「湯気」で次第に白く曇っていく。そこに、「私たちは、亡くなって煙となることではじめて自由になる」という別の元患者の言葉が添えられることで、この「湯気」は、優生思想に基づく強制隔離政策すなわち「社会からの排除と不可視化」のメタファーとして立ちのぼる。
飯山と同様、ハンセン病の強制隔離政策のリサーチを行なってきた吉田裕亮は、国家による「国民の身体の管理」を「スポーツ」という別の側面から扱う。《健民になるための建築》では、立方体のコンクリートブロックの上面に、「健民修練所」「建國体操」など大日本帝国が戦時中に実施した健康増進政策に関する言葉や図像が刻印されている。コンクリート基礎を剥き出しにすることで、スポーツの推奨や表彰制度による「健康な身体」の管理体制が、文字通り「国家の(見えない)基盤」を成していることを可視化する。
また、林修平の《帝國水槽》は、一見普通の水槽だが、1942年発行の『満州水草図譜』に掲載された水草数種が飼育されている。植物の採集や飼育装置と植民地主義の関係を示す例として、近代ヨーロッパで活躍したプラントハンターが想起される。アフリカやアメリカ大陸、アジアに赴き、希少で有用な植物を採集してヨーロッパへ持ち帰り、繁殖を試みたプラントハンターは、植物学の発展に寄与すると同時に植民地主義的欲望と密接に関わっていた。林の水槽もまた、そうした欲望を「箱庭的世界の所有と管理」として提示する。
このような吉田と林の作品を、〈帝国の統治の技術〉と名づけてみよう。ここで再び飯山の作品に戻ると、「ジェンダーと性別役割分業」もまた〈帝国の統治の技術〉として巧妙に利用されてきたことがみえてくる。戦前の皇室関連の新聞記事を大量に貼り付けたスクラップブックが示すのは、軍隊(国民=兵士)のトップに君臨する「天皇の身体」だ。一方、皇后(女性・妻)には、「病人を癒す」看護とケアの役割が割り当てられてきた。明治期以降の皇室は、「近代化」を国民にお手本として示すと同時に、正統性の基盤としてさまざまな「伝統」を召喚したが、「ハンセン病患者のケア」を行なった光明皇后もその一例である。一方、戦後の「皇室の民主化」すなわち非軍事主義化により、「大元帥としての天皇の身体」は姿を消し、「ケアを担う身体」に吸収された(被災地を見舞う平成天皇「ご夫婦」はその端的な例である)。このような文脈を踏まえるとき、飯山の作品は、〈帝国の統治の技術〉としての性別役割分業もまた、「恩寵としての湯気」の背後に隠れて見えにくくなっていることを語りかけるのだ。
公式サイト:https://www.kac.or.jp/events/32708/
2022/12/03(土)(高嶋慈)
チーム・チープロ『京都イマジナリー・ワルツ』
会期:2022/12/01~2022/12/05
STスポット[神奈川県]
「触れることが過剰に制限されていた不思議な時間に、わたしたちは、想像の上で誰かと踊る『ワルツ』をイマジナリー・ワルツと呼び、この踊りの型をもちいたリサーチをはじめました」。
2021年にKYOTO EXPERIMENTで初演され、YPAMフリンジのプログラムのひとつとして今回横浜で再演された『京都イマジナリー・ワルツ』(振付・構成:松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ)の当日パンフレットにはこんな言葉が記されていた。舞台に登場した松本が観客の一人ひとりと目を合わせ、誘うように手を差し伸べると、舞台奥に「みなさんはわたしと向かい合って立っていることを想像してみてください」とテキストが投影され、機械音声でそれが読み上げられる。「わたしは今日 この劇場に集まった皆さん一人ひとりとワルツを踊りたいと思っています」。
作品は投影されるテキストとその機械音声による読み上げ、そして松本のステップによって進行していく。京都での松本の体験。西洋化と近代化の象徴としての社交ダンス。かつてあった東山ダンスホールとそこで踊ったダンス芸妓と呼ばれる人々。身体の接触は不道徳であるという理由で社交ダンスが禁止されたこと。バレエに励み、しかし身体をまなざし鍛え続けることへの恐れから逃げ出した記憶。ワルツの起源に関する物語。テキストが語るワルツをめぐる歴史的なエピソードと個人的な記憶は舞台上でステップを踏み続ける松本の身体に束ねられていく。
語られる身体の多くは外部からもたらされた、さらに言えば男性から女性へと向けられた規範によって形づくられたものだ。「いったいそのような理想は誰にとっての理想だったのか」。
ステップを踏み続けていた松本が舞台からいなくなり、祖母と踊った想像上のワルツは「とてもプライベートなもの」なので「お見せすることはできません」と観客の視線が拒絶されたとき、私がともに踊っていた想像上の松本は本人から遊離したイメージでしかなかったのだというあまりに当然のことが改めて突きつけられる。言葉が引き起こす想像を松本の身体に投影すればするほど、松本自身とその身体は私の視線から逃れていく。
テキストは「わたしたちは想像します」と繰り返すが、「わたしたち」の想像が完全に一致することは決してない。それでも気づかぬふりで互いに自分の想像を相手に押しつけ合うことは明白な暴力である。ただそれがあまりに日常的な行為であるがゆえに、普段は等閑視されているに過ぎない。
だがもちろん、ダンスは他者の視線や欲望、想像によって一方的に規定され立ち上がるものではない。そこには「芸を磨くことの喜び」が、「自分の身体が見られていることの喜び」が、踊ることそれ自体の喜びがあったはずだ。
『京都イマジナリー・ワルツ』はだから、我が身にべったりと張りついた他者の想像を一度引き剥がし、そこにギャップがあることを承知で改めてそれを引き受け直そうとする試みだ。「想像の上で誰かと踊る」ことはむしろ、生身同士で触れ合って踊るときでさえ二人の間に想像の皮膜が存在していることを確認するためのトレーニングなのだ。「わたしたちは目の前にたぬきが立っていることを想像します」。「わたしたちが望む誰かにそのたぬきが化けてくれることを想像します」。私は向かい合う二匹のたぬきが互いを化かし合う様を想像する。だがそうするうちに「やがて自分が自分ならざるものに変身している」こともあるだろう。もちろんその意味合いは両義的だ。そう言えば、この作品の冒頭で語られていたのは鴨川の情景だった。川を挟んでその両岸で踊ることを想像すること。「川はこちらの世界とそちらの世界のあいだを流れています」。「川の中に仮想の重心があると想像してみてください」。そうしてワルツの基本として「ふたりの間に重心を意識」すること。
上演のラストに置かれた一連の言葉は冒頭のフレーズを反復するかのようでありながら、しかしその響きを決定的に変えている。「こちらの舞台でわたしが立っているのが見えますか?」という冒頭の問いかけが単なる形だけの確認ではなかったことはいまとなっては明らかだ。1時間にわたって松本を見続けていたはずの観客は「わたしを見てください」と改めて呼びかけられることになる。観客にその呼びかけの重みを引き受ける覚悟ができたとき、ようやくワルツを踊る準備が整うことになるだろう。舞台の上では「わたしはあなたたち一人ひとりの重さと踊っていることを想像しています」と松本が待っている。
チーム・チープロ:https://www.chiipro.net/
2022/12/05(月)(山﨑健太)
ZINE『岡山芸術ごっこ』
発起人:菊村詩織
発行日:2022/11/01
コンビニエンスストアに行って、マルチコピー機のパネルで「プリントサービス」を選択した後、「ネットワークプリント」をタップ。ツイート(こちら)に書かれたユーザー番号を入力する。モノクロだと260円。2023年1月3日の18時頃までローソン、ファミマ、ポプラ系列で印刷できるようになっていたZINEが1枚ずつ印刷される 。『岡山芸術ごっこ』である。本稿は脱線気味だがZINEを読んだ所感であり、共感と応答する気持ちから綴ったものだ。
1. ZINEを読んだ
「岡山芸術交流 2022 僕らは同じ空のもと夢をみているのだろうか」(会期:2022年9月30日〜11月27日/以下、岡山芸術交流)の総合プロデューサーである石川康晴(公益財団法人石川文化振興財団理事長)は、2018年12月のストライプインターナショナルのCEO在籍時に、同社員やスタッフへのセクシャルハラスメントに関する厳重注意を同社の臨時査問会で受けていたと、2020年3月に朝日新聞等に報道された 。 石川は2020年3月6日付けで同社を、9日には内閣府男女共同参画会議議員も辞任したが、その理由は「自身にかかわる一連の報道を理由に」 「世間を騒がせているため」 という曖昧なものだった。ZINE『岡山芸術ごっこ』は、岡山芸術交流がこの一連の報道を受けても「変更なく開催されているため、反対の意思を示すために企画」された 。
ZINEでは、記名・無記名の15名ほどの人々が石川によるハラスメントがあった可能性が拭い去れない/あった可能性が高いという危機感のもと、「岡山芸術交流についての思い」を書いている。それは勝手ながらまとめてみると、芸術祭への関与や観賞すら、加害者かもしれない石川について言及しなければ、ハラスメント自体を「認可(license) 」
することになり、被害者への二次加害になりうるのではないかという指摘だろう。またZINEには直接的に、時には詩を通して、石川に関するハラスメント報道への認識や関心の度合の違いが立場の違いとなり、芸術祭関係者や関心を持っている人々を分断しているという状況、あるいは、石川が報道を受けたことをどう考えるかという提起すら黙殺されるという怒りや悲痛さが切々と綴られている。2. 報道内容を確認したくなった
私はZINEを読んで、何がどのようにいままで報道されているのかを振り返りたくなった。判断の土台となるマップが欲しいと思ったのだ。
前述の通り、2020年3月4日の朝日新聞の報道を受けた後、石川はハラスメント行為を認めていない。また、ストライプインターナショナルの広報は翌日「石川がセクハラで厳重注意を受けていた」という報道を部分的に否定した。曰く正しくは、当事者からの申し立てでないためにセクハラの事実が確認できなかったが、そこで提出された石川と社員とのLINEでのやりとりが、「トップとして社員との距離の取り方が近すぎると査問会から石川に対し厳重注意はあった」と
。朝日新聞に掲載されているLINEのスクリーンショットは2018年12月に臨時査問会で提出されたとされるものであるが 、CEOから夜にホテルの部屋にひとり呼び出されるLINEはどう考えても性的行為の打診にしか思えないだろう。明快に断って自意識過剰だと一蹴され職場環境が悪化したらと考えさせられる立場の非対称性を持つ時点で、これはセクシャルハラスメントだと考えられる 。一方で、2020年5月1日に同社の人事課長(当時)であった二宮朋子は、フィクションの漫画に実名と肩書を添えてnoteに記事を投稿している
。そのアカウントと漫画制作は株式会社TIEWAが運営する「パレットーク」のもので、二宮が自身で語るように、「2019年からストライプインターナショナルの社内SNSで配信しているダイバーシティ/SDGsコラムのイラストを依頼」していた会社なのだが、二宮による漫画と投稿は社外からの寄稿という立ち位置だ 。フィクションだというその漫画では、男性社長が女性社員に性的な興味を持っている場合の態度と、そういったものを見逃してきていなかったかという二宮の自己反省が描かれているが、その男性社長はどう見ても石川に似ていて、事件との関連が示唆されているようでもあり、メッセージが複雑化されている ことに留意したい。3. ハラスメントへのさまざまな対処とその性質
2022年にも報道されたように、石川はストライプインターナショナルにまだ主要株主として影響を与える可能性があり
、そのようななかで同社は、記者の林芳樹が言うように「4000人近い従業員が働く会社の存続自体が危うくなる。査問会は役員規定に基づく処分ではなく、いわば“政治決着”を選んだ」 のだ。この漫画がハラスメントの真相を明らかにするものではないのはなぜかと質問を受けた二宮は「その説明責任を果たすべき人は他にいるはずです」と返答し、人事として採用に関わってきた責任を果たそうと漫画や記事を制作したと綴っている 。社内の人間に向けた、それぞれの責任の範囲に応じた決断があった。ストライプインターナショナルは、二宮による記事を受け入れる土壌を示すことで社員(ひいては社会的弱者)の尊重を暗示し、ハラスメントはなかったという声明を出すことで会社の不祥事にまつわる損益を最小にしたと私は考えている。企業運営上、これ以上ない判断だったのだろう。ただしその結果、一企業のハラスメントに関する「政治決着」が、多くの人々の「岡山芸術交流」についての問題認識をバラバラにし、混乱を招き続けている。ハラスメントは名誉毀損罪や侮辱罪として刑事訴訟、人格権の侵害から民事訴訟になる可能性もあるが、本件のように組織内での対処がほとんどであり、謝罪と被害が公表されるケースばかりではない。ハラスメントとは、(それが検証可能かは別の問題として)つねにほとんどのタイミングで、噂に留まる性質をもってしまうものなのだ。
公的に問題になる可能性が低いということは、限りなく厄介だ。外的な裁量はほとんど得られないなかで、憶測で意見を形成してもならず、自分自身の行為や判断が内的な倫理に合致するかどうかだけは見極め続けなければならない。では、内的な倫理に反した場合はどうするべきか。
4. どうしたらいいか、どうしてしまってきたか
石川のハラスメント疑惑について友人に相談したところ、パレスチナ問題に際し、親イスラエルロビーやイスラエル空軍とつながりのあるザブルドヴィチ・アート・トラストに対し何百名ものアーティストや美術関係者が採ったボイコットの手法の存在を教えてくれた。その運動団体であるBoycott Divest Zabludowicz(BDZ)が主導する方法は、作家やキュレーターはその組織のために働いたり、そのショーをレビューすることを拒否し、アーティストは作品の著作権ボイコット(イベントや展示やあらゆる記載を撤回させたり、作品を引き取り他所に寄贈するなど)を実施するというものである
。このザブルドヴィチによるパレスチナ虐殺への関与は否定し得ない状況にあるという点が、石川問題とはまったく異なるが、そもそも、このハラスメント疑惑の事実関係が広く共有される可能性はきわめて低い。だからこそ、自身の内的な倫理に照らして、自分で責任を持てる無理のない範囲で、この文章を書くことにした。私はBDZのアクションを読みながら、いままでのさまざまなハラスメントに関する噂とその相手への自分の対応を振り返った。私自身、自分の倫理に反する行為に対して下した決断もあるが、その行為は中途半端なために推定加害者を利してきたものもあり、被害者の損失に結果加担してしまった。私はすぐ何かアクションを起こせるような胆力がないが、まずこの自分の状態を変えていきたい。
濱田祐史「入射と反射 Incidence and Reflection」
会期:2022/12/01~2023/01/28
PGI[東京都]
1979年、大阪生まれの濱田祐史は、2003年に日本大学芸術学部写真学科を卒業後、東京を拠点に写真家として活動している。PGIでは、2013年の「Pulsar + Primal Mountain」を皮切りにコンスタントに個展を開催し、そのたびに思いがけない方向性をもつ作品を発表して驚きを与えてきた。視覚的に捉え難い「光」を可視化しようとした「Pulser」、プリントの色相を三原色(YMC)に分解して、それぞれの層を自由に組み合わせて再構築した「C/M/Y」、黒白とカラーで同じ光景を撮影し、それらを暗室で一枚の印画紙にプリントした「K」など、彼の仕事は写真という媒体の基本原理にもう一度立ち返ろうという志向性と、さらにその表現の可能性を拡張していこうとする意欲とを、両方とも含み込んだものといえる。
今回の、オフセット印刷やリトグラフの原板に使用するPS版を用いたシリーズにも、彼のしなやかで豊かな発想力、構想力が充分に発揮されていた。PS版は紫外線に感光するという特質を備えている。濱田はその機能を利用して、「目には見えないけれど、太陽から確かに届いている紫外光」を定着しようとした。しかも、PS版をカメラにセットしての撮影と、事物に押し当てて感光させるやり方とを、両方とも試みることにした。PS版をくしゃくしゃに折り曲げて、光を直接写しとった作品もある。このようなさまざまな実験の繰り返しの結果として、本作はあたかも科学者やアーティストたちが、写真術の草創期に試行錯誤を重ねつつ未知の像を見出そうとしていた頃を思わせる、活気あふれる作品群として成立していた。濱田のここ10年余りの活動は、かなりの厚みと広がりを持つものになりつつある。そろそろ、より規模の大きな写真展の開催や写真集の刊行を考えてもいいのではないだろうか。
公式サイト:https://www.pgi.ac/exhibitions/8337
関連レビュー
濱田祐史「Pulsar + Primal Mountain」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2013年06月15日号)
2022/12/07(水)(飯沢耕太郎)
角田和夫「土佐深夜日記─うつせみ」
会期:2022/10/29~2023/01/09
高知県立美術館[高知県]
1952年、高知市生まれの角田和夫は、第11回林忠彦賞を受賞した『ニューヨーク地下鉄ストーリー』(クレオ、2002)をはじめとして、『シベリアへの旅路―わが父への想い』(同、2002)、『マニラ深夜日記』(同、2016)など、ドキュメンタリー写真の力作を発表し続けてきた。だがそのなかでも、今回、高知県立美術館での個展に出品された「土佐深夜日記」のシリーズは、最もプライヴェートな要素の強い異色作といえる。
中心になっているのは、角田の母方の叔父を撮影した写真群である。叔父はゲイの世界に生きており、角田はふとしたきっかけから、彼がスタッフとして働く店とそこにうごめく人間模様にカメラを向けるようになる。当時、1984年の父親の死をきっかけとして精神的に不安定な状況にあった角田は、深夜に高知の街を徘徊し、赤外線カメラで目にした光景を撮影する「満月の夜」と題するシリーズを開始していた。その手法を「夜の怪しいエネルギーが渦巻く世界」の撮影にも向け、1990年に叔父が他界するまで撮影を続ける。それらの写真群は、2014年に写真集『土佐深夜日記』(クレオ)として刊行された。
「満月の夜」、「土佐深夜日記」、そしてその後日譚といえる「続土佐深夜日記」(2020-2022)の3部構成をとる今回の展示は、ドキュメンタリー写真と「私写真」の両方の領域にまたがるものといえる。ジャーナリスティックな報道性、客観性はむしろ後ろに退き、叔父の生死に対峙した角田自身の哀切な感情が強く滲み出てきている。
子供の頃は、むしろ恐れや嫌悪感をともなって見ていたという夜の世界(性の世界)が目の前に開けてきたとき、それを拒否するのではなく、まずは写真家として受け入れようとする姿勢が一貫しており、ほかのシリーズにはない奥行きと深みを感じる。赤外線写真というややトリッキーな手法が、必然的なものであると納得させるだけの力が備わった写真群といえるだろう。
なお、今回の展示は、地元出身のアーティストたちの仕事にスポットを当てる「ARTIST FOCUS」の枠で企画・開催された。角田以外にも、高知にはいい写真家がたくさんいるので、ぜひ紹介を続けていってほしい。
公式サイト:https://moak.jp/event/exhibitions/artistfocus_03.html
2022/12/10(土)(飯沢耕太郎)