2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

港都KOBE芸術祭

会期:2017/09/16~2017/10/15

神戸港、神戸空港島[兵庫県]

神戸港の開港150年を記念した芸術祭。神戸という「場所の記憶」への言及として、古巻和芳と川村麻純の作品が秀逸だった。古巻和芳の《九つの詩片 海から神戸を見る》は、本芸術祭の目玉である「アート鑑賞船」に乗り、海上から鑑賞する作品の一つ。神戸の詩人たちが戦前、戦後、現代に綴った9つの詩が透明なアクリル板に記され、詩の言葉というフレームを通して、現在の神戸の風景を見るというものだ。伸びゆく線路と発展、都市の中の孤独、空襲、そして再び街が炎に包まれた震災……。紡がれた言葉は、場所の記憶への想起を誘う通路となるが、そのフレーミングは波に揺られるたびに不安定に揺れ動き、むしろ眼前の「現在」との時間的・空間的距離の中に「見えないもう一つの風景」が浮かび上がる。


古巻和芳《九つの詩片 海から神戸を見る》

川村麻純の《昨日は歴史》は、映像、写真、テクスト、音声から構成される複合的なインスタレーション。映像では、古い洋館の応接室のような室内が、ゆっくりと360度パンするカメラによって映し出され、淡々と物語る若い女性の声が重なる。明治42年に建てられた「ここ」は山の手の洋館であること、集う人々が口にする南国の果物の名前、「この町」にもあって故郷を思い出させる廟、農民の心情を歌った素朴な歌。「あの国」と「この国」の生徒が混じるも楽しかった学校の思い出、集団結婚式、言葉の通じない義母、結婚50年目に初めて帰郷できたこと。サンフランシスコ講和条約により、それまで「この国」の国民だった「彼女」は国籍を失い、自分は何者なのかという思いに苛まれる。具体的な地名や国名は一切示されないものの、被写体の洋館は台湾からの移民とその子孫が集う会館であり、「彼女」は戦前に台湾から神戸へ嫁いだ女性なのだろうと推察される。ここで秀逸かつトリッキーなのは、語りの視点の移動に伴い、「ここ」「この」「あの」という代名詞の指示内容が移り変わる点だ。「この港」(=神戸)は南米への移民を送り出し、ユダヤ人難民も「ここ」を通過したと声は語る。一方、亜熱帯としては珍しく、冬に雨の多い「ここ雨の港」は、神戸との連絡航路が結ばれた台湾の基隆(キールン)を暗示する。「この港」から「あの港」へ向かう船の中で、「彼女」はひどい船揺れのために目を覚まし、「一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなる」。それは生理的な嘔吐感による一時の混乱であり、かつ「ここ」と「あそこ」のどちらにも定位できない移民のアイデンティティのあてどなさであり、さらには語りの視点の自在な移動がもたらす、時制と地理的な理解の混乱をもメタ的に指し示す。


川村麻純《昨日は歴史》

川村は、過去作品《鳥の歌》においても、日本と台湾の両方にまたがる女性の半生の記憶の聞き取りを元に、別の女性が語り直すことで、個人史と大文字の歴史が交錯する地点を虚実入り混じる手法で提示している(《鳥の歌》は、日本から台湾へ嫁いだ女性である点で、本作と対になる作品である)。とりわけ本作では、代名詞のトリッキーな仕掛けにより、移民のアイデンティティの浮遊性を示唆すると同時に、第三者の視点による小説風の文体を朗読する声が、「全てはフィクションではないか」という疑いを仄めかす。しかし、奥の通路に進むと、映像内で語られていた「歌」が、(おそらく記憶を語った高齢の女性自身の声で)聴こえてきた瞬間、そのエキゾティックだがどこか懐かしい旋律を奏でる声は、強く確かな実存性をもって響いてきた。それは、固有名詞を排した語りの匿名性の中に、故郷を喪失した無数の女性たちの生の記憶を共振させる可能性を開くと同時に、一筋の「声」への慈しみに満ちた敬意を手放さない態度である。
また、映像プロジェクションの背面には、写真作品5点が展示されている。室内から窓越しに見える風景を、窓のフレーミングと重ね合わせて切り取った写真だ。うち2点は、写真の上に水色の紐が水平に掛けられ、樹々の向こうに隠れた「水平線」の存在を暗示する。移民とその子孫が集う会館の室内から、窓越しに海の彼方の故郷へ想いを馳せる視線がトレースされる。一方、対峙する壁面には、19世紀アメリカの女性詩人、エミリー・ディキンソンの詩の一節が記されている。ディキンソンは後半生のほとんどを自宅から出ることなく過ごし、自室にこもって多くの詩を書いた。移住によって故郷から隔てられた女性たちが窓の外へ向ける眼差し。閉じた室内に留まったまま、詩という窓を通して、自らの内的世界への探求を鋭敏に研ぎ澄ませた女性の内なる眼差し。さまざまな時代、国籍、状況下に置かれた女性たちの幾重もの眼差しが、「窓」という装置を通して重なり合う。移民女性の歌うかそけき「歌」の背後に、幾層もの「歌」の残響が響きこだまするような、静謐にして濃密な展示空間だった。


左:川村麻純《昨日は歴史》 右:展示会場風景

公式サイト:http://www.kobe-artfes.jp/

関連レビュー

川村麻純「鳥の歌」|高嶋慈:artscape レビュー

2017/09/15(金)(高嶋慈)

志賀理江子 ブラインドデート

会期:2017/06/10~2017/09/03

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館[香川県]

闇の中、数秒おきに写真のスライドプロジェクションが切り替わる。呪術的、内臓的で、禍々しくも聖なるイメージ。その残像。血管かへその緒のように垂れ下がり絡まるコード。光の明滅、一定のリズムでスライドの切り替わるカシャッという音がトランスさえ誘う。時折、投影される強烈な赤い光が壁を赤く染め上げ、私は「影」として亡霊たちの世界に取り込まれる。ここは亡霊が徘徊する異界であり、未だ生まれざる者たちが宿る胎内だ。そして、写真の中で生を止められた者たちの無数の眼差しが、死者たちの永遠に見開かれた眼が、こちらをじっと見つめ返している。私たちは、イメージを安全に眺める主体ではもはやいられない。「写真を見る」という視覚経験を超えて、身体感覚や本能的な恐怖すら感じさせる、そうした直感を展示から受けた。


「志賀理江子 ブラインドデート」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での会場イメージ 2017
撮影:志賀理江子

個展会場は2つの空間に分かれており、片方では、約20台のスライドプロジェクターから、近作の膨大な写真群が壁に投影されている。その多くが《弔い》と冠されているように、死と儀礼、供物、自然の中での霊的な交感、何かの気配の出現、といった印象を与えるイメージが多い。もう片方の空間では、2009年にバンコクでバイクに乗る恋人たちを撮影したシリーズ《ブラインドデート》が、大判のモノクロプリントで展示されている。写真は、手前に据えられたスタンドライトに照らされ、光と闇のコントラストを強調する。この《ブラインドデート》は、志賀がバンコクでの滞在制作中、二人乗りのバイクの後部座席から自分に投げかけられる視線に関心を持ち、「その眼差しをカメラで集めてみたい」と思ったことが端緒になっている。バイクに同乗するカップルに声をかけて撮影を進めるうち、「バイクに乗った恋人たちが背後から目隠しをして走り続け、心中した」という事件を妄想し、「恋人の手で後ろから目隠しをされてバイクを走らせる男性」のポートレイトが撮影された。

志賀にとってカメラは異界と交感するための装置であり、イメージは異界への通路となる。では、収集された眼差しは誰の視線か?「バイクに同乗して心中する恋人」という設定は、「これから死者の仲間入りをする者」という想像をたやすく誘導する。いや、そうした「設定」を解除しても、写真の中の眼差しとは常に「いつかは死ぬ者、潜在的な死者の視線」であり、あるいは「既に肉体的にはこの世に存在しないのに、執拗に眼差しを向け続ける眼」である。会場から出口に至る細長い通路には、「もし宗教や葬式がなかったとしたら、大切な人をどのように弔いますか?」という志賀の問いに対して、寄せられたさまざまな回答が壁に提示されていた。「弔い」すなわち死者の埋葬時には、通常、死者の眼は閉じられる。しかし、「永遠に見開かれたままの死者の眼」という戦慄的な矛盾が写真の根底にはあり、「弔い」とは記憶の中に安定した座を与えることではなく、その眼差しとの(永遠に交わらない)交感の内に自身の身を置き続ける過酷な所作を言うのではないか。



「志賀理江子 ブラインドデート」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での展示風景 2017
撮影:志賀理江子

2017/09/02(土)(高嶋慈)

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プレビュー:猿とモルターレ アーカイブ・プロジェクトin大阪

会期:2017/10/28~2017/10/29

FLAG STUDIO[大阪府]

『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)は、「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作されるパフォーマンス作品。2013年の北九州、2015年の仙台公演を経て、2017年3月に大阪で上演された(大阪公演の詳細は、下記の関連レビューをご覧いただきたい。メタファーを随所に散りばめつつ、声と身体を駆使した圧倒的なパフォーマンスと反復の密度をたたえた、優れた舞台だった)。この大阪公演では、震災後の東北で記録と継承の活動に取り組む映画監督の酒井耕とアーティスト・ユニットの小森はるか+瀬尾夏美が参加し、朗読テクストの提供や記録撮影を手がけた。
今回の「アーカイブ・プロジェクトin大阪」は2日間に渡って行なわれる。1日目は、映像作家の小森による上演の記録上映会と、記録映像と「継承」のあり方について考える「てつがくカフェ」が開催される。2日目には、瀬尾のテクストの朗読ワークショップと、酒井による映像ワークショップを開催。それぞれのワークショップでは砂連尾も講師として加わり、「身体を使ってテクストを読む」「声や身体による出来事の継承」や、「カメラに撮られる身体の変容」「記録メディアによる出来事の編成の危うさとその可能性」について考えるという。
本プロジェクトは、「震災の記憶の継承」という問題に加えて、「舞台芸術の一回性や身体性をどう記録するか」というパフォーミングアーツにおける「記録」やアーカイブの問題についても考える好機となるだろう。また、単なる記録映像ではなく、映像作家や映画監督すなわち表現者としての視点や問題意識をどう取り入れるか、という点にも注目したい。なお本プロジェクトは、来年3月10日~11日にせんだいメディアテークにおいても開催が予定されている。

撮影:松見拓也

関連レビュー

砂連尾理『猿とモルターレ』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/08/31(木)(高嶋慈)

プレビュー:KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017

会期:2017/10/14~2017/11/05

ロームシアター京都、京都芸術センター、京都芸術劇場 春秋座、京都府立府民ホール “アルティ”、京都府立文化芸術会館、ほか[京都府]

8回目を迎えるKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下「KEX」)。公式プログラムでは、12組のアーティストによる計12の公演や展示を予定。
今回の大きな特徴は2点あり、1点目は「東アジア文化都市2017京都」コア期間事業の舞台部門として、中国と韓国のアーティストが初紹介される。スン・シャオシンは、ネットやサブカルチャーに浸る中国現代社会の若者を描く作品を発表。また、パク・ミンヒは、韓国の無形文化財である伝統的唱和法「ガゴク(歌曲)」を習得した歌い手。宮廷音楽として確立され、親密な閉鎖的空間で歌われた「ガゴク」の鑑賞形態も取り入れ、パフォーマーと観客が1対1で向き合う上演形式も注目される。ネットやサブカルへの耽溺といったグローバルな現象と、伝統文化の再考。こうした文化的アイデンティティをめぐる考察は、村川拓也、神里雄大、ダレル・ジョーンズ、マルセロ・エヴェリンの作品へと繋がっていく。ドキュメンタリーやフィールドワークの手法を演劇に取り入れる村川拓也は、中国と韓国でのリサーチに基づく新作を発表する。ペルー生まれ、川崎育ちという自らのアイデンティティから、移民や他者とのコミュニケーションを主題化してきた神里雄大は、ブエノスアイレスでの滞在経験に加え、近年訪れたオセアニア、小笠原など各地での取材を基にした新作を予定。現地で出演者を見出し、スペイン語での上演を行なうという。また、アメリカの振付家、ダンサーのダレル・ジョーンズは、ゲイ・クラブで広まったヴォーギングからインスパイアされたダンスを通して、ステレオタイプなセクシャリティや抑圧への抵抗を身体表現化している。日本で滞在制作した新作を発表する予定。ブラジルの振付家、パフォーマーのマルセロ・エヴェリンは、過去2回のKEXで衝撃的な作品を観客に突きつけてきた。今回は、舞踏を生んだ土方巽の著作『病める舞姫』を手掛かりとした作品が上演される。極限的な肉体や暴力性を提示してきたエヴェリンが、土方の思想とどう対峙するのかが注目される。


左:スン・シャオシン『Here Is the Message You Asked For... Don't Tell Anyone Else ;-)』 Photo by Chen Jingnian
右:パク・ミンヒ『歌曲(ガゴク)失格:部屋5 ↻』© Festival Bo:m

また、2点目の特徴として、上記のパク・ミンヒに加え、ハイナー・ゲッベルスの音楽劇や池田亮司による「完全アコースティックなコンサート」など、「音楽」との関連性がある。他領域との横断、総合芸術としてのパフォーミングアーツという点では、光と影が巨大な幻想世界をつくり出す田中奈緒子のインスタレーション・パフォーマンスや、美術作家の金氏徹平の映像作品『Tower』をライブ・パフォーマンスとして演劇化する新作がある。また、今年3月に逝去したトリシャ・ブラウンのダンスカンパニーは、「霧の彫刻」で知られる中谷芙二子とのコラボレーション作品のほか、劇場用に制作された作品群を上演する。


左:ハイナー・ゲッベルス×アンサンブル・モデルン『Black on White』 © Christian Schafferer
右:2人『TOWER (theater) 』2017  Photo by Hideto Maezawa

8回目の開催ともなれば、2度、3度と登場する「常連」的な顔ぶれも見受けられる(村川拓也、マルセロ・エヴェリン、池田亮司、金氏徹平、トリシャ・ブラウン・ダンスカンパニー、そしてリサーチプロジェクトとして参加するresearchlight)。そうしたフェスティバルの「基底」に厚みが加わっていくと同時に、新たなアーティストや方向性が加わることで、より太く展開していくフェスティバルの幕開けに期待がふくらむ。
公式サイト: https://kyoto-ex.jp

*ダレル・ジョーンズ『クラッチ』は事情により上演が中止になりました。(2017年9月22日編集部追記)

2017/08/31(木)(高嶋慈)

時差『隣り』

会期:2017/08/30~2017/09/03

green & garden[京都府]

「時差」は、特定の演出家や劇作家によるカンパニーではなく、複数のアーティストが同じコンセプトを共有しながら、それぞれの新作公演をプロデュースする企画団体。第1回目の企画「動詞としての時間」では、精神科医の木村敏の著作を読み、「臨床哲学」の言葉を手がかりに、演劇、ダンス、映画作品の制作を企画している。
今回上映された映画『隣り』(監督:城間典子)は、城間の幼馴染であり、高校3年の時に統合失調症と診断された女性との共同制作による。本作の特徴は多層構造にあり、過去/4年後の「現在」、再演/ドキュメンタリー、当事者の語り/第3者による証言、といった異なる位相や視点から構成される。映画は大きく2つのパートから構成され、1)幼馴染の女性が心のバランスを大きく崩した時期を、彼女自身が「劇映画」として再現するパートと、2)その4年後に城間が再び彼女を訪ね、編集された映画を見てコメントする様子や、現在の生活を淡々と記録したパートが交互に映し出される。その合間に、高校時代の複数の友人の語りが(おそらく当時のスナップ写真を背景に)挿入され、彼女が演劇部に所属していたこと、演技に情熱を持っていたこと、しかしある時期から様子がおかしくなり、通学も演劇も続けられなくなったことなどが語られる。
本作は一見すると、断片的でとりとめのない印象を受ける。雑多なものが散乱した自宅で、両親や城間と交わす他愛のない会話。弛緩的な日常風景の中に、時折入れ子状に挿入される「劇映画」にも、明確なストーリー性がある訳ではない。彼女自身がノートに綴った「ト書きと絵コンテ」が映し出され、「臭い、死ね」といった「幻聴の声」をアフレコする友人らに「監督」としてダメ出しするシーンも挿入され、これが「再現」すなわちフィクションであることをあからさまに示す。またこの「劇映画」は旧式のビデオカメラで撮影されたため、画質の粗さや縦横比の違いによって「ドキュメンタリー」パートとは明確に区別される。そうした何重ものメタ的な自己言及性に加え、複数の友人による証言が並置される構造は、黒澤明の『羅生門』を想起させ、「当事者による語り、再現」を相対化していく。それは、「物語映画」への構造的な批評であるとともに、彼女とその病についての一義的で安易な「理解」を拒むように働きかけ、「精神病患者」「障害者」としてカテゴリー化して描写せず、他者として一方的に簒奪しないための倫理的な身振りでもある。

2017/08/30(水)(高嶋慈)

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