2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

中尾美園「紅白のハギレ」

会期:2018/04/24~2018/05/06

ギャラリー揺[京都府]

美術品や古文書の「補彩」という保存修復の仕事に携わりながら、日本画材を用いた精緻な「模写」「写生」による絵画作品を制作する中尾美園。近年は、高齢の女性たちが所蔵する嫁入り箪笥や着物、思い入れのある品々を、記憶の聴き取りとともに丹念に紙の上に写し取り、絵巻のように繰り広げている。中尾作品の魅力は、本物かと見紛う迫真的な描写力の高さに加え、大切にされてきた品々へ向ける慈しむような視線が感じ取れる点にあるが、それだけではない。個人の記憶が刻まれた品々が、さまざまなアクシデントによる傷や破損を被り、それらが人の手で補修されながら、どのように後世へ引き継がれていくのか。「想定される未来」をシミュレーションし、複数に分岐した未来像として描くことで、「保存修復」という自らの仕事に対する深い洞察ともなっている。

本展では、京都市内に住んでいたある女性が所蔵していた「国旗セット」に取材した新作が発表された。94歳で逝去した女性は、祝日に、自宅に国旗を掲げるのが習慣だったという。中尾は、玄関外壁に取り付けられた旗竿を受ける金具に始まり、「国旗セット」と印刷されたビニールの収納袋、旗竿、その先端に付ける金球、そして折りたたんで保管されていた3枚の国旗をほぼ実物大で模写した。また、その1枚を広げた状態で模写したものの隣に、その「国旗」が10枚の「ハギレ」に切り分けられ、それぞれが「未来に起こりうる事態」のバリエーションとして描かれた作品が並べられた。一部がパッチワークの材料のように四角く切り取られた状態、破れた箇所がセロハンテープで補修された状態、当て布で継ぎ接ぎの処置を施された状態、水濡れによる染み、火災による焼け跡、子供の落書き、褪色などだ。

ここで、「現在の国旗の模写」と「想定される未来として描かれたハギレ」をつなぐポイントとして、「有形のモノの保存」と「無形の習慣の継承」という2点が交錯する。まず、有形のモノがどう未来に受け渡されていくかという点では、傷を負えば補修し、布の強度が弱くなれば繕ったり別の用途に活かすなどの処置が見られ、「未来の想定」であるにもかかわらず、大量生産・大量消費の時代以前の手仕事の感性がうかがえることが興味深い。同時にここには、「祝日に個人宅で国旗を掲揚する」という習慣が受け継がれていくのか、という無形のレベルをめぐる問いも浮上する。中尾が取材した老婦人は、ナショナリズムに傾倒していたわけではなく、「祝日をお祝いするアイテム」として暮らしのなかにあった感覚だったという。ハギレとして断片化され、傷や補修を施された「紅白の布」は、「国旗」が背負わされてきた意味やイデオロギーから半ば解放され、自然作用による経年劣化や人の手による痕跡が別の物語を語り始めるように見える。暮らしのなかにあったモノが形を変えながらも受け渡されていくように、「習慣」の継承も変質を被ることが示唆される。

中尾が国旗に興味を持ち、本作を制作したきっかけは、2016年に描いた《6つの眞智子切(想定模写)》に遡るという。この作品は、「眞智子」という老婦人の桐箪笥を取材し、天皇家とゆかりの深い橿原神宮で結婚式をあげた際に譲られた日の丸と、式で使用した扇を「6つの想定される未来」として描いたものである。本作でもまた、ある女性の人生の一部にあった「国旗」を、イデオロギーの代弁装置として見るのではなく、その生に寄り添うような眼差しで見つめることで、写真やスキャンによるデジタルデータ化が持ちえない体温を備えた存在感が感じられる。


展示風景

関連レビュー

中尾美園 個展「Coming Ages」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/04/29(日)(高嶋慈)

VvK21 桑島秀樹キュレーション「家族と写真」

会期:2018/04/21~2018/04/29

KUNST ARZT[京都府]

VvK(アーティストキュレーション)の第21弾。写真家の桑島秀樹のキュレーションにより、写真を通してそれぞれの「家族」に向き合う作家4名が参加した。

桑島は、視線の謂いとしてのカメラを介して父親の写真作品に対峙する「Parallax」シリーズを出品。かつて写真館を営んでいた父親が撮った肖像写真の前にガラス板を立て、ガラス面にピントを合わせて撮影したものと、父の作品自体にピントを合わせて撮影したものとを、多重露光によって一枚の写真に仕上げている。前者の場合、ガラス面に映り込んだ桑島の構えるカメラにピントが合う一方で、ガラス越しの父の作品は亡霊のようにぼやけて浮遊する。その曖昧な像は、写真館の消灯の仕事を命じられていた子ども時代の桑島が、父の撮った肖像写真が無数に並ぶ様が恐ろしくて正視できなかったため、薄目を開けて消灯していた時に見たイメージに近いという。父親の撮ったポートレイト/「写真家」として対峙する自身の視線の代替としてのカメラ/亡霊のように浮遊する記憶のなかの像。そこでは、二重、三重の眼差しの交錯に加え、父親が撮影した1960年代という過去の時間、現在の桑島の視線、自身の子ども時代の記憶というように、複数の時間も一枚の画面上に重層的なレイヤーとして折り畳まれている。「Parallax」は「視差」を意味するが、桑島の作品は、決して重なり合わない二重像の内に父親との距離感を表出させるとともに、被写体との「適切な距離」を測りながら、眼差しを向ける者自身の(物理的、心理的)距離も同時に写り込んでしまう写真それ自体についてのメタ写真であるとも言える。


桑島秀樹《Parallax - At the Ruins in Mikage》1963/2011 Gelatin Silver Print


また、自身を含む家族が「消防隊」「選挙カーでPRする政治家」「遊園地のアクションヒーロー」などを演じる写真作品で知られる浅田政志は、まさに本展のテーマに相応しい作家だ。浅田の作品は、家族のメンバーがコスプレし、固定化した陳腐なイメージを演じることで、「家族」という枠組み自体が「社会的役割として演じられるフィクション」であることを逆説的に浮かび上がらせる。「家族のポートレイト」であると同時に「家族」の虚構性の提示でもある点に、浅田作品の本質的な意義がある。


浅田政志 展示風景


「家族(像)」の虚構性を突く浅田作品とは対照的に、山本雅紀はモノで溢れかえった狭いアパートの居室に、両親や兄弟姉妹たちが暮らす「山本家の生態」を生々しく切り取って提示する。折り重なるように川の字で寝る様子、パンツ一丁で髪を剃る父親、下着姿にくわえタバコの母親、入浴姿、新聞紙の上の誕生日ケーキを囲む様子、濃密なスキンシップ……。壁面を隙間なく覆い尽くす展示方法が、写真の持つ得体の知れないエネルギーを増幅させる。貧困や引きこもりといった社会問題も透けて見えるが、家族の表情は明るく、「撮られる」ことに抵抗感がなく無防備に身体を晒している。「プライバシー」の配慮すら感じさせない撮り方だが、露悪的な暴力性を感じさせないのは、この濃密な共同体のなかに山本自身が身を置いて皮膚感覚で共有しているからこそ可能になったものだろう。


山本雅紀 展示風景


一方、松本欣二は、10歳の時に何者かに殺害された台湾人の母親との関係を、虚実を曖昧にする写真の力によって再構築しようと試みる。作品は、1)ドキュメントとしての過去の写真や新聞記事、2)母親の足跡や記憶の「再現」、3)現在の自身の家族のスナップという3つの要素から主に構成される。1)では、子ども時代に撮られた写真、パスポート、事件を報じる新聞記事といった過去の出来事の証左が複写される。2)では、自身の記憶や事件の捜査記録を辿り、「母がよく行っていた喫茶店」「母が作ってくれた料理で好きだったもの」「最後に吸ったタバコ」といった記憶や証拠物件が「再演」され、証拠写真のように撮影されることで現実として再び立ち上がる。3)では、自身の幼い息子が被写体となるが、「花火」「入園式(卒園式)」など、1)の自身の過去の写真と似たシチュエーションが意図的に選択されることで、自身の幼年期と息子への眼差しが重ね合わせられていく。妻の顔をあえて写さないことも、この「二重写し」「混同」の操作に加担する。写真のなかで幸福に触れ合う母子はかつての自分と母親ではなかったか──そうした幸福な幻想と、一方で冷静に距離を置く眼差しが、松本の写真には複雑に同居する。


松本欣二 展示風景

最後に、本展のタイトルについて振り返ろう。「家族写真」ではなく、「『家族』と『写真』」とした点に、本展の射程が集約されている。「家族写真」と言った時、「一般的な、普通の、規範的な家族像」を無自覚に前提としていないかという問いこそ、本展の根底に見出されるべきである。

2018/04/29(日)(高嶋慈)

KG+ 2018 三宅章介「切妻屋根の痕跡のための類型学」

会期:2018/04/10~2018/04/25

Lumen gallery[京都府]

空き地に面した壁に、かつてそこに隣接していた家屋の痕跡が、屋根のシルエットや壁面の色の濃淡差として残されている。三宅章介は、そうした壁の痕跡をタイポロジーとして撮り集める。特徴的なのは、その「プリント」方法だ。撮影画像をモノクロネガに変換し、ギャラリーの壁面いっぱいに貼られた2×3mのモノクロ印画紙に、会期中1日6時間×3日間=18時間、プロジェクターで画像を投影して焼き付けていく。1枚目の画像の3日間の露光が終了すると、順次、2枚目、3枚目も同様の手法で進めていく(15日間の会期で計5枚の露光を行なった)。従って、会期が進むにつれ、既に露光が終了したもの/現在進行形で露光中のもの/ブラックシートで覆われた未現像のもの、という3様態が併存することになる。

プロジェクターからモノクロネガの画像を投影すると、光を強く受けた部分が感光し、徐々にポジ画像が浮かび上がる。 ただ、露光後も薬品の定着処理を行なわないので、時間の経過に伴い、室内光の影響を受けて全面に感光が進むため、やがて画面全体が黒化して画像が消失するのではないか。三宅は当初、そのように考えていたという。しかし、実際に行なってみると、6時間の露光を終えたあたりから、ソラリゼーション効果(一定量以上の光を受けると感光層のなかの銀粒子が破壊される)のためか、強く光があたって黒化すべき部分が逆に明るくなる反転現象が起きた。

三宅の試みは、やがて「壁」自体も解体され、物理的痕跡としても人々の記憶としても消滅していく存在を、時間的な有限性のなかで変化し、定着を拒むイメージとして差し出すものとして、まずは素朴に理解される。ここで考察をさらに進めよう。(フィルム)写真は、「かつてそこにあった存在」の視覚的痕跡を印画紙という物質に定着させる。「かつて隣接していた家屋の痕跡を宿した壁」は、すぐれて写真の謂いである。三宅の試みは、一種のメタ写真としての「隣家の痕跡を残した壁の写真」を、プロジェクターから投影される自身の「光」そのものによって焼き付け、現像/反転/変容させていくことで、幾重にもはらんだ自己言及性とともに、自己破壊のアイロニーをも含み込んで屹立する。


左:1枚目を18時間露光した後、さらに3日経過した状態。ほぼ完全に反転している。
右:2枚目を12時間露光した状態。ソラリゼーション状態が見られる。

2018/04/19(木)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00042511.json s 10145636

澤田華「見えないボールの跳ねる音」

会期:2018/04/13~2018/04/29

Gallery PARC[京都府]

澤田華が近年に制作している「Blow-up」(引き伸ばし)シリーズや「Gesture of Rally」(ラリーの身振り)シリーズは、印刷物や画像投稿サイトの写真のなかに写り込んだ「正体不明の物体」を検証するため、写真を引き伸ばし、形態を分析し、3次元の物体として「復元」を試みるなかで、イメージの「誤読」が連鎖的に生み出されていくプロセスの提示である。

本展では、「Mr.ビーン」役で有名な俳優、ローワン・アトキンソンのポートレイトが掲載された書籍を出発点に、彼が手にしている「よく分からない何か」(一口かじったクラッカー?)に着目した。「これは何か」と指さす手とともに元の写真図版を入れ子状に写した写真に始まり、ほぼ実物大に引き伸ばし、輪郭線を抽出し、カラー数値を分析し、画像検索にかける。だが、「干し大根」「せんべい」「ギョーザの皮」「聖体」など近似値の回答結果が得られるだけで、「正解」は分からない。検索結果を表示するウェブ画面をプリントした紙に加え、元の書籍のAmazonの商品ページやWikipediaの「ローワン・アトキンソン」の項目ページもプリントアウトして掲示され、謎が解明されないまま、情報だけが蓄積されていく。
さらに別室では、同じ写真のなかに見出された「もう一つの謎の何か」(もう片方の手と服の隙間にチラ見えする模様?)が分析と検証を加えられ、イメージの「誤読」を生み出していく。モニターには、トリミングや解像度などの差異を施した画像を、Google画像検索にかけた結果が次々と表示される。「これは、人の目です」「これは、タトゥーです」「これは、女性の隣に立っている人々のグループです」……。「これは、~です」の空白部分はいくらでも代替可能であり、写真の明白な意味(と思われていたもの)は解体されていく。

写真に偶然写り込んだ不可解な細部、一種の「プンクトゥム」に着目して検証を加えていく方法論はこれまでと同様だが、本展では、「情報」の連鎖的な生産がもう一つの焦点となっている。また、1枚の写真のなかに複数の不可解な細部を見出し、それぞれを情報の渦巻く海へと拡散させていくことで、「写真には単一の本質的な意味など内在しない」というメタメッセージが差し出される。それは、InstagramなどSNSや画像共有サイトにおける「タグ付け」に奉仕して流通する写真の現在的あり方への批評でもある。澤田作品は、写真が単一の意味へと収斂することに抗い、眼差しの統制を解除し、修正によってノイズが排除されたデジタル写真から「写真」の持つ不可解な力を取り戻すための試みであると言える。
「これは、~です」の指示対象はまた、埋まらない空白としての写真の細部を指し示すと同時に、「これは、印刷物です」「これは、インクのドットです」「これは、モニターの表面です」というように、次々と異なるメディウムの間を憑依していく。澤田作品は、イメージが複数のメディウムの間をサーキュレーションしながらゴーストのように漂い続ける状況そのものをも指し示しているのだ。


『見えないボールの跳ねる音』展 会場風景
撮影:麥生田兵吾 Mugyuda Hyogo
画像提供:ギャラリー・パルク Gallery PARC

関連レビュー

澤田華「ラリーの身振り」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/04/15(日)(高嶋慈)

KYOTOGRAPHIE 2018 森田具海「Sanrizuka ─Then and Now─」

会期:2018/04/14~2018/05/13

堀川御池ギャラリー[京都府]

タイトルの「Sanrizuka」は、1960年代後半に成田国際空港の建設予定地となり、地元農家や学生らが激しい抵抗運動を繰り広げた千葉県の農村地域「三里塚」を指す。森田具海は、かつて熾烈な「三里塚闘争」が行なわれたこの地の現在の姿を、4×5の大判カメラで淡々と写し取っていく。それは、長閑な野原や林のなかに異物として突如現われ、境界線を可視化し、視界を塞いでいく「壁の生態学」とも言えるものだ。植物が生い茂り、サビが浮き、歳月を物語る壁。何重もの金網フェンスが張り巡らされ、管理と排除の力学で覆われた一帯。至近距離で真正面から撮られた壁は、文字通り目の前に立ち塞がる威圧感を与えるが、荒涼とした野原に建つ壁をやや遠望に捉えたショットは、どこか空虚な印象を与える。辺りは無人だが、ある壁の上部にはよく見ると監視カメラが設置され、私たちは壁によって常に「見られている」。土地に引かれた境界線を物理的な障壁として顕現させ、国家や資本主義といった権力を可視化する装置として機能させる政治学が、ここではつぶさに観察されている。

また、展示に際して森田は、2つのインスタレーション的な仕掛けを施した。1点目は、空港建設反対運動に参加した人々が発したスローガンを、当時用いられた字体のまま、壁面に掲げている。だが、白い壁に白い文字で記された抵抗の言葉は見えづらく、「かつて」の記憶への接近の困難そのものを指し示すかのようだ。また、2点目として、展示室内に実物の金網フェンスを用いて四角い囲いを出現させ、その壁面をぐるりと一周するように写真を展示している。だが、この展示方法は両側面があるのではないか。インパクトがあって分かりやすい反面、「壁」が物理的に出現することで、写真自体の喚起力を削いでしまうのではないか。目の前の、仮設的なフィクションとして存在する「この」壁は、三里塚に建つ「あの」壁の代理=表象とはならない。むしろ、写真自体が、個別的な対象を写しつつ、世界中に無数に存在する壁や境界線へと拡張可能な喚起力を持つべきだろう。


森田具海《新設道路、空港拡張予定地、天神峰》2017
© Tomomi Morita


森田具海「Sanrizuka ─Then and Now─」堀川御池ギャラリー 1階
© Takeshi Asano-KYOTOGRAPHIE 2018

KYOTOGRAPHIE京都国際写真祭 2018 公式サイト:https://www.kyotographie.jp

2018/04/15(日)(高嶋慈)

artscapeレビュー /relation/e_00042511.json s 10145634

文字の大きさ