2018年01月15日号
次回2月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

アリン・ルンジャーン「モンクット」

会期:2017/10/28~2017/11/26

京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA [京都府]

アリン・ルンジャーンは1975年バンコク生まれ、2017年のドクメンタ14に参加するなど国際的に活躍する作家。繊細な映像とインスタレーションを組み合わせた複合的な作品を制作している。モノの移動や移民がもたらす地政学の書き換え、流通と消費の政治学、植民地化や異文化の接触といった近現代史の捉え直しの中に、個人的な記憶を交差させて現在と接続させるのが特徴だ。2015年の「PARASOPHIA:京都国際芸術祭」で展示した《Golden Teardrop》では、商品としての砂糖の歴史から西欧とタイの関係を再考。ヨーロッパから17世紀のタイに伝えられた砂糖菓子を、タイ在住の日本人女性がつくる様子を収めた映像に、彼女の祖父母が広島で被爆したことを語る声が重ねられる。写真など歴史資料を用いつつ、砂糖菓子の型をつくる工場労働者も登場するなど、作品は断片的で複数の語りへと開かれている。

本個展でルンジャーンは、西欧諸国が植民地支配を強めた19世紀半ば、シャム(タイの旧称)のラーマ4世が、自らの王冠を複製したレプリカを、ナポレオン3世に贈ったという史実に着目した(「モンクット」はタイ語で「王冠」を意味する)。映像の前半では、パリのギメ東洋美術館のキュレーターが、ラーマ4世とナポレオン3世それぞれの政治的な思惑と両者のズレについて語る。植民地化を回避するための友好的な外交政策として、また自らの権力を西欧に誇示しようとしたラーマ4世。一方、権力基盤の弱さを克服するため、遠い異国の主権者からの敬意を受けることで、自身の正統性や覇権を示そうとしたナポレオン3世。政治的な駆け引きの象徴となった「王冠のレプリカ」について語る声とともに、映像は、フォンテーヌブロー宮殿の豪華な室内を映し出す。ある若い男が無人の部屋をめぐり、ガラスの戸棚に陳列された「王冠のレプリカ」を見つけると、手持ちの3Dスキャナーで形状を読み取っていく。後半では、このスキャンデータを元に、「複製の複製」の王冠をタイの女性職人がつくる様子が映される。工房の様子や繊細な手作業の手元を映すカメラとともに、ラーマ4世の子孫にあたるという彼女の家系や、家業である伝統舞踊劇の仮面の制作、王冠に用いられる技法についての説明が語られる。また、彼女が制作した「レプリカをさらに複製した王冠」とともに、使用されたパーツや図面、ラーマ4世の外交使節を迎えるナポレオン3世を描いた絵画(複製画)や絵入り新聞も展示された。
ここで、ルンジャーンの手つきは両義的だ。一見するとそれは、東南アジアで唯一植民地支配を免れたシャム王国の威容を再提示する身振りにもとれる。一方で、国家の象徴たる王冠の「レプリカ」をさらに複製する、という二重の複製の手続きは、「オリジナル」から二重に隔たった距離を生み、「文化的アイデンティティの真正性」への疑義を呈する。また、「わざわざレプリカを元に複製する」という行為は、「オリジナル、本物には触れられない」という不可触領域の存在を示唆し、王室への不敬罪があるタイの政治的状況を逆説的に浮かび上がらせるだろう。そうした政治性を内包する一方で、手仕事に従事する女性へのルンジャーンの眼差しは、温かな敬意に満ちている。

2017/11/02(木)(高嶋慈)

プレビュー:岸井戯曲を上演する in OSAKA #0

会期:2017/12/27

阿倍野長屋[大阪府]

劇作家、岸井大輔の戯曲を上演する企画。岸井の戯曲は、台詞やト書のある台本のようなものではなく、インストラクションや命題のようなものの提示や、詩や散文的な文章である点が大きな特徴だ。「岸井戯曲を上演する」という企画は、横浜のblanClassで2016年9月から2017年7月まで、10カ月にわたって行なわれた。毎月、何組かの演劇、美術、ダンス、音楽など異ジャンルの人が同じ戯曲をそれぞれ上演し、終演後に話し合うというもので、「上演する」ことを通して対話の場が生まれることを広く「劇」と捉えた企画であった。
今回の「岸井戯曲を上演する in OSAKA #0」では、関西を拠点とする6人の演出家やダンサーたちが、それぞれ別の戯曲を選び、上演する。伊藤拓也(演出家)、劇団「うんなま(演出:繁澤邦明)」、住吉山実里(ダンサー)、古川友紀(ダンサー)、向坂達矢(演出家、「京都ロマンポップ」主宰)、和田ながら(演出家、「したため」主宰)という顔ぶれも興味深い。会場は、大阪の下町にある古民家、阿倍野長屋。ブラックボックスの劇場でなく、生活空間と地続きの上演空間、複数のジャンルの表現者による上演を通して、「演劇」の条件や拡張、身体と言語の関係について考える機会となってほしい。
公式サイト:https://takutakuf.wixsite.com/kishii-jouen-zero

2017/10/30(月)(高嶋慈)

猿とモルターレ アーカイブ・プロジェクトin大阪

会期:2017/10/28~2017/10/29

FLAG STUDIO[大阪府]

『猿とモルターレ』(演出・振付:砂連尾理)は、「身体を通じて震災の記憶に触れ、継承するプロジェクト」として、公演場所ごとに市民とのワークショップを通じて制作されるパフォーマンス作品。2013年の北九州、2015年の仙台公演を経て、2017年3月に大阪で上演された(大阪公演の詳細は、以下のレビューをご覧いただきたい)。
筆者は、今回の「アーカイブ・プロジェクトin大阪」の第1日目に参加。3月の大阪公演の記録映像を皆で鑑賞したのち、作品の感想や「継承」について参加者同士の対話を重視しながら議論を深めていく「てつがくカフェ」が開催された。一般的に、公演からそれほど間を空けずに記録上映会が行なわれることは少ない。もちろん「生の舞台」の体験は何ものにも代えがたいが、舞台の記録映像はあくまで補完的な役割であって、記録以上の積極的な意味が付与されることは少ないと言えるだろう。今回の企画の優れた点は、単なる記録映像の上映で終わらず、「てつがくカフェ」とセットで開催されたことだ。舞台を見た直後であれば、「このシーンに感動した」「あのシーンの意味は何か」というように感想や意見が作品内部に収束しがちだ。しかし、映像の場合、良い意味で距離を置いて客観的に見ることができ、さらに対話の場を通して、作品の外縁にある問題へと意識を向け、観客が主体的に考えるきっかけが開かれる。
また、記録映像の撮影と編集を担当した、映像作家の小森はるかの功績も大きい。小森の映像編集の優れた点は、舞台を見ている時の感覚に近いことだ。アップやカット割りを多用した場合、視覚的効果は増すが、「舞台上で実際に流れていた時間の持続性」が絶ち切られて削がれてしまい、「映像を見ている」感覚が増幅する。しかし小森は、基本的には引き気味の固定カメラで撮影した映像を、時間の持続性を寸断せずに要所でカット割りを挟むため、時間の流れに身を委ねながら見ることができる。かつ、袖や舞台奥から撮影した映像を挿入するなど、客席からは不可能なアングルも時折差し挟まれ、空間的な把握が補強される。舞台芸術と記録映像、アーカイブのあり方はさまざまに議論されているが、今回のように映像作家と協同する方法は、「記録映像」のあり方や質について考える際に有効なのではないだろうか。

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砂連尾理『猿とモルターレ』|高嶋慈:artscape レビュー

2017/10/28(土)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 池田亮司×Eklekto『music for percussion』

会期:2017/10/24

ロームシアター京都 サウスホール[京都府]

KYOTO EXPERIMENTには4度目の登場となる池田亮司。過去3回の参加では、巨大スクリーンで電子音と映像が饗宴するオーディオビジュアル作品の上演や、過去約15年分のコンサートピースの一挙上演などが行なわれてきた。これまでの電子音楽やデジタル技術の駆使とは打って変わり、今回は、スイスのジュネーヴの打楽器アンサンブル「Eklekto」を起用。4人のパーカッション奏者による「完全アコースティック」なコンサートが発表された。
4部構成の本作は、それぞれ2人のパーカッショニストによる手拍子、トライアングル、アンティークシンバルをバイオリンの弓で演奏する楽曲が続いたのち、ラストでは4人の奏者がフォーメーションを変えながら計12台のシンバルを演奏する。いずれの楽曲も、ミニマルで規則的なリズムの反復と微細な変化が、完全な同期とわずかな差異とのあいだを往還し、ズレの増幅が複雑なパターンを出現させていく。あるいは、可聴域に届くか届かないかの超高音が、極めて繊細にコントロールされた手つきによって発せられる。アコースティックながらも、電子音楽を聴いているような聴覚体験。数学的に統制された、入力→出力の完全な制御。それは、「生身の奏者による楽器演奏をコンピュータのように精密にプログラムできるのか」という実験であり、ここで露呈しているのは、あるプログラムの正確な実行を入力された身体のふるまいであり、すなわち「振付」の問題へと接近する。音楽からエモーショナルな要素を削ぎ落とすことで、パーカッショニストたちは、池田によって厳密に振付られた身体のふるまいを「楽器の演奏」というかたちで遂行していた。


池田亮司×Eklekto『music for percussion』2017 ロームシアター京都 撮影:浅野豪

公式サイト:https://kyoto-ex.jp

2017/10/24(火)(高嶋慈)

KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2017 パク・ミンヒ『歌曲(ガゴク)失格:部屋 5↻』

会期:2017/10/20~2017/10/29

京都芸術センター[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2017の個人的ベスト。昇天しそうなほど美しい声の重層的な唱和で、全身感覚的に揺さぶりながらも、構成は極めて理知的で、「舞台芸術の上演形式」、「観客=消費者としての権利」、「伝統文化・異文化とエキゾティシズム」への批評を内在させた優れた作品だった。
パク・ミンヒは、韓国の無形文化財である伝統的唱和法「ガゴク(歌曲)」を習得した歌い手。本作で観客は、パフォーマーのいる小さな部屋を順に巡りながら、1対1の親密な関係に置かれて鑑賞する。最初に足を踏み入れる「0」の部屋は無人だが、壁の向こうから複数の「声」の奏でる旋律が、高く低く、さらに高みから舞い下りて重層的に絡み合って響き、全身を音に包まれる。山から谷底に吹き下ろしてはまた空へ舞い上がる風のような、その風に触れて波紋を震わせながら流れ去っていく水の流れのような、幽玄にたゆたう女声のあいだを縫って、太い男声によるパンソリ(物語性のある歌と打楽器の演奏による伝統的な民俗芸能)の語りが聴こえてくる。平行的に進みながらも調和した声の重なり合い。そして束の間の沈黙。「0」の部屋は、ある流れの中に身を委ねるために身体を馴らす準備の部屋だ。そして、続く「1」から「5」までの部屋では、観客は用意された椅子に座り、声の振動や息遣いさえ感じ取れるほどの極めて近い距離で、それぞれのパフォーマーと1対1で向かい合う。
それは、体験としての圧倒的で濃密な強度に加えて、近代的な劇場制度における「受容」の問題への再考を含み、「共同体」という幻想を解体する。観客を1対多数の匿名性に置くのではなく、「個」として尊重して扱うことで、観客もまた「個」として対峙する緊張感とともに、目の前のパフォーマーへの「敬意」が促される。「伝統文化」による「近代化された上演形式」への批評は、「ガゴク」がグローバルな市場でエキゾティックな記号(「商品」の差異化のための記号)として消費されることへの抵抗という意義を持つ。
さらに、本作の秀逸な戦略は、瞑想的なまでの音響の心地良さと反比例するかのように、「鑑賞形態」の居心地の悪さを観客に突きつける点にある。それは各部屋でのパフォーマーとの対面関係に現われている。「1」の部屋ではパフォーマーは観客のすぐ背後に座り、「2」と「5」の部屋では隣り合って座るも、身体の向きが逆方向にセッティングされているため、パフォーマーと視線が合うことはない。また、「4」の部屋のみ、女性パフォーマーが「2人」いるのだが、彼女たちは無言でこちらを見つめ返してくるだけだ。つまり観客は徹底して非対照の関係に置かれるとともに、自らの「観客性」を自覚させられることになる。金銭的な対価を支払った代わりに「個室」でサービスを受けること、「4分間」という時間の規定を過ぎると合図が鳴り、部屋を移動しなければならないというシステム化された管理。それは、風俗店のサービスを想起させ、金銭と引き換えに観客が手にする「権利」のきわどさがそこで露呈するのだ。
私たちはその「権利」を自覚させられつつ、歓待される「客人」として完全には迎え入れられず、うっかり紛れ込んだ決まり悪い「闖入者」のように遇され、あるいは隔てられた壁越しに聴くしかない(無人の部屋は最後にもう一度用意されている)。部屋を移り変わりながら通奏低音として響くのは、「あなたはガゴクを所有できない」というメタメッセージである(一時的な通過者としては許されるが、所有者ではない)。音響世界の圧倒的な魅力、空間の移動がもたらす知覚の繊細な変容とともに、本作は、単に心地良いだけの耽溺を許さない内省的な態度を求めてくる。「ガゴク」という他者の文化の「遠さ」に対してどう向き合うことができるのか、その接近をめぐる逡巡さえも体感させる秀作だった。


パク・ミンヒ『歌曲(ガゴク)失格:部屋5↻』(2017) 京都芸術センター 撮影:井上嘉和

公式サイト:https://kyoto-ex.jp

2017/10/22(日)(高嶋慈)

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