2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

岸田良子展「TARTANS」

会期:2018/06/12~2018/06/23

galerie 16[京都府]

岸田良子が2010年から手がけている「TARTANS」シリーズの第8弾。1968年に刊行された書籍『THE CLANS AND TARTANS OF SCOTLAND』に掲載されたタータンチェックの写真を元に、80号のキャンバスに拡大して描いた絵画作品である。それぞれの絵画には、「LINDSAY」「MACINTOSH」など、タータンチェックの名前がタイトルに冠されている。筆を使わずに、ペインティングナイフとマスキングテープを用いて制作されているため、遠目には均質でフラットな表面は巨大な布地を貼り付けたように見えるが、近寄って見ると、地色(赤)の上に交差する縦/横の色の帯(緑、赤褐色)が、ごく薄く盛り上がった絵具の層を形成している。編まれた織物を表面的には擬態するが、「筆触」はないものの、絵具の物質的な層の形成が「絵画であること」を宣言する。そのグリッド構造は、厳格な幾何学的抽象絵画を思わせ、モダニズム絵画の規範を擬態するかのようだ。また細部を見れば、拡大された「織り目」は「斜線の交差」として描かれ、オプ・アート的な錯視効果を生み出す。あるいは、布地の表面を「絵画」として描く、すなわち三次元の物体を二次元に変換するのではなく、二次元の平面を二次元として描くトートロジカルな態度は、ジャスパー・ジョーンズの国旗や標的を描いた絵画作品を想起させる。このように岸田の「TARTANS」シリーズは、複数の絵画史的記憶を重ね合わせつつ、「写真」(複製、コピー)、「テキスタイル」(絵画の制度から捨象された手工芸の領域)といった諸要素のミクスチャーでもって、「絵画」に(再)接合しようとしていると言えるだろう。


会場風景

また本展では、約40年前に発表された《A・B・C スター絵本》(1979)も合わせて展示された。これは、往年の映画俳優などの「スター」のブロマイドを、名前のアルファベット毎に1人選び、同じ写真で全ページを構成した1冊の「本」に仕立てた作品だ(ただし「X」の本のみ該当者がなく、白紙である)。本の写真図版を元に絵画化した「TARTANS」とは逆に、ブロマイド写真から本を制作したという反対のベクトルだが、既存の情報の収集、引用、所属する文脈からの切断、(再)秩序化、抽象(絵画)化といったプロセスに対する一貫した関心や連続性が感じられる展示構成だった。


《A・B・C スター絵本》1979

2018/06/17(日)(高嶋慈)

都美セレクション グループ展 2018
Quiet Dialogue: インビジブルな存在と私たち

会期:2018/06/09~2018/07/01

東京都美術館 ギャラリーA[東京都]

さまざまな地域、時代状況における「女性」のあり方に焦点を当て、ジェンダーを多角的に検証するグループ展。ソビエト時代から多くの女性で構成されてきたモスクワ地下鉄の監視員のポートレイト、戦前・戦中の婦人参政権運動を牽引した市川房枝、中世ヨーロッパの魔女のイメージと実際に魔女狩りの対象にされた現実の女性など、対象は多岐に渡る。とりわけ、「声の複数性」/「単線的な声への集約」という構造や、「性産業従事者」/「再生産労働従事者」という女性の労働状況をめぐる対比の点で興味深く、秀逸だったのが、本間メイと川村麻純の作品である。 本間メイの映像作品《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、性産業に従事するため、東アジアや東南アジアに人身売買された日本人女性について、フィクション/ドキュメンタリーを織り交ぜて考察する。複数の斡旋業者に売買され、各地を転々とし、梅毒にかかった女性の自伝風の語り。「異邦の地で日本語を忘れた老婦人」について報じる新聞記事。「売春と梅毒の輸出は、ヨーロッパの倫理と健康を脅かす」と懸念を語る男性の声。第二次大戦末期のインドネシアで、学校で習った日本語の歌を覚えていると語る現地の老人。複数の視点と声を織り交ぜながら、小説やオペラに描かれたセックスワーカーを含む多様な女性像を通して、「日本人女性」のイメージ形成についての検証がなされる。


本間メイ《Anak Anak Negeri Matahari Terbit ─日出ずる国の子どもたち─》2018

一方、川村麻純の映像作品《home/making》では、戦前から2018年現在に至るまでのさまざまな「家庭科」教科書の文章を、若い女性が淡々と朗読する。川村が注目するのは、「家庭科は、教科書のなかで唯一、女性が一人称で登場する科目」である点だ。「私」「私たち」は、料理、一家団欒の準備、洗濯、掃除といった家事や育児、再生産労働への従事を「女性にとって自然で、理想的な、家族に奉仕する喜ばしいもの」として語り続ける。驚くべきは、時代差をつらぬく一貫した連続性だ。ここで女性たちは、「私(たち)」という主語として語ることを与えられつつも、再生産労働に従事する者として、その仮構された主語の下に再び統合されるのだ。複数の異なる時代にまたがる教科書の文章のコラージュであるにもかかわらず、シームレスに続く朗読やループする映像は、その統合の回路の果てしなさを暗示する。だが、時折挿入される、ごく平凡な台所や洗濯場を映す映像が、「無人」であることに注意しよう。そこに存在するにもかかわらず、「インビジブル」なものとして不可視化され、空気のように透明化しているのは、いったい何か。川村の作品は、性別役割分担を内面化し、自明なものとする態度そのものについて、静かに問いかけている。


川村麻純《home/making》2018

2018/06/16(土)(高嶋慈)

プレビュー:ミュンヘン・カンマーシュピーレ『NŌ THEATER』

会期:2018/07/06~2018/07/08

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

ドイツ有数の公立劇場ミュンヘン・カンマーシュピーレにて、日本人演出家として初めてレパートリー作品の演出を務めた岡田利規(チェルフィッチュ主宰)。昨年2月に発表された『NŌ THEATER』がロームシアター京都にて上演される。タイトルに「NŌ(能)」とあるように、「能」という演劇形式の可能性を現代演劇として追求した本作は、「六本木」と「都庁前」という2つの演目と、間に挟まれる狂言「ガートルード」から構成される。「六本木」では、現代における「罪深いもの」として「金融」に焦点が当てられ、「都庁前」は、岡田によれば「フェミニズムの能」であるという。

『地面と床』(2013)、『部屋に流れる時間の旅』(2016)といった東日本大震災後に発表したチェルフィッチュ作品で岡田は、「幽霊」の存在を通して、日本社会の構造的歪みや他者との断絶感を鋭く可視化してきた。「幽霊」が主人公として登場する本作も、この系譜上に位置づけられるものであると同時に、現代日本を舞台とした演劇を「ドイツ人俳優がドイツ語で演じ、字幕を通して観劇する」という迂回路をとることで、日本社会を相対化する視座を与えてくれるのではないだろうか。なお本作の国内公演は、京都のみとなっている。

2018/05/31(木)(高嶋慈)

Yukawa-Nakayasu「深呼吸の再構築」

会期:2018/05/25~2018/06/10

Gallery PARC[京都府]

蚤の市で購入した日用品、ファウンド・オブジェ、石や植物の種、貝殻や羽根といった自然の素材などをブリコラージュ的に組み合わせ、民間信仰の祭礼や呪具を思わせる繊細なオブジェをつくり出すYukawa-Nakayasu。「豊かさとは何か」を問う独自の概念「豊饒史の構築」を掲げ、民間信仰や各地の風習、個人史のリサーチに基づきながら、近代的な美術の制度から捨象されてきた想念の形を審美的なオブジェとして提示してきた。

本展でも基本的姿勢は同じだが、展示形態が有機的な宇宙から整然とした秩序へと大きく変質した。オブジェ群が「ナマ」の状態で、あるいは祭礼の場を擬似的に構築するように散りばめられていた展示形態から、絵画の額縁、ガラスケース、展示パネルといった民俗博物館/美術の制度的フレームへと移行し、オブジェに境界画定や文脈づけを与える基底面のレイヤーが追加されている。

本展での展示のストーリーは、以下のように描けるだろう。まず第1室では、「火、光、熱」をキーワードに連想的に繋がるファウンド・オブジェとイメージ(写真、映像)が接合される。例えば、「野焼き」の写真が、炎の焦げ痕のついた木材のフレームに入れられ、写真の中央から伸びたパイプには焦げた布が巻き付けられて松明を思わせるが、先端で輝くのは炎ではなく人工的な電球である。溶岩や太陽の写真が「自然界の火や光」を示す一方、焦げ跡のついた布には金継ぎのような装飾が施され、破壊が新たな価値を生み出すことを示唆する。ここに、重ねられた2つの意味を読み込むことができるだろう。1)動物/人間を弁別し、文化の発生としての「火」。例えば、木材の表面を「焼く」行為が強度の増加や焦げ目の模様づけになったり、(焦げ跡に施した)金継ぎが修復と装飾という二重の役割を果たすように、昔からの技法の転用が、(架空の)民俗資料のように並べられる。2)視覚の前提条件としての「光」。「見ること」、視覚の制度化としてのフレーム(額縁、ガラスケース、パネル)への言及につながる。



[撮影:麥生田兵吾 Mugyuda Hyogo 画像提供:ギャラリー・パルク Gallery PARC]

そして、1)と2)が重なり合ったものとして、もう1室の展示を考えることができるだろう。ここでは、サブロクという規格化されたサイズの4枚のベニヤ板の上に、拾遺物に手を加えたさまざまなオブジェや写真が貼り付けられ、それぞれのパネルが「恋愛成就の迷信」、「火」、「水」、「貨幣と地図」というグループ群を形成していることが分かる。「キャプションのない民俗博物館」の様相だ。

民間信仰(の擬態)により、目に見えない精神的価値や想念を美的に再構築してきた「豊饒史」は、文化史的フレーム/美術の制度的フレームを自己言及的に内在させ、より拡がりをもって展開しつつある。


[撮影:麥生田兵吾 Mugyuda Hyogo 画像提供:ギャラリー・パルク Gallery PARC]

関連レビュー

湯川洋康・中安恵一「豊饒史のための考察 2016」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/05/26(土)(高嶋慈)

Seung Woo Back「Volatile Judgement」

会期:2018/05/24~2018/07/15

アンダースロー[京都府]

ともに京都を拠点とする劇団「地点」と出版社「赤々舎」が共同企画する「About the photographs, About us, Asia」は、東アジア出身の写真家を紹介する連続個展のシリーズである。李岳凌(リー・ユエリン、台湾)、石川竜一(日本)に続き、第3弾としてSeung Woo Back(ベク・スンウ、韓国)の個展が開催された。普段は地点の稽古場兼劇場であるアンダースローが、約4ヶ月間、写真をめぐる思索的空間へと変貌した。

本展では、「Blow Up」と「Utopia」の2つのシリーズの再構成に新作が加えられている。いずれも「北朝鮮」を主題としているが、その根底にあるのは、イメージの生産と受容、視線と欲望、表象の政治学をめぐる写真的考察だ。「Blow Up」(「引き伸ばし」の意)のシリーズは、2001年に平壌を訪れたベク・スンウが制約のなかで撮影し、検閲によってネガフィルムの一部が切り取られた写真を数年後に見返した際、撮影時には気づかなかった要素を事後的に見出し、拡大して作品化したものである。それは、検閲を潜り抜け、「問題なし」と判断された写真のなかに、検閲官も撮影した作家自身も見落としていた細部を見出し、「不穏な裂け目」として押し広げ、安住しない「写真の意味」ひいては写真を見る眼差しそのものを繰り返し再審に付す作業である(例えば、対外向けの演奏を行なう子供たちが弾くキーボードには「YAMAHA」の商標が記され、「資本主義国の製品」であることを暗に示している)。また、頻出するのが、1)政治的指導者のポートレイトや彫像、2)そうした体制や社会主義理念を体現する表象を眼差す人々の後ろ姿、3)フレーム外の何かへ視線を向けている人々、4)窓ガラス越しに写された人々である。とりわけ3)では、彼らが見つめていたはずの、視線の先にあるものがフレーム外へと放擲されることで、視線の宛先を欠いたまま、「何かを見る行為」だけが抽出して提示される。4)では、窓の矩形が眼差しのフレームを示唆するとともに、被写体との間を隔てる「透明なガラス」が社会的、心理的な距離感や分断を強調する。しばしば登場する曇りガラスが「監視」を暗示する一方、そこでは写真を撮る/見る私たち自身の窃視的な欲望こそが常に送り返されて突きつけられる。

一方、「Utopia」のシリーズは、雑誌などオフィシャルな印刷物に掲載された社会主義建築の写真を引用し、加工を施している。威圧的で官僚的な建築物は、その一部がコピーされて繋ぎ合わされ、形態的に反復されることで、現実にはあり得ない畸形化したイメージへと変貌する。国家権力が見せたい「ユートピア」像を肥大化させることで、その非現実性が浮かび上がる。

また、展示形態も興味深い。展示空間の中央には、サイズの異なる29個のボックスを組み合わせた構造体が置かれ、それぞれのボックスには壁に展示されていない写真が格納され、観客は自由に引き出して見ることができる。これらのボックスは自在に組み合わせることが可能であり、単に作品輸送のためという機能性を超えて、「移動」や「再構築」といった概念を提示する。イメージを固定化し、再生産に寄与する写真というメディアそれ自体を用いて、視線の解体と問い直しを行なうベク・スンウの作品のあり方を体現する装置だと言えるだろう。


[Photo: Kideok Park]

特設サイト:https://www.chiten-akaaka.com

2018/05/26(土)(高嶋慈)

文字の大きさ