2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

宇多村英恵「Holiday at War戦争と休日」

会期:2018/08/03~2018/08/26

資生堂ギャラリー[東京都]

国籍、人種、文化といったさまざまな社会的立場や時代状況の隔たりを超えて、他者の経験や記憶を「表象」として切り取るのではなく、どう鑑賞者が身体的経験として共有することができるか。本展のメイン出品作である《Holiday at War /戦争と休日》で宇多村英恵が挑むのは、この困難な問いである。

展示空間には、約3m四方の黒い立方体が入れ子状に置かれている。観客の目線の高さには横長のスリットが窓のように開けられ、一定の間隔で光が旋回する。光が横切る瞬間、どこか現実離れした高級リゾートホテルの室内のようなイメージが浮かび上がる。その旋回する光は、薄明の青い光で包まれた霧深い海上を照らす灯台の灯りを思わせ、周囲の壁には一列のテクストが照らし出される。「私は海に沿って歩いている。」という出だしから既に虚実混淆の仕掛けに満ちたこのテクストに導かれるように、観客は読みながら歩を進め、この建築物について語る架空の語り手の歩行と身体的に同一化していく。



会場風景 [撮影:加藤健]

語られるのは、ドイツのリューゲン島のプローラという地に建てられたこの建築物の変遷と、関わった建築家の辿った運命について。ナチスにより、国民が余暇を過ごすための世界最大の保養施設として計画されるも、第二次世界大戦中に建設は頓挫。戦後は、ソ連と東ドイツの軍隊によって使用され、また、戦時中の市民の避難所やユーゴスラビア戦争時の難民の避難所にもなった。廃墟同然となっていた建物だが、現在、高級マンションとして売り出されている広告を語り手は目撃する。そして、当初の保養施設の建設コンペで審査員を務めた、ナチスの主任建築士のアルベルト・シュペーアは、戦後、戦犯として刑務所に収監された。彼の独房のサイズは、この休暇用の部屋のサイズとほぼ同じであり、そのサイズを再現したのが目の前の黒い箱なのである。シュペーアは独房の中で回想録を書き、服役中に取った休暇期間には、旅行ガイドや地理の本の中で想像上の世界旅行を楽しんだ。



会場風景 [撮影:加藤健]

地下にある架空の「建物の記憶を保存した博物館」から地上に出た語り手は、どうやら「黒い箱」の中にいるようだと語る。語り手=私たち観客を取り込んだそれは独房であり、内省と想像のための空間であり、休暇用の部屋であり、救済の部屋でもある。複数の主体と空間の境界が溶け合い、重なり合う。「それぞれの時代の要請を受け入れ、異なる国の他者を歓待してきたこの建物のように、私達は他者を受け入れることができるのだろうか」と最後に語り手は自問する。それは、「テクストを読みながら歩く」行為を通して、語り手へと、そして語り手が自身の歩みを彼の孤独な想像旅行に重ね合わせたシュペーアへと、二重、三重に他者へと自身を重ね合わせた私たち観客に引き継がれるべき問いである。無機的な「黒い箱」はその時、近代合理主義の権化から、「他者に自身を重ね合わせる、想像と歓待のための象徴空間」へと反転して現前する。だから内部は不可視のままなのだ。しかしそれは閉ざされた空間ではない。「黒い箱」の周囲を歩き回った私たちは、自らの身体的駆使から、想像力の駆使へと最後に飛躍を迫られる。「想像と歓待のための空間」に身を置いて、灯台が投げかける光のように、外を見通すこと。そこにこそ本作の掛け金がある。緻密なリサーチに基づき、知的な洗練度を備えた、極めて完成度の高いインスタレーション作品だった。

2018/08/12(日)(高嶋慈)

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樗谿グランドアパート

樗谿グランドアパート[鳥取県]

鳥取アートシーン探訪記その2。「樗谿(おうちだに)グランドアパート(佐々木家住宅)」は鳥取市内の歴史的建築物。機会に恵まれ、保存会の方の案内で内部を見学させていただいた。1930年に竣工した木造2階建の住宅だが、時代や持ち主の変遷に伴って増築や改変が加えられ、様式や文化の混在とともに重層的な歴史が刻まれた建築だ。当初の建築(正面向かって左側)は、元々は医院として建てる計画だったが、途中で住宅へと変更されたため、建設途中で改築が施された。また、玄関に入ると、重厚感ある木製の螺旋階段が出迎えるが、これは明治後期に建てられた別の病院から移築したもの。移築先のこの空間に収まるよう調整を施したため、階段の幅が入り口と踊り場で異なるなど、奇妙なねじれが発生している。外観は洋風建築だが、内部には和室も有し、バルコニーがある一方で屋根瓦には家紋をあしらうなど、和洋折衷が随所に見られる。



外観

さらに輪をかけて複雑にしたのは、占領期にGHQによって接収され、占領軍将校の住居として使用するため、増築されたことだ(正面右側)。増築部分の1階は、ベランダを支える柱に植物的な柱頭装飾が施され、手前の日本庭園と奇妙な齟齬を見せる。室内の壁にはペンキを塗られた痕とともに、扇情的な衣装の踊り子の絵が残され、ひときわ目を引く。「占領軍の将兵が描いた」と言われているが、顔立ちや線描は日本的で、描き手やモデルはどのような人物だったのか、想像がふくらむ。この絵が描かれた部屋はダンスホールとして使用され、接収解除後もダンスホールやホテル、後にアパートとして使用された。現在、1階増築部分は織物作家のスタジオとして使用されている。



ダンスホールだった部屋の壁に残る、踊り子の絵


さまざまな断片が接合され、奇妙なパズルのように組み立てられた建築。とりわけ興味深いのは、「二重の占領の記憶」が書き込まれている点だ。床の間の床柱に用いられた黒い木は、南洋から運ばれた材木であり、南方材を床柱に用いることが当時流行していたという。その「軍事的進出」の記憶は、占領軍将校による壁のペンキ塗りとして、文字通り上書きされる。「支配」と「被占領」が文化装置として顕現する、そのことを色濃く伝える点でも非常に興味深い建築だった。



左:螺旋階段 右:床の間

2018/08/05(日)(高嶋慈)

HOSPITALE PROJECT

HOSPITALE PROJECT[鳥取県]

鳥取アートシーン探訪記その1。「HOSPITALE PROJECT」は、鳥取市内の旧横田医院を全館用いて、アートに関わるさまざまなプログラムを実施しているアート・プロジェクト。1956年に地上3階建ての鉄筋コンクリート造りとして建てられた旧横田医院は、円形が特徴的であり、内部は扇形をした小部屋で区切られている。ここでは、年間数名のアーティストを招聘するアーティスト・イン・レジデンス・プログラム、滞在制作された作品の展示や空間の特性を生かしたパフォーマンスを行なうギャラリー・プログラムに加え、コミュニティのための庭づくりや野菜の栽培を行なう「庭プロジェクト」、アート・プロジェクトの事例紹介や課題について話し合う「はじめてのアート・プロジェクトトークシリーズ」など、計6つの活動が行われている。筆者の見学時は残念ながらイベント開催期間ではなかったが、「読まなくなったけど捨てられない本」を集めて公開する「すみおれ図書室」は見ることができた。

合わせて、近所にある「プロジェクトスペース ことめや」も見学。元旅館のこちらはコワーキングスペースとして使用されているほか、レジデンス施設としても活用されている。どちらも地元に残る建築物を地域に根付いたアート・プロジェクトの場とコミュニティづくりとして活用する好例であり、「地方なので外から入ってくるものに対して警戒感はあるが、受け入れるキャパはある」と話してくれた案内役のインターンの方の言葉が心に残る。


左:外観 右:すみおれ図書室

2018/08/04(土)(高嶋慈)

ダレル・ジョーンズ『CLUTCH』

会期:2018/08/03~2018/08/04

ArtTheater dB KOBE[兵庫県]

昨年のKYOTO EXPERIMENT 2017での上演が中止となり、約1年後に実現した神戸上演でやっと見ることができたダンス作品。なぜ神戸で上演されたかというと、昨年5月に神戸のDANCE BOXにて滞在制作を経た作品だからだ。ダレル・ジョーンズは、アメリカの黒人やラテン系のゲイカルチャーの中で発展した「ヴォーギング」というダンスのスタイルを取り入れ、身体表現を通して自身のセクシャル・アイデンティティや抑圧のメカニズムについて問うてきたダンサー、振付家である。「ヴォーギング」の名称は、ファッション雑誌『ヴォーグ』のモデルのようにポージングを決めながら踊ることに由来する。本作『CLUTCH』でも、DJが刻むビートの高揚に合わせ、ジョーンズは同じく黒人の出演者2名とともに、蠱惑的なポーズを取り、あるいはランウェイを歩くモデルのように腰をくねらせながら高速でターンを決めてみせる。中盤では弁髪のように垂れ下がったカツラを装着し、トランスの集団的な高揚とも威嚇し合う獣ともつかない、ヘッドバンキングを繰り出す。

ただ表面的にクラブカルチャーを取り入れたというのではなく、ある種の両義性、メタフォリカルな戦略性、そして「儚さの美学」があることが特徴だ。蠱惑的なポーズや肢体を見せつけるようでいて、その身体は同時に硬い防御の殻を纏っている。見る者の視線を吸い寄せながら、欲望の眼差しをはね返す鎧のような緊張感が常に漂う。闘争的であり、解放感にも満ちている。その両義性は、例えば、途中で彼らが身に着ける「何重ものメタリックなバングル」に象徴的だ。暗転した暗闇の中でバングルがカチャカチャと硬質な金属音を響かせる時、それは鎖や手枷のような拘束具を想起させる。一転して明るい照明が付くと、彼らの激しい動きに合わせてキラキラと光を放ち、魅了する装身具となる。とりわけ終盤にかけては、ゲイのアーティストの多くに共通してみられる「儚さの美学」が感じられ、繊細にして強い印象を残した。高いヒールのサンダルを履いた相手の足を愛撫するようにゆっくりと持ち上げると、ヒールに付けられたクリスタルパーツが足の動きに合わせて光を放ち、ミラーボールに包まれた空間へと変貌する。ペットボトルを股間にあてがい、ぶちまけた水を相手に飲ませるラストシーンは、露骨なメタファーの中に、水しぶきに反射した光が見せる幻想的な美しさが同居する。彼らはその粒立ちの光をひと時浴びて祝福的な空間に浸された後、再び暗闇の中へと姿を消していった。



[Photo: junpei iwamoto]

2018/08/03(金)(高嶋慈)

原田裕規「心霊写真/マツド」

会期:2018/07/01~2018/08/05

山下ビル[愛知県]

今年4月に東京のKanzan Galleryで開催された「心霊写真/ニュージャージー」展、そして続編の「心霊写真/マツド」展へと展開する原田裕規の関心は、おそらく、「ファウンドフォト」という手法ないしは問題機制をめぐり、匿名的な市井の撮影者/アーティスト/キュレーターという「複数の主体の座」の侵犯や撹乱にある。

先行する「心霊写真/ニュージャージー」展と同様、本展は以下4つの構成要素からなる。1)清掃やリサイクル業者から原田が引き取った、「捨てられるはずだった写真」の膨大な山。「心霊写真」というタイトルが呼び起こす期待とは裏腹に、それらは家族や友人のスナップ、行事や旅行先での記念撮影、風景写真など、ごく普通のアマチュア写真であり、モノクロとカラーが混在する。一部は輪ゴムで束ねられ、「飛行機」「宴会」といったグルーピングが読み取れる。「謎の静物」「花、オールオーバー」などの分類メモを原田が記した付箋が付けられたものもある。2)一部のみが大きく引き伸ばされ、ネガポジ反転した画像。スマートフォンのネガポジ反転機能を用いると、「元の正しい色調の画像」が液晶画面内に浮かび上がる。3)上述1)の写真から選ばれ、額装された写真。4)「百年プリント」と書かれたDPE袋と、郊外の平凡な風景を写した写真。その表面は時間を経たように黄ばんでいるが、この「黄ばみ」は原田によりPhotoshopで補正された人工的な着色である。



《百年プリント:マツド》


ここで、ファウンドフォトを用いた例として、例えばフィオナ・タンの《Vox Populi(人々の声)》や木村友紀のインスタレーション作品が想起される。《Vox Populi(人々の声)》は、展覧会開催地に住む人々からタンが収集したアマチュア写真を、構図や被写体の人数、ポーズ、撮影シーンなどでグルーピングし、ある地域や文化圏の住民が無意識的に共有する「写真のコード」のマッピングを浮かび上がらせようとする試みだ。また、木村友紀は、「発見された写真」を元の文脈からズラし、ある形態や色彩といった細部をトリガーに、別の写真やオブジェと接続させて読み替えるインスタレーションを制作する。こうしたタンや木村と異なり、1)での原田は収集した写真を一方では方向づけてコントロールしようとしつつも、半ば放棄している。観客は、「整理途中の写真の山」を実際に手に取って一枚ずつ眺めることができ、組み換えて別のグルーピングの束をつくることも許可されている。つまり観客が目にするのは、アルバムから引き剥がされて元のコンテクストを失い、アーティストによって選別された「ファウンドフォトの作品」としての新たな登録先もまだ得ていない、浮遊状態の写真なのである。原田はここで、「埋もれた匿名的な写真」を独自の視点で「発見」し、「新たな(美的、文化史的、記録的……)価値」を付与する特権的な「作者」として振る舞うことを自ら放棄している。それは、「ファウンドフォト」という手法に潜む「一方的な簒奪」 「私物化」といった暴力性に対する、批評的な態度の表明と言える。

その一方で、3)の額装された写真は、「任意の写真を選別し、フレームという装置によって他と聖別化する」行為を前景化させ、キュレーションの権力を発動させることで、アーティスト/キュレーターの職能的な弁別を撹乱する。また、4)において原田は、技術的卓抜やアーティストとしての視点の独自さを示すわけでもない。人工的な褪色を付けられた匿名的な風景の写真は、「平凡なアマチュア写真」の撮影者に自らを擬し、さらに「時間的経過」の味付けをフィクションとして加味することで、1)の収集された写真群の匿名的な撮影者の立場に自らの身を置こうとする身振りである。「撮影者の気持ちを想像して書いた文章を添える」というもうひとつのフィクショナルな仕掛けが、この偽装をより強調/暴露する。

「ファウンドフォト」の作者としてのアーティスト/キュレーター/アマチュア写真の撮影者。原田はその役割を演じ分け、曖昧化・多重化させることで、境界を侵犯的に撹乱させる。一枚の「ファウンドフォト」には、被写体となった人物だけでなく、撮影した者、現像した業者、現像された写真にかつて眼差しを注いだ者、その写真に新たな光を当てる「アーティスト」、その「ファウンドフォト」を展示作品として選別するキュレーターなど、複数の主体の関与や眼差しが透明ながら密接に折り重なっている。写真それ自体には写らない亡霊のような「彼ら」の存在をこの場に召喚し、写真の背後に透かし見ようとすること。それこそが、原田の試みにおける「心霊写真」の謂いである。



会場風景




原田が収集した、約1万枚の写真


2018/07/29(日)(高嶋慈)

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