2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

移動する物質─ニューギニア民族資料

会期:2017/06/10~2017/07/02

京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA[京都府]

「物質」としての「移動」に着目する展覧会シリーズの第一弾。京都市立芸術大学芸術資料館は、学生の卒業作品や美術工芸に関する資料を収蔵する施設である。その中の特殊なコレクションのひとつとして、1969年に美術調査隊によって収集されたニューギニア民族資料がある。ニューギニア島北東部のセピック川流域の神像や仮面、土器を中心としたコレクションだ。本展では、「文化人類学的な資料展示」のフレームを裏切る、斬新な展示構成が行なわれた。
薄暗い会場には、木製のダクトが天井からL字型に伸び、川のせせらぎのような流水音が聴こえてくる。その周囲にライトに照らされて佇むのは、「引き出し」や「輸送用クレート」だ。観客は、引き出しを自由に開けて、中を覗いて見ることができる。その中には、キャプションが一切ないまま、祭礼的なオブジェや装飾の施された銛のようなモノだけが収められており、薄紙で包まれたままのものもある。現地での聞き取りを断片的に記したテクストや写真も添えられ、聞き取った話からは、精霊信仰が根付く一方で、西洋文化や消費社会の流入の影響が伺える。しかしそれらは束ねられて重なり合い、一部しか見えない。ここでは、名称、地域や部族、年代、素材、用途などの情報を一切与えず、かと言ってオブジェとしての造形性を審美的に眼差すよう要請するのでもなく、「引き出しを開けて見る」という期待感とともに、「モノを元の文脈から切り離し、運搬し、収集・保管する」という営みの次元それ自体を見せているのだ。


撮影:松見拓也
提供:京都市立芸術大学


さらに、2階の展示室では、床を貫いて1階から続くようにダクトが直立し、壁に取り付けられた「引き出し」を開けると、中は空っぽで、スピーカーからさまざまな音声が聴こえてくる。呪文と歌の中間のような節回しの声、笛や打楽器の掛け合いのリズム……単調な反復はトランスを誘い、ガヤガヤとした話し声や子どもの歓声といった環境音も混じる。これらの録音音声にもキャプションはなく、全ては見る者の想像に委ねられる。つまりここは、「民族資料」としてのモノの収集からは決定的にこぼれ落ちてしまう、踊りや歌といった身体化された所作や周囲の環境などの記録・採取不可能なもの、持ち出せなかったもの、失われたものについて想起を促す空間なのだ。「物質」がこちらに移動し、一方、「想像」があちらに飛ぶという、時空間の対流が起きる。


撮影:松見拓也
提供:京都市立芸術大学


祭祀や狩猟の道具といったモノは、一定の時空間的な限定を受ける「行為」の次元に属すが、収集・保管の対象となったとき、生きられた時間の持続と密度からは切断され、隔離される(これは、パフォーマンスに用いられたオブジェや残存物をどう「保存」するかという問題とも通底する)。それは単に物理的な移動ではなく、ミュージアムという制度内への質的な移動でもある。本展の展示形態は、ミュージアムの制度(元の文脈からの切断と、「遺体安置所」としての収集・保管場所)そのものを提示し、物理的な/制度内への「移動」が内包せざるをえない欠落や空白を示しながら、その間隙を補完的情報によって埋めて中立性・客観性を偽装するのではなく、生じた空白を想起のための空間へと転化していた。
ただし、とりわけ「民族資料」の場合、このように一切のキャプションなしで展示する手法には、賛否両論があるだろう。「他者の文化を知り、理解する」という文化人類学の根本的態度は、他者への不寛容と異文化の排除が進行する現在、ますます重要性を増している。一方で、本展のあり方は、散漫で「間違った」解釈や想像が産み出される危うさを引き受けつつ、「他者の文化を一方的に簒奪しない」という倫理的な振る舞いをも示しているのではないだろうか。そこに、ミュージアムの制度批判のみにとどまらない、本展の意義がある。

2017/06/10(土)(高嶋慈)

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笹岡啓子「PARK CITY」

会期:2017/06/06~2017/06/24

The Third Gallery Aya[大阪府]

笹岡啓子が2001年から撮り続けている《PARK CITY》は、生まれ育った広島を「公園都市」と見なし、平和記念公園とその周辺を撮影した写真作品である。2009年には写真集『PARK CITY』が刊行された。本個展は3つの構成要素から成る。1)『PARK CITY』所収のモノクロ、正方形フォーマットの写真(夜間に公園や市街を撮影した、ほぼ真っ黒な画面)。2)カラー、横長フォーマットの近作(公園や原爆ドーム周辺で人物を撮影。何かを眺める人々の後ろ姿を撮影した写真と、長時間露光によって亡霊のように希薄化した人影を写し込んだ写真から成る)。3)スライドプロジェクション(10年以上にわたる本シリーズを再編したものに加え、自身の幼少期の家族写真、被爆以前/被爆直後の記録写真が混ざり、個人的な記憶と大文字の歴史、作家としての表現とオフィシャルな記録が幾重にも積層したイメージの磁場が出現する)。

本個展は、1)写真集『PARK CITY』所収の写真と、2)近作のカラー写真とのあいだの断絶、もしくは移行を非常に感じさせるものだった。それぞれを仔細に見ていこう。
1)夜間に撮影された平和記念公園や市街地の写真では、ポツンと佇む外灯や遠くの看板の灯りが孤独な星のように闇に浮かぶばかりで、真っ黒な画面にはほとんど何も写らない。その「写らなさ」の端的な提示は、「美しく整備された公園にカメラを向けても、原爆の惨禍という過去は写らない」という諦念である。あるいは、それらの写真では、原爆ドームや平和記念資料館、慰霊碑や祈念像といった「記憶」の代理=表象を担う装置が闇の中に没し、「見えなくなっている」「眼差しの対象として現前しない」ことを考えれば、名づけようのないものを視覚装置や言語化によって管理し、ナショナルな共同体として統合しようとする「可視性の政治」への抵抗として読み取れるだろう。


© Keiko Sasaoka《PARK CITY》


一方、対照的に3)スライドプロジェクションには、露出オーバーで画面がほぼ真っ白に飛んでしまい、昼間の公園内を歩く人々が眩い光の中に溶解していくかのような写真が何枚も登場する。ホワイトアウト寸前のそれらは「原爆の炸裂の瞬間」を想起させ、「炸裂の瞬間を写した写真」という不可視へのファンタスム、不可能がゆえの強い渇望を提示する。


© Keiko Sasaoka《PARK CITY》


「過去」を写そうとする欲望を拒絶する闇の黒さから、「炸裂の瞬間を写した写真」というありえないイメージの捏造へ。『PARK CITY』刊行後の近年の笹岡は、すでに過ぎ去った「過去」を写すことの不可能性から、「原爆の炸裂の瞬間を写した写真は、記録したフィルム自体が閃光や熱線で消滅するため、物理的に存在しない」というもうひとつの不可視性へと移行しているのではないか。
そして、あらゆるイメージを塗り込める「黒」と、あらゆるイメージを消し去っていく「白」との両極のあいだで、すなわち「ヒロシマ」の表象をめぐる2つの不可視性のあいだで浮遊するのが、「亡霊」の群れだ。平和記念資料館の展示室内部を撮影した写真群では、明るい照明に照らされた展示物や解説パネルの前で、観客の姿は暗く沈み、固有の顔貌を失い、黒い影の群れへと変貌する。(ここでは、二次的な記憶媒体である展示パネルこそが亡霊を生み出す、という逆転が起きている)。また、2)原爆ドーム周辺で撮られた近作のカラー写真では、長時間露光撮影により、観光客や通行人の姿は像として固定されず、陽炎のように希薄化した亡霊となって漂う。公園都市広島にカメラを向ければ、「亡霊」が写ってしまう(美しく整備されたここは、「爆心地」近くだったのだ)。
あるいはさらに想像が許されるならば、揮発した蒸気のように漂う人影は、「原爆の炸裂の瞬間に蒸発した人間」のありえないイメージをも想起させる。ここには、観光客で溢れる現在の広島の「日常」風景の中に、(炸裂の瞬間という記録不可能な)「過去」を呼び込もうとする笹岡の強い意志が感じられ、「現在」と「かつてこの場所で起きた過去」が写真の中で同時に生起する。それは、時制が崩壊し融合し破綻した、狂気に近い戦慄的なイメージだ。


© Keiko Sasaoka《PARK CITY》


原爆の惨禍という過去の「写らなさ」の諦念、記憶を代理=表象するシステムへの抵抗、「炸裂の瞬間」というもうひとつの不可視性、(写るはずのない)「亡霊」の徘徊。「広島」とは現実の都市の名である以上に、「写真、表象、記憶」をめぐる幾重もの係争が絡み合う場の名前でもある。では、「過去」の写らなさの端的な提示を超えて、「現在」の中に「過去」を憑依させ、フィクショナルなイメージとして捏造する、ある種の暴力的な簒奪に笹岡の表現を向かわせるものは何か?

ここで、3)のプロジェクションには、笹岡が公園周辺で撮ったスナップショットに加え、さまざまなリソースの写真を入れ子状に写した写真が多いことに注目したい。そこでは、「写真に撮られた広島」の複数性とその時間的厚みが形成される。広島という都市が抱える公園は、幼少期の家族写真が示すように、休日に家族で訪れる個人的な思い出の場所であり、同時に人類史的な災厄の場でもある。被爆前の街並みや建設中のドームの写真と、被爆直後に撮られた写真、復興が進んだ記念式典の記録写真。それらの膨大な写真群は、展示パネルとして、調査中の資料として、すなわち「人々の眼差しを受け止める表面」として写される。そして、現在の公園や記念館の展示室内に設置された写真パネルに視線を注ぐ人々の後ろ姿に、笹岡は、繰り返し、執拗に、痛みのようにカメラを向ける。大きく引き伸ばされ、場合によってはトリミングを施されてパネルに仕立てられた写真は、一部がフレームアウトして分断され、人々の頭や肩に遮られてよく見えない。ここで笹岡のカメラは、展示という近代的制度が記憶の表象をめぐるポリティクスの場であること、しかしそこには部分的な欠損や見えづらさが含まれること、そして元の写真が撮影された時間(被爆直後)/パネルが製作された時間(記憶の管理と制度化=忘却の始まり)/現在、という時間の多層性を鋭く照射する。
1978年生まれという、「1945年8月6日」の直接的な経験からは圧倒的に隔てられた笹岡にとっての「ヒロシマ」の経験とは、「撮られた写真を見るという経験」としてすでに開始されている。従って「そこ」へ到達するには、二重、三重に隔てられた時間の断絶の層を貫通するように、「見えづらさ」の困難を抱え込みながらも見ること、繰り返し眼差しを向けるしかないこと、記憶の制度化のポリティクスも含めて眼差すことを、何度も確かめて肯定するようにシャッターを切るのだ。人々の眼差しの後ろ姿に、自身の代行的反復としての姿を仮託しつつ、冷静な距離を取りながら。


© Keiko Sasaoka《PARK CITY》


2017/06/06(火)(高嶋慈)

プレビュー:國府理「水中エンジン」redux

アートスペース虹[京都府]

2014年に急逝した國府理の《水中エンジン》(2012)は、國府自身が愛用していた軽トラックのエンジンを剥き出しにして巨大な水槽の中に沈め、稼働させるという作品である。動力源となる心臓=エンジンが発する熱は、水槽内で揺らめく水の対流や無数の泡を発生させるが、エネルギーに転換されることなく、水槽を満たす水によって冷却され、制御される。部品の劣化や浸水など頻発するトラブルの度に一時停止とメンテナンスを施されて稼働し続ける不安定で脆い姿は、発表の前年に起きた原発事故に対する優れたメタファーとして機能する。同時にそれは、「自律した作品の完成形」への疑義をも内包する。
國府の創作上においても、「震災後のアート」という位相においても重要なこの作品は、インディペンデント・キュレーターの遠藤水城が企画する再制作プロジェクトにおいて、國府と関わりの深いアーティストやエンジン専門のエンジニアらの協力を得て、2017年に再制作された。作業現場となった京都造形芸術大学内のULTRA FACTORYでの一般公開の後、小山市立車屋美術館での「裏声で歌へ」展に出品され、オリジナルが発表されたアートスペース虹にて5年ぶりに展示される。会期は前期と後期に分かれて異なる展示形態を取り、会期中の毎週土曜には、企画者の遠藤、再制作に携わった技術者、批評家などによるトークイベントを予定。また、クロージングイベントとして、記録映像の上映会やライブも予定されている。再制作品、記録映像、トークといった多角的な検証を通じて、《水中エンジン》が持つ今日的な意義と批評的射程に向き合う機会となるだろう。


國府理《水中エンジン》2012年/再制作(水中エンジン再制作実行委員会による・オリジナルからの部品を含む)2017年
撮影:木奥惠三
小山市立車屋美術館での展示風景

会期:
前期=2017/07/04~2017/07/16
後期=2017/07/18~2017/07/30



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2017/05/31(水)(高嶋慈)

澤田華「ラリーの身振り」

会期:2017/05/30~2017/06/04

KUNST ARZT[京都府]

「写真」「複製」「認知」をめぐるゲームを仕掛ける澤田華の個展。ギャラリーに入ると、古い街灯のモノクロ写真が背丈を超えるサイズに引き伸ばされ、壁のように立ち塞がっている。傍らには、元の写真が掲載された洋書を入れ子状に写した写真があり、元の写真図版を指差す手も写っている。また、その写真図版のキャプションを訳した文章も掲示される。一方、それらの横には、粗い解像度のドットで印刷された不鮮明な画像が展示されている。何か黒っぽいものの上に白っぽいものが乗っかっているように見えるが、何なのかは分からない。奥へ進むと、同じ画像がモニターに映され、「こんな形のものではないか」と推測するいろいろなパターンの輪郭線が次々と表示されていく。別のモニターでは、同じ画像にトリミング、解像度、画像サイズの差異をさまざまに施し、Google画像検索にかけた結果が次々と羅列されていく。「ハンドバッグ」「透明な石鹸の泡」といった理解可能な検索結果もあれば、「Photoshopの底なし」「コピー&ペーストの顔」など意味不明なものもあり、「正解」は分からない。そして最後に、粘土でほぼ実物大に「復元」した物体が提示されている。これは一体何だろう。一巡して戻ると、引き伸ばされた街灯の写真の中に、小さくあの「ナゾの物体」が写っているではないか。つまりこれらは、元の写真図版の中に「発見」した正体不明の物体を突き止めるべく、写真を複写し、引き伸ばし、分析と検証を加え、立体化して復元する試みなのだ。
澤田はこれまで、《Blow-up》シリーズにおいて、印刷物や画像投稿サイトの写真画像を元に、写り込んだ「正体不明の物体」を検証するため、写真を引き伸ばし(Blow-up)、形態を分析し、3次元の物体として再物質化するプロセスを作品化してきた。それは、デジタル画像の修正が当たり前となった現代において、「ノイズ」として排除される要素を救出する身振りともとれる。また、撮影時に企図された写真の「主題」「意味」の中心から外れた周縁部、些末な細部への執拗なこだわりは、バルトの言う「プンクトゥム」を想起させる。さらに、画像の細部を拡大し、執拗に分析して特定しようとする手続きとその「失敗」は、衛星画像や監視カメラの画像解析によって「秘密の軍事施設」「犯罪の証拠」を発見しようとする監視システムへの批評ともとれる。
写真は現実を「複製」する。2次元に置換された複製イメージから、「元の物体」を復元/再物質化する。この二重の「複製」を介した手続きとそれが内包するズレへの注目は、画像イメージが「データ」として流通し、デジタル画像の加工や3Dプリンターによる立体造形といったテクノロジーに親和性を覚える時代的感性と言える。だが澤田作品の要は、何重もの情報の加工過程を実演しつつも、「元の物体」の正体を宙吊りのまま提示する点にある。「写真とテクストと実物」の提示は、コスースの《1つおよび3つの椅子》を想起させるが、ここでは、視覚記号としての写真と言語による定義と(復元された)実物は、(互いにズレを照射しつつも)「椅子」といったひとつの観念へと統合されるのではなく、写真の表面に「プンクトゥム」として付けられた「小さな傷」を押し広げ、分裂させ、写真が証立てる「かつてあった過去」を「ありえたかもしれない無数の可能態」へと増殖させていく。そのとき写真は、被写体の同一性を証立てる絶対的な根拠ではなく、むしろ亡霊のような近似値を際限なく生み出す装置となるのであり、「写されたもの」の認識をめぐる私たちの眼差しの審級こそが疑問に付されている。


澤田華《Gesture of Rally #1705》2017

2017/05/30(火)(高嶋慈)

むらたちひろ internal works / 水面にしみる舟底

会期:2017/05/16~2017/05/28

ギャラリー揺[京都府]

ろうけつ染めや型染を応用した独自の技法を用い、染めた布を水で滲ませることで、揺らぎを伴った流動的なイメージを「絵画作品」として発表してきたむらたちひろ。本個展では、写真を素材に用いた新たな試みが発表された。
身近な風景を撮影し、写真の画像データをインクジェット捺染で布の片面(A面)にプリントする。これを裏返した面(B面)を水で濡らすと、A面にのっている染料が水に浸透し、裏のB面に滲み出てくる。展示されているのはB面のほうだ。水で濡らされた箇所は、そこだけ光が差し込んだかのように、鮮やかな色が息づく。画像データが染料という物質に変わり、水の浸透という物理現象によってイメージが出現する様は、写真の現像プロセスそれ自体の反復を思わせる。また、染料が水に溶けて曖昧に滲んだイメージは、記憶のプロセスともアナロジカルだ。裏側へいったん遠のいたイメージが、水という媒体を経て、鮮やかに浮かび上がる。写真に写った何かがトリガーになり、薄れかけた記憶がふと蘇る。ここで「浸透する水」は、写真を事後的に眼差す「視線」の謂いとなる。だが記憶は完全なかたちで蘇ることはなく、滲みや歪みを伴い、不鮮明な領域や欠落をその背後に抱え持っているだろう。
このように、染色を用いたむらたの作品は、「写真」と「記憶」をめぐる思考の可能性を宿している。今はまだ実験的な段階かもしれないが、撮るモチーフの選択、使用する写真自体の選択(自分で撮った写真/他人の写真の引用/古写真を使うなど)、「滲み」の形態に積極的な意味を持たせるかどうかなどの点をさらに吟味すれば、より発展的な作品へと結実するのではないだろうか。

2017/05/26(金)(高嶋慈)

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