artscapeレビュー

2023年01月15日号のレビュー/プレビュー

エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』

翻訳:松葉類、宇佐美達朗

発行所:勁草書房

発行日:2022/10/26

2016年に世に出た『植物の生の哲学──混合の形而上学』(嶋崎正樹訳、勁草書房、2019)によって、エマヌエーレ・コッチャの名前は一躍世界的なものとなった。この1976年生まれの哲学者の仕事は、いまや狭義の現代思想の枠をこえて、さまざまな文化領域に広がっている。なかでも、同時代のアーティストからの影響を公言して憚らない著者は、2019年にはカルティエ現代美術財団の「われわれという木々(Nous les arbres)」の学術顧問を務めたほか、フィンセント・ファン・ゴッホ財団の要請により、かの有名な《種まく人》についての小さな著書(『種まく人──現代の自然について』)を執筆している。現在はパリの社会科学高等研究院(EHESS)で教鞭をとるこの哲学者は、現代美術の世界でも昨今ますます存在感を増している。

その『植物の生の哲学』のいわば続篇とも言えるのが、2020年に刊行された本書『メタモルフォーゼの哲学』である。原著の翌年(2021年)にはすぐさまロビン・マッカイの手による英訳が刊行されており、そのことからも、この哲学者に対する世界的な注目度の高さがうかがえる。

本書に内包される思想は、ある意味ではきわめて単純なものである。ふだんわれわれが生命とみなしているのは、同じひとつの「生」が変容したものである。個々のあらゆる生命は、そのメタモルフォーゼの結果にすぎない。いかなる生物も単独では存在しえず、われわれはつねにほかの生物を糧として、またほかの生物の糧として存在している。その意味で、どんな生物であっても根源的にはどこかでつながっている。さらに厳密に言うなら、事態は生物の範囲内にとどまらない。コッチャによれば、生物とは無生物の延長──ないし「再受肉」──なのであり、そのかぎりにおいて「生物と無生物の間にはいかなる対立もない」(8頁)。

以上のような思想を、本書は「Ⅰ 誕生=出産」「Ⅱ 繭」「Ⅲ 再受肉」「Ⅳ 移住」「Ⅴ 連関」という5つのパートを通して詳らかにする。各章のトピックは比較的広範にわたっているが、本書全体を貫くのは、自立した個体(=わたし)というものが一種のフィクションにほかならず、その実相は大いなる「生」のメタモルフォーゼの一部である、という全体論的な世界観である。これは昨今のエコロジー思想とも親和性の高い、現代の「生の哲学」の一形態であると言えよう。

さきほど、本書はある意味で前著『植物の生の哲学』の続篇である、と言った。それは、この2冊がいずれも、生命というものを根源的に「一なるもの」として捉えている点で共通しているからだ。前著では、それを端的に言い表わす「混合の形而上学(métaphysique du mélange)」という表現が副題に用いられていたわけだが、「混合」にしろ「メタモルフォーゼ」にしろ、そもそも一なる生が根幹にあり、そのうえで個々の生物がその存在を分かち持っているという図式において、コッチャの思想はこれらのあいだで大きく異なってはない。

そのうえで言うと、わたし個人の『メタモルフォーゼの哲学』に対する評価は、いくぶん微妙なものとならざるをえない。『植物の生の哲学』においては、「混合」ないし「浸り」というキーワードを通じて、有機体のなかでも伝統的に最下位におかれてきた植物を世界の中心に据えるという大きな価値転換が見られた。対する『メタモルフォーゼの哲学』において、この地上に生きるわれわれはみな「ガイア」という大いなる存在に結びつけられる。ここには昨年亡くなったブリュノ・ラトゥール(1947-2022)からの影響も見られるとはいえ、そこでは前著にあったような価値観の大胆な転換が、いくぶん影をひそめているように見えなくもない。

さらに言おう。本書には、いまだかつてない「新しい」哲学理論が含まれているわけでは必ずしもない。勘のよい読者ならばお察しのように、ここまで紹介してきたような内容の大半は、ベルクソンやホワイトヘッドをはじめとする過去の「生の哲学」の焼きなおしにすぎない。「すべての生命はつながっている」という命題にしても、ほとんどの人にとっては、あらためて言挙げするまでもないたんなる事実の域を出ないだろう。だから注目すべきは、そんな本書がなぜこれほどまでに読まれ、注目を集めているかという問題のほうにある。

かつて本書を原著で読んだ一読者としての印象を言えば、本書には著者の第一言語でないフランス語で書かれているがゆえの、不思議な力強さがある。なるべく込み入った構文を避けて、短く断定的なセンテンスをぽつぽつと繰り出していくそのライティング・スタイルは、前著からさらなる洗練をみせている。著者であるコッチャはかつて筆者との対話のなかで、哲学(史)というのはさまざまな知の「寄せ集め」であって、そこにはいかなる共通の対象も、文体も、方法もないと述べたことがある。なるほど、プラトン、ニーチェ、ウィトゲンシュタインといった「哲学者」たちの文章には、それぞれ対話篇、アフォリズム、命題の集合といった特徴があり、ふつうに読めばそこに共通点などまったくない。コッチャの言葉を補って言えば、われわれが──事後的に──「哲学史」とみなしているのは、つねに新しい「スタイル」の発明の連続であったということだ。わたしが本書を読みながら、くりかえし思い出していたのはそのことだった。コッチャの一連の著書もまた、その哲学的な内容の新しさ云々の次元でなく、そのスタイルにおいて、ひとつの新しい形式を発明する試みであると考えるべきかもしれない──本書につづく『家の哲学(Philosophie de la maison)』(2021)も含めて、わたしがコッチャの近年の仕事から感じるのはそのような「新しいスタイル」への意志である。

関連レビュー

エマヌエーレ・コッチャ『植物の生の哲学──混合の形而上学』|星野太:artscapeレビュー(2020年06月15日号)

2023/01/05(木)(星野太)

戸田昌子『Hisae Imai|今井壽恵』

発行所:赤々舎

発行日:2022/10/23

今井壽恵の写真家としてのユニークな軌跡が、ようやく明らかになりつつある。戸田昌子の監修で赤々舎から刊行された『Hisae Imai|今井壽恵』には、1959年に、「ロバと王様とわたし」、「夏の記憶」など、詩情あふれる「フォト・ポエム」の作品群で日本写真批評家協会新人賞を受賞し、その輝かしい才能が注目された彼女の、初期作品を中心とした代表作が掲載されていた。

今井については、これまで、1962年の交通事故によって一時視力を失うなどの重傷を負った後、それまでの写真と物語とを融合させるような作風から、「馬の写真家」に転身していくプロセスについて語られることが多かった。だが、今回の写真集では、今井が「芸術写真家、コマーシャルフォトグラファー、営業写真家という三足のわらじを履いていた」(戸田昌子「蘇る今井壽恵」)ことにも注目している。今井は1975年の個展「馬の世界を詩う」において、作品を展示即売したという。写真を芸術という枠に閉ざすのではなく、「夢のある商品」としてより開かれたものにしていくという志向は、現在でも有効性を持つのではないだろうか。

そう考えると、今井が1964〜1974年に、エッソ・スタンダード石油(現・ENEOS)の広報誌『Energy』の表紙のために撮影した写真シリーズも、興味深い試みといえるだろう。多重露光などの技法を駆使し、抽象と具象との間を行きつ戻りつするようなそれらの写真群もまた、「夢のある商品」の具現化というべき、型破りな実験作だった。

関連レビュー

今井壽恵の世界:第一期 初期前衛作品「魂の詩1956−1974」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2020年02月01日号)
今井壽恵の世界:第二期「生命(いのち)の輝き–名馬を追って」|飯沢耕太郎:artscapeレビュー(2021年02月01日号)

2023/01/05(木)(飯沢耕太郎)

原田直宏『二千二十年 江戸東京魚風雨影 Tokyo Fishgraphs 2020』

発行所:Libraryman

発行年:2022

2022年度のLibraryman Awardの受賞作として、スウェーデン・ストックホルムで刊行された原田直宏の『二千二十年 江戸東京魚風雨影 Tokyo Fishgraphs 2020』は、とてもユニークなコンセプトの写真集である。

下敷きになっているのは歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」であり、それに「朝早く魚市場に行って買い求めてきた」というさまざまな種類の魚たちを撮影した写真が組み合わされている。魚たちはごく日常的な場所(地面、コンクリートの階段、側溝など)にさりげなく置かれており、茶碗、皿、ガラス瓶などのこれまた日常的なオブジェと組み合わされている。そのたたずまいは、和風といえばそうともいえるが、厳密な美意識に基づくというよりは、ややキッチュな思いつきの産物のように見える。広重の浮世絵と魚+オブジェの付け合わせも、見立てというよりは、そういわれればどこか似ているという程度のものだ。

ところが、写真集のページをめくっていくと、そのいかにもゆるい空気感が、逆に江戸時代からわれわれ日本人のなかに脈々と受け継がれてきたものの見方(西洋人の目から見れば奇想としか言いようがないだろう)を浮かび上がらせるように思えてくる。色、形、意味のトリッキーな結びつきを、視覚だけでなく、味覚や触覚や聴覚を含めて味わい尽くしてきたその名残が、この「二千二十年 江戸東京魚風雨影」にもしっかりと宿っているのではないだろうか。

原田がこのシリーズを撮り進めていたのは、新型コロナウイルス感染症の流行にともなう緊急事態宣言下の東京だった。人気の消えた路上で繰り広げられた奇妙なパフォーマンスが、まさに奇想天外な写真集として形をとったということだろう。

2023/01/05(木)(飯沢耕太郎)

ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』

翻訳:伊勢康平

発行所:ゲンロン

発行日:2022/08/10

昨年、哲学者ユク・ホイの主著2冊が立て続けに日本語に翻訳された。その1冊が『再帰性と偶然性』(原島大輔訳、青土社)であり、もう1冊が本書『中国における技術への問い』(伊勢康平訳、ゲンロン)である。かれのおもな専門は技術哲学だが、過去には哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが手がけた展覧会「非物質的なものたち」(1985)についての論文集の編者を務めるなど★1、現代美術にも造詣が深いことで知られる。

本書『中国における技術への問い』は、近年まれにみるスケールの哲学書である。著者ユク・ホイは香港でエンジニアリングを、イギリスで哲学を学び、ドイツで教授資格(ハビリタツィオン)を取得したという経歴の持ち主だが(現在は香港城市大学教授)、本書を一読してみればわかるように、そこでは英語、中国語はもちろん、ドイツ語やフランス語の文献までもが幅広く渉猟されている。そのうえで本書が投げかけるのは──まさしく表題にあるように──「中国」における「技術」とは何であるか、という問いである。

そもそもこの「技術への問い(The Question Concerning Technology)」という表現は、ハイデガーによる有名な1953年の講演(の英題)から取られている(『技術への問い』関口浩訳、平凡社ライブラリー、2013)。本書は、かつてハイデガーが西洋哲学全体を視野に収めつつ提起した「技術への問い」を、中国哲学に対して差しむけようとするものである。せっかちな読者のために要点だけをのべておくと、本書でホイがとりわけ重視するのは「道」と「器」という二つのカテゴリーである。大雑把に言えば、中国哲学においては前者の「道」が宇宙論を、後者の「器」が技術論を構成するものであり、ホイはこれら二つの概念を軸に、みずからが「宇宙技芸」と呼ぶものの内実を論じていくことになる。言うなればこれは、古代ギリシアにおける「テクネー」を端緒とする西洋的な「テクノロジー」とは異なる、中国的な「技術」の特異性を明らかにする試みである。

同時に、ただちに付け加えておかなければならないが、本書は「技術」概念をめぐるたんなる比較思想の試みでもなければ、中国における「技術」によって西洋のそれを「乗り越えよう」とする試みでもない。本書後半において、戦前の京都学派による「近代の超克」論に話題が及ぶことからもうかがえるように、著者は「技術への問い」がもつ政治的な危うさを重々承知している。ホイによる「宇宙技芸」というプロジェクトの核心は、従来もっぱら単一的・普遍的なものとされてきた「技術」を複数的なものとして捉えなおし、各々の「技術」がいかなる世界把握に支えられているのかを説得的なかたちで示すことにある。ここには、凡百の技術哲学とは異なる周到な方法的自覚がある。

本書の「日本語版へのまえがき」でも書かれているように、「宇宙技芸(cosmotechnics)」の「宇宙(cosmo-)」という接頭辞には、宇宙論が「技術に原動力を与え、その条件を規定する」という意味と、技術が「宇宙と人間世界の道徳のあいだを媒介する」という双方の意味が込められている(15-16頁)。本書におけるストア派と道家の思想の比較が示すように、著者はなにも中国にだけ特権的な「宇宙技芸」を見いだしているのではない。ここで言う「宇宙技芸」には東西問わずさまざまなかたちがありえたし、これからもありうるだろう。繰り返しになるが、重要なのは「技術」を単一的・普遍的なものから解放し、その複数性に目をむけることである。

本書の問いを継承する『芸術と宇宙技芸』(2021)をはじめとして★2、ユク・ホイが本書によって切り開いた問いの領域は、いまなお拡大を続けている。そこではきわめて広範な問題が論じられているだけに、おそらくさまざまな異論や反論もありうるだろう。だが、それは本書のポテンシャルを示すものでこそあれ、根本的な瑕疵となるものではない。いずれにせよ、洋の東西を超えて現代思想のフロンティアを果敢に切り開こうとする本書が、すぐれた日本語訳によって出版されたことを喜びたい。

★1──Andreas Broeckmann and Yuk Hui (eds.), 30 Years After Les Immatériaux: Art, Science and Theory, Lüneburg: mason press, 2015.
★2──Yuk Hui, Art and Cosmotechnics, University of Minnesota Press/e-flux, 2021.

2023/01/06(金)(星野太)

カタログ&ブックス | 2023年1月15日号[近刊編]

展覧会カタログ、アートやデザインにまつわる近刊書籍をアートスケープ編集部が紹介します。
※hontoサイトで販売中の書籍は、紹介文末尾の[hontoウェブサイト]からhontoへリンクされます





「すべて未知の世界へ ―GUTAI 分化と統合」カタログ

発行:国立国際美術館大阪中之島美術館
発行日:2022年10⽉
サイズ:28cm、285ページ


2022年10⽉22⽇(⼟)〜2023年1⽉9⽇(⽉・祝)に国⽴国際美術館、⼤阪中之島美術館にて開催されていた「すべて未知の世界へ ―GUTAI 分化と統合」のカタログ。






「中﨑透 フィクション・トラベラー」カタログ

監修:中﨑透
編集:竹久侑、嘉原妙
写真:加藤健、仲田絵美
発行:水戸芸術館現代美術センター
発行日:2022年11月
サイズ:A5判、288ページ

2022年11月5日(土)〜2023年1月29日(日)まで開催されている展覧会「中﨑透 フィクション・トラベラー」のカタログ。






近代建築における理想の変遷 1750-1950

著:ピーター・コリンズ
翻訳:吉田鋼市
発行:鹿島出版会
発行日:2022年12月13日
サイズ:23cm、440ページ

ケネス・フランプトンが再評価した「近代建築の解釈学的古典」。待望の邦訳刊行。






建築と触覚 ─空間と五感をめぐる哲学

著:ユハニ・パッラスマー
解説:スティーヴン・ホール
翻訳:百合田香織
発行:草思社
発行日:2022年12月16日
サイズ:四六判、208ページ

建築における触覚、聴覚、味覚、嗅覚の重要性を視覚偏重の時代に再考し、哲学・美術をも横断しながら「五感を統合する」建築の在り方を問う。






1階革命 ─私設公民館「喫茶ランドリー」とまちづくり

著:田中元子
発行:晶文社
発行日:2022年12月20日
サイズ:四六判、280ページ

1階づくりはまちづくり! 大好評だった『マイパブリックとグランドレベル』から5年、グランドレベル(1階)からはじまる、まちづくり革命の物語、完結編。






田中敦子と具体美術協会

著:加藤瑞穂
発行:大阪大学出版会
発行日:2023年1月20日
サイズ:A5判、400ページ

電気服はいかにして平面になったのか――具体美術協会再考のための初めてのモノグラフ









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2023/01/13(金)(artscape編集部)

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