2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 パク・ミンヒ『歌曲(ガゴク)失格:部屋 5↻』

会期:2017/10/20~2017/10/29

京都芸術センター[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2017の個人的ベスト。昇天しそうなほど美しい声の重層的な唱和で、全身感覚的に揺さぶりながらも、構成は極めて理知的で、「舞台芸術の上演形式」、「観客=消費者としての権利」、「伝統文化・異文化とエキゾティシズム」への批評を内在させた優れた作品だった。
パク・ミンヒは、韓国の無形文化財である伝統的唱和法「ガゴク(歌曲)」を習得した歌い手。本作で観客は、パフォーマーのいる小さな部屋を順に巡りながら、1対1の親密な関係に置かれて鑑賞する。最初に足を踏み入れる「0」の部屋は無人だが、壁の向こうから複数の「声」の奏でる旋律が、高く低く、さらに高みから舞い下りて重層的に絡み合って響き、全身を音に包まれる。山から谷底に吹き下ろしてはまた空へ舞い上がる風のような、その風に触れて波紋を震わせながら流れ去っていく水の流れのような、幽玄にたゆたう女声のあいだを縫って、太い男声によるパンソリ(物語性のある歌と打楽器の演奏による伝統的な民俗芸能)の語りが聴こえてくる。平行的に進みながらも調和した声の重なり合い。そして束の間の沈黙。「0」の部屋は、ある流れの中に身を委ねるために身体を馴らす準備の部屋だ。そして、続く「1」から「5」までの部屋では、観客は用意された椅子に座り、声の振動や息遣いさえ感じ取れるほどの極めて近い距離で、それぞれのパフォーマーと1対1で向かい合う。
それは、体験としての圧倒的で濃密な強度に加えて、近代的な劇場制度における「受容」の問題への再考を含み、「共同体」という幻想を解体する。観客を1対多数の匿名性に置くのではなく、「個」として尊重して扱うことで、観客もまた「個」として対峙する緊張感とともに、目の前のパフォーマーへの「敬意」が促される。「伝統文化」による「近代化された上演形式」への批評は、「ガゴク」がグローバルな市場でエキゾティックな記号(「商品」の差異化のための記号)として消費されることへの抵抗という意義を持つ。
さらに、本作の秀逸な戦略は、瞑想的なまでの音響の心地良さと反比例するかのように、「鑑賞形態」の居心地の悪さを観客に突きつける点にある。それは各部屋でのパフォーマーとの対面関係に現われている。「1」の部屋ではパフォーマーは観客のすぐ背後に座り、「2」と「5」の部屋では隣り合って座るも、身体の向きが逆方向にセッティングされているため、パフォーマーと視線が合うことはない。また、「4」の部屋のみ、女性パフォーマーが「2人」いるのだが、彼女たちは無言でこちらを見つめ返してくるだけだ。つまり観客は徹底して非対照の関係に置かれるとともに、自らの「観客性」を自覚させられることになる。金銭的な対価を支払った代わりに「個室」でサービスを受けること、「4分間」という時間の規定を過ぎると合図が鳴り、部屋を移動しなければならないというシステム化された管理。それは、風俗店のサービスを想起させ、金銭と引き換えに観客が手にする「権利」のきわどさがそこで露呈するのだ。
私たちはその「権利」を自覚させられつつ、歓待される「客人」として完全には迎え入れられず、うっかり紛れ込んだ決まり悪い「闖入者」のように遇され、あるいは隔てられた壁越しに聴くしかない(無人の部屋は最後にもう一度用意されている)。部屋を移り変わりながら通奏低音として響くのは、「あなたはガゴクを所有できない」というメタメッセージである(一時的な通過者としては許されるが、所有者ではない)。音響世界の圧倒的な魅力、空間の移動がもたらす知覚の繊細な変容とともに、本作は、単に心地良いだけの耽溺を許さない内省的な態度を求めてくる。「ガゴク」という他者の文化の「遠さ」に対してどう向き合うことができるのか、その接近をめぐる逡巡さえも体感させる秀作だった。


パク・ミンヒ『歌曲(ガゴク)失格:部屋5↻』(2017) 京都芸術センター 撮影:井上嘉和

公式サイト:https://kyoto-ex.jp

2017/10/22(日)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 スン・シャオシン『Here Is the Message You Asked For... Don't Tell Anyone Else ;-)』

会期:2017/10/20~2017/10/21

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

中国の新進劇作家、演出家、批評家のスン・シャオシンによる舞台作品。
ピンク色の透ける布でできた天蓋が舞台空間を覆っている。外界から優しく保護されたような空間の中には、2段ベッドが横一列に3台並び、左と右の2段ベッドも薄い布で覆われている。繭のような個室空間は、少女たちがモニター越しに日本のアニメ、ゲーム、アイドルのライブ映像に没頭する自閉空間だ。彼女たちはベッドに寝転びながらPC画面を眺め、スナック菓子を食べ、メイクし、コスプレ衣装に着替え、自撮り棒に付けたスマホでお互いを撮り合い、ネットに生配信する。彼女たちはもっぱら、LINEを介してコミュニケーションを行なっており、そのやり取りは、同じLINEのグループに参加すれば観客もリアルタイムで共有できる(だがそこで得られるのは擬似的な共有感覚ではなく、全てが液晶画面越しに行なわれるという間接性や疎外感だ)。それぞれの「個室」を仕切る薄い膜は同時に「スクリーン」となり、彼女たちが視聴する中国語字幕のアニメや中国版のニコニコ動画で配信されるアイドルの映像などが次々と映し出されていく。この「繭のように包む膜=スクリーン」は、彼女たちが没頭する二次元の表象世界であると同時に、外界から遮断し守ってくれる保護膜でもある。孵化箱に閉じ込められたような少女たちの姿態を、観客は延々と「鑑賞」させられる羽目になる。ウィンドウ越しに消費される美少女キャラやアイドルたち。舞台上で観客の窃視的な視線に消費される少女たち……。アンビエントな音楽と光に包まれ、コスプレ少女たちは夢遊病者のように徘徊する。
後半は一転して、観客との「触れ合い」タイムが始まる。彼女たちは個室空間から出て客席の中へ歩み入り、観客にカタコトの日本語で話しかけ、握手したり、一緒にスマホで記念撮影を始める。それぞれの個室の膜=スクリーンには、名前や出身地、性格や好きなものについての「自己紹介」が映し出される。客席にはぬいぐるみが投げ込まれ、シャボン玉が飛ばされ、多幸感が振りまかれる。だが握手や記念撮影といった「生身の触れ合い」は、舞台というフィクショナルな機制のなかで「演出」されたものでしかなく、「真のコミュニケーションの回復」などはない。カタルシスの浄化も知的な批評性も手放したまま、確信犯的に微温的な空気感に浸り続けた上演の時間は、明確な「終わり」の気配を曖昧にしたまま、ゆるゆると霧散していった。これは「日本」の歪んだ鏡像であり、他者を通して自らのグロテスクなコピーを見せつけられるという居心地の悪さが残る。それは、表層的な「日本(のサブカル)大好き」(第二次大戦期の日本の戦艦を美少女キャラに擬人化した「艦これ」さえもコスプレされ、萌え対象となる)という無邪気な多幸感のなかに隠された本作の毒である。


スン・シャオシン『Here Is the Message You Asked For... Don't Tell Anyone Else ;-)』(2017) 京都芸術劇場 春秋座
撮影:松見拓也

公式サイト:https://kyoto-ex.jp

2017/10/20(金)(高嶋慈)

新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 小森はるか+瀬尾夏美《声の辿り『二重のまち』》、是恒さくら《ありふれたくじら》、久保ガエタン《その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える》

会期:2017/09/22~2017/10/09

横浜市民ギャラリー[神奈川県]

他者の記憶を拾い集めて再 物語化し、「語り」という身体的営みやテクストを通して共有すること。個人的記憶の収集とその複層的な重なり合いを通して、大文字の歴史化へのオルタナティブを探ること。あるいは、「歴史の表象空間」という政治的な場への抵抗を示すこと。そうした「記憶」の継承や「記録」する行為それ自体への問いを扱う作家4組のグループ展。小森はるか+瀬尾夏美、是恒さくら、久保ガエタンについての前編と、笹岡啓子についての後編に分けて記述する。

小森はるか+瀬尾夏美は、東日本大震災を契機に陸前高田に移住し、現在は仙台を拠点とするユニット。住民への聞き取りを元に、人々の記憶を内在化させた土地の風景への眼差しを映像、絵画、テクストといった複数の媒体で表現している。出品作《声の辿り『二重のまち』》は、「2031年」の想像上の陸前高田を舞台にした小説『二重のまち』を、地元住民たちが朗読し、現在の風景とともに記録した映像作品である(この小説は、砂連尾理の演出作品『猿とモルターレ』の2017年大阪公演でも朗読され、重要な役割を担っていた)。『二重のまち』では、4つの季節のシーンが、それぞれ別の主人公による一人称視点で語られる。新しい土地の上の町/地底に眠る町、記憶の中の「故郷」への想い/人工的な風景を「故郷」として育つ子供たち。そうした未来の視点からの「2031年」の物語が、更地に生い茂る植物や、山を切り崩し「盛り土」工事を行なうクレーン車といった「震災後の現在の光景」を前に語られることで、時制のレイヤーが折り重なった奇妙な感覚を生む。ここは未来か、過去か、現在か。これは誰の記憶なのか。また、「一人称の語り手」と「朗読者」との年齢や性別の差異や不一致も巧妙に仕掛けられる。例えば、「少年の僕」の語りを女性が朗読し、一人の語りが複数人で分割して語られることで、「語り」の主体が曖昧に分裂して多重化し、いつかどこかで遠い誰かの身に起きた出来事を「民話」や「寓話」のように語り継ぐ光景のように思えてくる(あるいはそうなってほしいという願いが顕現する)。


展示風景 左:小森はるか+瀬尾夏美《にじむ風景/声の辿り》 右:是恒さくら《ありふれたくじら》 Photo: Ken KATO

また、是恒さくらは、アラスカや東北、和歌山など捕鯨文化の残る土地を訪ね、鯨にまつわる個人の体験談を聞き取り、リトルプレス(冊子)と刺繍として作品化。国同士の反発の要因ともなる「捕鯨」を、むしろ国や言語という境界線を超えて、異文化間の価値共有の可能性を探るための文化として提示する。

久保ガエタンは、母の出身地である仏ボルドーで19世紀に造られた軍艦が、アメリカを経て幕末の日本に渡り、最終的に解体されて発電機に再利用されたという史実を軸に、「変身」「再生」にまつわるさまざまなエピソードを織り交ぜ、自伝的要素と歴史や神話が入り交じるグラフィカルな「物語」を提示した。

関連記事

砂連尾理『猿とモルターレ』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/10/09(月)(高嶋慈)

新・今日の作家展2017 キオクのかたち/キロクのかたち 笹岡啓子《PARK CITY》

会期:2017/09/22~2017/10/09

横浜市民ギャラリー[神奈川県]

「キオクのかたち/キロクのかたち」展のレビュー後編。
「語ること」の可能性を模索する前編の3組とは異なり、広島という歴史的な刻印を押された地に身を置き、「語ること」の不可能性もしくは飽和状態を見つめ直すことから出発しようとするのが笹岡啓子の写真作品《PARK CITY》である。笹岡は、夜間の平和記念公園や市街地、平和記念資料館の展示室をモノクロで撮影した写真集『PARK CITY』(2009)を刊行後、近年はカラープリントを発表している。この移行に見られるある種の断絶、もしくは「ヒロシマ」の表象をめぐる転回については、6月のThe Third Gallery Ayaでの個展レビューで考察した。
本展では、大判のカラープリントのあいだに小ぶりのモノクロプリントが点在し、さらにネガポジ反転された写真も加わり、視線と焦点を定めにくい分散的な展示方法が(あえて)採られた。長時間露光撮影により、観光客や通行人の姿が希薄な陽炎のように空中を漂い、「亡霊」の出現、もしくは「原爆の炸裂の瞬間に蒸発した人間」を否応なしに想起させるカラーの近作。そこでは、観光客で溢れる明るい現在の公園の中に、(炸裂の瞬間という記録不可能な)「過去」が召喚され、狂気に満ちたイメージが出現する。また、資料館の展示室で撮影した写真では、写真パネルや映像展示とそれを「見る」観客の姿に笹岡は執拗にカメラを向ける。大きく引き伸ばされた焼野原の写真をスマホで「撮影」する観客たち、入れ子状に増殖する「写真」の生産。リニューアルされた展示室で、円形の都市模型にプロジェクションされる原爆投下前/投下後のCG映像に魅入る観客たち。「映像」の「ヒロシマ」、「映像」でしかない「ヒロシマ」、その実体感の希薄さ。ネガポジ反転された写真群が、「失調」という感覚を増幅する。
そして、これらのカラー写真のあいだに置かれたモノクロ写真は、遠目にはほぼ真っ黒で、至近距離で目を凝らさないとよく見えない(闇に浮かぶ献灯の前で佇む後ろ姿や、人々が集う川辺の背後にうっすら浮かぶ原爆ドームのシルエットなど)。大判のカラープリントと小ぶりのモノクロプリントが隣り合って並ぶため、作品との「適切な距離」がうまく取れない。引きで見ようとするとモノクロの画面はほぼ真っ黒で判別できず、接近して見るとカラーのプリントは視界からはみ出してしまう。引きと接近の狭間を往還し、その都度焦点を合わせ直しながら、小さな疲労が次第に身体に溜まっていく。
「適切な距離感の把握」の失調、それは、きれいに整備された公園/写真や映像の実体のなさが浮遊する平和記念資料館内において、「ヒロシマ」を捉えようとする時の距離間隔の喪失でもある。笹岡の展示は、「広島」のなかにある「ヒロシマ」の見えづらさ、捉えどころのない距離感の失調感覚を、一枚の写真の中だけで完結させるのではなく、展示空間全体の体験へと拡張し、観客に体感させることに成功していた。
また、笹岡のカメラが、平和記念公園と資料館の双方において、外国人観光客の姿を多く捉えていることにも注目したい。「広島」が抽象的な概念ではなく、世界遺産登録やオバマ来訪といった外的要因によって外国人観光客が増加するなど、絶えず変化していく現実の生きた場所であり、また東館のリニューアルなど「展示」内容や形態がメディアの進歩とともに加算され更新されていく以上、「ヒロシマの表象」をめぐる笹岡の抵抗の試みもまた、何度でも編み直されていかねばならない。


笹岡啓子《PARK CITY》展示風景 Photo: Ken KATO

関連記事

笹岡啓子「PARK CITY」|高嶋慈:artscape レビュー

広島平和記念資料館(東館)常設展示|高嶋慈:artscape レビュー

2017/10/09(月)(高嶋慈)

村山順子展「ケモノのキモノ 2」

会期:2017/09/23~2017/10/7

ギャラリーギャラリー[京都府]

染織作家、村山順子の個展。団栗、エンジュ、桜、ヤマモモなどの自然の染料を用いて、《春のケモノ(クマ)》《冬のケモノ(冬毛のオオカミ)》《石のケモノ(ナキウサギ)》《川のケモノ(カワウソ)》という動物の毛並みのイメージに織り上げられた着物4点が展示された。草木染めの絹糸で織られた表面は起伏に富み、光の当たり方によってさまざまな表情を見せる。淡いグレーの中に茶褐色と沈んだ紺が潜み、黄土色と白の線が現われ、銀灰色の中に緑がかった水色が幾筋も走り、深い赤と直交する。目を凝らすたびに、名状し難い色の中に新たな色が現われ、百の、そして千の色彩が移ろっていく。それらは人間のまとう着物の形をしているが、表面の豊かな表情と光沢は野生の獣の毛並みを想起させ、人間でも獣でもない身体が立ち上がる。
「衣服」は人間と動物を弁別する装置のひとつだが、化学合成繊維が発明される以前、人間は、動物から剥いだ毛皮を身にまとい、自然から採取した繊維で布を織り、草木や土を染料に用いて布を染めてきた。人間は自然界と連続した「第2の皮膚」をまとってきたのであり、また、動物の毛皮や羽根を身につけて精霊や自然神に擬態する祭りや儀式、ヒトならざるものに変容する変身譚は世界各地に残る。村山の「ケモノのキモノ」シリーズは、そうした衣服の起源、「擬態」や「変身」という呪術的機能、皮膚/外界や人間/自然を隔てつつ連続させる「衣服」について再考を促す。それは、「高度な技術で織り上げられた衣服を身にまとうことで野生化、動物化する」という転倒を孕み、「繊細な野蛮さ」とでも言うべき魅力に満ちている。

2017/10/07(土)(高嶋慈)

文字の大きさ