2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

プレビュー:ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭

会期:2017/09/09~2017/09/24 (金・土・日・祝日のみ開催)

旧郷小学校ほか[京都府]

地域アートの隆盛の中でも、「音」にまつわる芸術表現に焦点を当てた芸術祭。「音」を主軸に、現代美術、音楽、サウンド・アート、ダンスなどの領域を横断して活躍するアーティストを国内外から招聘する。「ART CAMP TANGO」は、京都府北部に位置する京丹後市在住のアーティストと地域の有志が立ち上げた団体。2013年より活動を始め、丹後に滞在するアーティストが自然環境や風土、文化から得た体験を地域と共有するアート・プロジェクトを展開してきた。今回の「ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭」の参加アーティストは、大城真、小川智彦、木藤純子、木村玲奈、鈴木昭男、三原聡一郎、宮北裕美、山崎昭典。また、香港のアートNPO soundpocketと協働し、香港を拠点とする4名のアーティスト、サムソン・チェン、アルミミ・ヒフミ、フィオナ・リー、フランク・タンが参加する。
丹後とサウンド・プロジェクトとの関わりは1980年代にまで遡る。丹後は、日本のサウンド・アーティストの草分けである鈴木昭男が、日本標準時子午線 東経135度のポイントで耳を澄ますサウンド・プロジェクト「日向ぼっこの空間」を1988年に行なった場所であり、以後、30年に渡る鈴木の活動拠点となってきた。鈴木の丹後での活動を通して海外のアーティストとの交流へと発展し、近年、若い世代のアーティストが国内外から丹後に来訪し、新たな交流が生まれている。このような経緯から、丹後の自然の中で、アーティストと一般の参加者が共にアートを体験する「ART CAMP TANGO」の構想が立ち上がったという。
メインとなるプログラムは、ローカル線 京都丹後鉄道の貸切列車内や駅舎で行なわれるオープニング・パフォーマンス「その日のダイヤグラム ─ 丹後~豊岡 パフォーマンス列車の旅」、 廃校となった旧小学校舎を会場に、音を聴く体験や音のある環境へと誘う展覧会 「listening, seeing, being there」、丹後の文化や自然が感じられる場所でのサイトスペシフィック・パフォーマンス「アートキャンプ in 丹後」。さらに、3つの滞在プログラムも組み込まれている(アーティスト・イン・レジデンス、香港から一般参加者を受け入れる「Being There Retreat Camp」、大友良英が始めた「アジアン・ミーティング・フェスティバル (AMF)」のアーティストが丹後を訪れて行なうサウンドツアー)。地域との持続的なつながりをベースに、外との交流がどう実を結ぶか、期待される。
公式サイト:http://www.artcamptango.jp

2017/07/20(木)(高嶋慈)

藤安淳「empathize」

会期:2017/07/04~2017/07/15

The Third Gallery Aya[大阪府]

藤安淳は、双子である自身と弟の身体パーツを同じフォーマットで互いに撮り合った処女作《DZ dizygotic twins》から出発し、他の双子を撮影したポートレイトのシリーズ《empathize》を発表してきた。本個展では、既発表作に新作を加え、「双子」を軸に3つの異なるアプローチが展開されている。
それぞれを概観しよう。1)「双子」の一人ずつを独立したフレームに収め、自室や思い出の場所で個別に撮影したポートレイトを2対で展示するもの。藤安の撮影方法の特徴は、ダイアン・アーバスや牛腸茂雄のように、「双子」を2人1セットとしてひとつのフレーム内に収めるのではなく、それぞれを私的背景とともに個別のフレームに収めることで、「独立した個人」として扱う点にある。そこでは「双子への眼差し」は、フォトジェニックあるいは奇異な対象と見なすことから解放され、顔が似ているだけに、微妙な表情の差異、服装の趣味や生活空間の違いが逆に浮かび上がる。また、新たな試みとして、2)「双子」(子ども)と両親、「双子」(親世代)とそれぞれの子どもを「家族写真」として撮った作品がある。双子という横軸の限定性に、親子という縦軸が加わり、被写体の「類似と差異」は、より時間的な厚みの中で眼差されることになる。さらに、3)「双子」それぞれの顔写真2組を、表情を変えて撮り、「証明写真」を思わせるフォーマットで展示した作品も発表された。この手法はより撹乱的であり、「同じ1つの顔を4つの表情で撮ったのか?」「メイクや髪型、服装を変えて撮ったのか?」「数ヶ月間のスパンで撮ったのか?」と鑑賞者をはぐらかす。だが細部を仔細に観察すれば、ホクロの位置などの微細な違いで、かろうじて別人と識別できる。
ここで、藤安自身と双子の弟を、頭部の正面像、耳、胸、腹部、腕、手や足の指といったパーツ毎に切り取り、厳格な同一フォーマットで撮影した《DZ dizygotic twins》を思い出してみよう。モノクロームで撮影されていることも相まって、それらは明らかに、「ベルティヨン式」の司法写真アーカイヴを想起させる(「ベルティヨン式」とは、再犯者の身元同定のため、頭部、耳、手指など犯罪者の身体パーツを撮影し、計測データとともに記録するシステムであり、1880年代フランスでA・ベルティヨンが確立した)。両者に共通するのは、データベースとしての写真の集合体を用いて、身体的特徴の類似と差異に基づき、個人を特定する手続きである。また、上述の3)において「証明写真」風のフォーマットが採用されていることからも、藤安の写真において真に主題となるのは、目を引きがちな「双子」というモチーフではなく、「写真とアイデンティファイ」の問題である。声のトーンや身振りのクセといった視覚情報以外のものを削ぎ落とす写真は、その人をアイデンティファイするための手段や拠り所でありつつ、アイデンティファイすることを無効化してしまう、というアポリアが前景化する。
従って、藤安作品は正確には「双子を撮った写真」ではない(アーバスや牛腸のように同一フレーム内に収めないことが証明するように。あるいは「家族写真」という別の枠組みへと回収されるように)。「極めて類似した、しかし同一ではない」ものを前にしたとき、「表面」しか写せず、視覚情報に還元してしまう写真は、その証明性の確かさと根源的な不確かさを同時に露わにするのである。だが一方で、ポートレイトとしての魅力が、写真をめぐるそうした思弁的思考に陥ることから、藤安作品を救い上げている。


撮影:藤安淳

2017/07/15(土)(高嶋慈)

林葵衣「声の痕跡」

会期:2017/07/08~2017/07/16

KUNST ARZT[京都府]

文字言語と異なり、「声」はその人の発した身体から切り離せず、その場限りの現象として消えてしまう。林葵衣は、声の現前性を機械の録音によって代補するのではなく、発音する口と支持体との物理的接触の痕跡として可視化する。唇に口紅や顔料を塗り、単語を発音しながら唇の形を転写するという方法は一貫しているが、支持体は、キャンバス、ギャラリーの壁、透明なガラスなどさまざまだ。肺に溜まった空気が押し出され、声帯が振動し、肉と骨で充満した体内を共鳴させながら、口腔を通って外へと放出されること。そうした声のエフェメラルな現象性や発語行為の身体性への林の関心は、俳優の発語する身体と不可分の演劇と親和性が高い。近年の林は、翻訳、異言語の共同体への越境、そこで生じる身体的違和感や抑圧、声の物質性を扱った演劇作品(したため#4『文字移植』、#5『ディクテ』)の2作の舞台美術を手がけ、作品世界に大きく貢献した。
キャンバスに唇の形の転写を重ねた作品は、「抽象絵画」(とりわけ、ピンクを基調とした松本陽子の絵画)を思わせる。そこでは、一つひとつの発語はもはや聴き取れないものの、物質的には静的なはずの画面が絶えず流動し、泡立ち、無数のざわめきが振動と共鳴の中で渦巻いているような密度として立ち上がる。一方、ギャラリーの壁に、左から右へと横一列に転写を連ねた作品では、波形のように連続しながら移ろう形、徐々に薄れゆく色の濃度、尾を引くように揺らめきながら消えていくかすれが、音とともに漏れる吐息や感情の濃度、空気の振動といった、文字言語では削ぎ落される身体的・感覚的な要素を強く示す。また、林が発したそれらの言葉が、部屋の外から聴こえてきた音や会話、ギャラリーがかつて喫茶店だった頃の記憶や店名であることも重要だ。あらゆる空間は、可聴的な音としては失われただけで、そうした「無数の聴こえない残響」で満ちているのだ。


撮影:守屋友樹(右)

痕跡は、物理的な身体が「不在」であるがゆえに、より強くその存在感を喚起させる。かつてその場所で発された声や音の粒子の一粒が遠く尾を引き、わずかでもその名残を留めていないか、耳をそばだてること。そうした聴取の態度へと誘う林の関心が、過去や記憶(の共有)へと向かうのはある種の必然だろう。例えばあるキャンバス作品では、父親との会話の中で、父が語った記憶を林自身が発話した「声」が刻印されている。場所や他者の記憶を語り直す、すなわち自身の身体を媒体として通り抜けた声=記憶であること。それは、記憶の分有作業であり、「二重の痕跡」であり、一度失われたものを「声」として再生させ、身体の痕跡として留めようとする、ささやかな追悼にも似た身振りである。
またそこには、発語した身体の痕跡に加え、時間性も内包されている。唇の転写を重ねた作品と、左から右へとフレーズ毎に転写を連ねた作品では、「時間の可視化」の点で相違がある。前者では、パランプセストのように時間の積層化の奥行きが示され、後者では、五線譜のように左から右へと流れる単線的な時間の流れが可視化されている。
林の作品は、生理的な身体感覚の喚起とともに失われた「声」への想起を促す、新たな書記法の開発である。

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したため#4『文字移植』|高嶋慈:artscapeレビュー
したため#5『ディクテ』|高嶋慈:artscapeレビュー

2017/07/08(土)(高嶋慈)

キュレトリアル・スタディズ12: 泉/Fountain 1917-2017「Case 2: He CHOSE it.」

会期:2017/06/14~2017/08/06

京都国立近代美術館[京都府]

男性用小便器を用いたマルセル・デュシャンによるレディメイド《泉》(1917)の100周年を記念した、コレクション企画展。再制作版(1964)を1年間展示しながら、計5名のゲスト・キュレーターによる展示がリレー形式で展開される。「Case 2: He CHOSE it.」でキュレーターを務めるのは、美術作家の藤本由紀夫。《泉》に加え、デュシャンの構想メモを収めた《不定法にて(ホワイト・ボックス)》と自作を並置した展示を行なった。
展示空間は二つに仕切られ、片方では、《不定法にて(ホワイト・ボックス)》を取り囲むように藤本作品が並ぶ。コンパクトミラーの片側に記された「ECHO」の文字が、直角で向かい合う鏡面に映し出され、文字通り反響する《ECHO(A RIGHT ANGLED)ver.2》。手前のアクリル板に「here」という単語が刻まれ、アクリルの透明な厚みを透かして「t」の文字が重なると「there」の単語が浮かび上がる《here& there》。デュシャンの通称《大ガラス》にちなんだ作品としては、「la vierge」(処女)と「la Mariée」(花嫁)という両立しない意味の単語が、見る角度によって交互に錯視的に浮かび上がる《passage(la vierge/ la Mariée)》がある。《不定法にて(ホワイト・ボックス)》から選ばれたメモは、「鏡」「反映」「投影」に関する内容のものであり、鏡という素材や反射という性質、デュシャンへのオマージュといった観点からこれらの藤本作品が並置されていると理解できる。だが、これらの藤本作品は、言葉を用いたコンセプチュアルアートを詩的化かつ3次元のオブジェ化したものと解されるべきであり、その点で「鏡」という素材レベルでの共通性やオマージュに留まる。
むしろ問題提起的だったのは、もう片側の空間で展開された《泉》の展示である。展示台に後ろ向きで載せられた《泉》の前には、「合わせ鏡」が設置され、鏡に映った4つの虚像と《泉》の背面という虚実入り混じった5重のポートレイトをカメラがまさに撮影しようとしているのだ(さらに古い大判カメラの背面のピントグラスには、淡く発光するような倒立像が写っている)。この仕掛けは、「合わせ鏡を用いたデュシャンの5重のポートレイト」を《泉》に置き換えたものである。私たちが見ているのは《泉》か、《泉》の鏡像か、(撮られるべき)5重のポートレイトか? もしシャッターが切られたら、そのイメージの所有者は誰か? デュシャンか、藤本か、撮影者の位置に同化する観客か? 《泉》が当初、無資格無審査を謳うアンデパンダン形式の展覧会に「R. Mutt」という偽名で出品されたことを考えるならば、ここでの事態は、さらに錯綜する。キャプションは、「マルセル・デュシャン《泉》1917/1964 小便器(磁器)/手を加えたレディメイド」と告げるが、「デュシャン」という作者名は「R. Mutt」へと分裂して二重写しになり、さらにその背後には「キュレーター:藤本由紀夫による」という不可視の名前が書き込まれているのだ。「He」とは、デュシャンであり、藤本でもある。藤本が美術作家であることも、事態をより複雑化させる。ここでの藤本は、「作家」なのか「キュレーター」なのか? 作家がキュレーションを行なう場合、それは「作品」と見なしうるのか? 問いは分岐し、鏡に映った4重の鏡像のように分裂する。
このように本展は、単にオマージュ的な身振りにとどまらず、「キュレーション」の持つ創造性や作品性へのある種の接近、キュラトリアルな実践の拡張やその外延の曖昧さ、「作者名」の登記といった問題を(まさに《泉》が問題提起した)「美術館」という場で再提示した点に意義がある。


撮影:守屋友樹

2017/07/08(土)(高嶋慈)

澤崎賢一『動いている庭』

会期:2017/06/24~2017/07/07

第七藝術劇場[大阪府]

フランスの庭師、ジル・クレマンの「動いている庭」という思想を、彼の原点となった自宅の庭とともに紹介するドキュメンタリー映画。クレマンの庭師としての基本的姿勢は、植物や動物との共生、自然の変化、生物多様性を尊重することにある。例えば、生育の早い植物が道を塞ぎそうになったら、植物を引き抜く代わりに自分の歩く道を変える。大木が倒れた後の地面に一斉に種子が芽吹いたら、雑草として抜くのではなく、自然に生えた草をそのままにしておく。生物多様性を守るため、昆虫を殺虫剤で殺さない。自身の仕事は「引き算の手入れ」であり、「できるだけ合わせて、なるべく逆らわない」と語るクレマン。その結果、「庭」は毎年、姿もかたちも変え、年によって違う色の花が咲くと言う。「谷の庭」や「野原」と名付けられた広大な庭は、管理された「庭」というより、雑木林や草原のようだ。映画は主に、自宅の庭を案内しながら語る姿、日本での講演の様子、そして日本での滞在時のシーンが交互に展開して構成されている。
ただし、監督自身が記しているように、クレマンの「庭」を訪れて撮影したのは、8月中旬のわずか1日半ほどの滞在だった。映画タイトルからは、「季節ごと、数年のスパンで『動いていく』庭の動態的な姿」を定点観測的に記録したのかと期待したが、そうではなかったのが惜しまれる。むしろカメラが捉えるのは、自身の庭で、日本での講演で、「動いている庭」という哲学を言葉で語るクレマンの姿だ。また、日本での滞在では、庭園史研究者や京都の寺院の庭師らとも交流するが、どちらかと言えばオフショット的な扱いに寄りがちで、互いの自然観や「庭」の文化史の相違や共通点について、もっと突っ込んだ議論があれば、とも思う。
それでも、冒頭と終盤近くに長回しで撮影された、庭で淡々と手入れを行なうクレマンの、身体に染み込んだ一連の所作は流れるようで美しい。小雨が降る中、空気に漂う湿り気やみずみずしい植物の匂いも感じられるようだ。なお、クレマンの思想をより知るためには、映画にも登場した庭師・庭園史研究者である山内朋樹の訳による『動いている庭』がみすず書房から出版されている。
公式サイト:http://garden-in-movement.com

2017/07/06(木)(高嶋慈)

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