2018年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

むらたちひろ「internal works / 境界の渉り」

会期:2018/06/15~2018/07/01

Gallery PARC[京都府]

「染める」と「染まる」。他動詞と自動詞。技法と物理的現象。制御可能な操作的行為と、水の浸透、重力、染料の化学分子、湿度や温度、布の材質などの自然的要件。そのはざまで「染色」の可能性を探求してきた作家、むらたちひろ。本展ではとりわけ、透明感あふれる色彩の美しさのなかに、「境界(線)」をめぐる視覚的考察が目を引いた。

ハト目を施された布が、一見するとカラー・フィールド・ペインティングのような単純かつ美しい色彩構成で染められた《境界 borders/boundaries》は、三色旗のような3つの色の帯や丸、三角形のかたちが(架空の)国旗を思わせる。だが近づくと、異なる色同士の境界は曖昧に滲み、上から染めた色が下の色を浸食し、溶け合い、第三の新たな色の領域が生まれていることが分かる。「国旗」という集団をグラフィカルに象徴する装置を擬態しつつも、その内部では境界線は緩やかに溶け合い、グラデーションとして裏切っていく。また、布の下2/3を鮮やかなブルーに染め、上1/3を淡い水色で染めた《nothing》は、青い海と空が広がる光景を思わせる。だが、海と空が交わるところの「水平線」もまた、物理的には存在せず、私たちの認識が描く架空の線に過ぎない。《nothing》の周囲を取り囲む《ひろがるまる》では、染料が布に染み込んでいく拡がりと、糊による防染が「抵抗」として色の浸透を押しとどめる様相が同時に提示される。浸透を押しとどめる「抵抗」、そこで布の地と色面を切り分け、鋭利に引かれる直線。引かれた境界線をそれでも越え出ようとするわずかな滲み。「布」の内部で起こっている現象をシンプルに見せつつ、豊かな暗示を含み込む点に、むらた作品の優れた魅力がある。


[撮影:Mugyuda Hyogo 画像提供:Gallery PARC]


[撮影:Mugyuda Hyogo 画像提供:Gallery PARC]

2018/06/30(土)(高嶋慈)

新宅加奈子「I'm still alive」

会期:2018/06/26~2018/07/01

KUNST ARZT[京都府]

背中、肩、腕、胸、顔や髪の毛に至るまで、裸の全身に極彩色の絵具をまとった写真が並んでいる。接写された皮膚の表面は、たった今流れた鮮血のようにテラテラと光り、あるいは乾いて凝固し、爬虫類の皮や鱗をまとったかのような複雑な肌理を獲得している。上半身をフレーム内に収めた写真では、胎児のように丸めた背中に腕を回し、自らの身体を抱きしめるようなポーズが取られている。新宅加奈子は、自身の裸に絵具をまとう行為を作品化する作家であり、自分が「今ここにいる」現実感が希薄化してしまう恐怖を取り除き、生の実感を取り戻すための「儀式」として行なっているのだという。会場では、写真作品の展示に加え、毎日約4時間、裸身に絵具をまとい続けるパフォーマンスが行なわれた。日が経つにつれ、床には身体から滴り落ちた絵具が堆積し、作家が不在の時間帯は、椅子の座面や絵具の上に残された足跡が、身体がそこにあった痕跡を物語る。

新宅の作品は、美術史的にはボディ・アートの文脈に接続可能であるとともに、「身体表面に絵具をまとう」行為を全身へと拡張させることで、自らの身体をメディウムに、絵画/彫刻という制度的な弁別を撹乱ないし無効化させる行為であるとも言える。だが、「I'm still alive」というタイトル(生存証明としてこの文言の電報を作品化した河原温を想起させる)が示すように、生の実感や実存の切実な回復、とりわけ外界との界面である皮膚と物質との接触を通じた儀式的行為という点で想起されたのは、塩田千春の初期作品《Bathroom》(1999)である。これは、浴槽に浸かった塩田が泥で身体を洗い流し続けるパフォーマンスを記録した映像作品である。汚れを洗い流し、清めようとする行為それ自体が汚濁を増幅するというジレンマが提示され、行為の反復が、洗い流す/汚すという正反対の行為の決定不可能性を強調する。

一方、数時間に及ぶ新宅のパフォーマンスにおいては、行為の反復性よりも、濡れて乾くまでの「時間的持続」が重要な要素なのではないか。生の実感を回復させるために身体表面に塗られる絵具は、おそらく、自傷行為で流れる鮮血の代替物である。何かに耐えるように、うずくまった姿勢で座り続ける新宅の身体の表面では、擬似的に開かれた傷口から流れ出た鮮血=絵具が滴り落ち、色が混ざり合い、ゆっくりと乾き、ひび割れながら、かさぶた=傷口を覆って外界から保護する被膜としてのもう一つの「皮膚」を形成していくのだ。傷口から流出した血がやがて身を守る外殻へと変成すること。その時間の持続に耐えること。彼女のパフォーマンスを見る私たち観客も、性別や人種、生物の種さえも超えたような「新たな皮膚」の生成過程に、痛みの感覚とともに立ち会うのだ。


2018/06/30(土)(高嶋慈)

片山達貴「voice training」

会期:2018/06/19~2018/06/30

The Third Gallery Aya[大阪府]

「アァー…」「エー…」「ウァー…」という引き伸ばされた母音が、二重に重なり合いながら響く。2面プロジェクションの映像ではそれぞれ、互いの口や鼻、喉を指で触り、相手の発声を操作しようとする2人の男性の姿が映される。唇を横や上下に引っ張る、丸くすぼめさせる、鼻をつまむ、喉に接触する。相手からの干渉を受けるたびに、母音の音が変化し、あるいはくぐもった声となる。片山達貴の映像作品《ボイストレーニング_1》では、互いの発生器官に介入し、こねくり回し、身体に外側から力を加えて声を変化させることで、「声」が可塑的なものであることが音響的に示される。


片山達貴《ボイストレーニング_1》 2018


片山によれば、本作の制作に至る経緯として、結婚相手の母親が中国残留孤児2世(ネイティブの中国語話者/日本語は第二言語として成人後に習得)であり、意思疎通をはかるために、彼女と行なった中国語の発音練習を記録した映像作品《口づくり》があるという。差し向かいで発音練習をひたすら繰り返す行為は、自身の母語と向き合うきっかけになり、「自分の口は母語によって形づくられ、母語に制限されている」感覚が芽生えた。そこから、「自分の声はどこまで自分だけのものと言えるのか」という疑問が派生し、外部からの影響/自らの意志がせめぎ合うあわいを探ろうと、本作を制作したという。

「新しく家族になる人とのコミュニケーションをはかる」というポジティブな目的で始められた《口づくり》とは異なり、《ボイストレーニング_1》では、性差、年齢差、異言語の話者であること、「教える-模倣する」といった2者間のさまざまな差異はフラットに均され、声に介入し変化させる加圧的な「外側からの力」が何であるのかは、曖昧にぼかされている。ゆえに、見る者はそこにさまざまな「力」の発露を想像することが可能だろう。それは、ジェンダーや社会的立場など、日常的に私たちの身体的ふるまいを規定する社会的な関係性であり、「訛りの矯正」「正しい発音」「標準語」といった、教育やマスメディアを通して「国民の身体」として統制・均質化しようとする力である。あるいは、もしこの2人が異言語話者であった場合(例えば、日本語話者と韓国・朝鮮語話者であった場合)、「支配的言語の強制」「母語の剥奪」といった植民地的暴力を想像することも可能だろう。本作は、「_1」と銘打たれているように、パフォーマーを変えてシリーズ化が構想されているという。シリーズ化を通して、テーマの発展とより深い掘り下げに期待したい。

2018/06/23(土)(高嶋慈)

九条劇『ウリハラボジ』

会期:2018/06/16~2018/06/17

Books×Coffee Sol.[京都府]

浜辺ふうによるソロの演劇ユニット「九条劇」の第一回公演。在日コリアンが多く住む京都の東九条で生まれ育ち、日本人だが幼いころから朝鮮半島の文化に囲まれて暮らしてきた浜辺自身の自伝的な語りが、愚直なまでにストレートかつパワフルな一人芝居として上演された。本作の根底にあるのは、「家族」と「アイデンティティ」という大きな2つのテーマだ。タイトルの「ウリハラボジ」は、朝鮮語で「うちのおじいちゃん」という意味で、1987年に初演された同名のマダン劇(朝鮮半島の伝統的な仮面劇の要素を取り入れた演劇形式)の作品タイトルでもある。在日一世である「おじいちゃん」の語りを通して、孫が歴史と自身のルーツを知っていくという内容だ。

一方、今回の浜辺版の「ウリハラボジ」では、幼い頃から可愛がってくれた「自慢の祖父」が、「最も近しい他者」として立ちはだかる。幼少期より多文化共生教育の環境で育ち、朝鮮半島の打楽器「チャンゴ」を習い、在日コリアンが多く通う中学校で在日の歴史についての授業を受けて憤り、「正しい歴史を学んで正しい日本人になろう」と決意した正義感の強い子供だった「私」。だが、親友が高校進学を機に日本に帰化すると知り、「本名で暮らせる社会にしようと願ってたのに」とショックを受ける。民族やアイデンティティの問題について葛藤を抱えるなか、祖父が何気なく発した差別的な言葉。それは「私」の心に修復不可能な傷を残し、大好きだった祖父に隔たりを感じながら生きることになる。韓国留学を経て、祖父の介護とともに同居生活が始まるが、根本的な和解に至る対話関係を築けないまま、祖父は亡くなった。チャンゴやパンソリの披露とともに、浜辺演じる「私」がラストで一気に心情を吐露するシーンは圧巻だ。「祖父の言葉になぜあんなに傷ついたのか。友人じゃなくて、私のアイデンティティが傷つけられたんだと分かった」「チャンゴのリズム、パンソリのこぶし、朝鮮半島の文化は私の身体に染みついている」「私はこんな人間だと、大事なことを祖父に伝えられなかった。許してあげられなくてごめん」「親友に対して、彼女のアイデンティティは『在日』だと決めつけていた。何を大切にするかはその人自身が決める。他人に証明する必要はない」。

ここで、差別的な言葉を発した「祖父」=「最も近しい他者としての家族」は、内なる他者すなわち無意識に差別を内面化している存在として読むことができるだろう。そうした内に抱え込む他者とどう向き合うのか。パワフルな身体パフォーマンスの力とともに、真摯に取り組んだ浜辺の「九条劇」が、自伝的要素の強い語りの昇華を経て、これからどう深化していくのか、非常に楽しみだ。


[撮影:中山和弘]

2018/06/17(日)(高嶋慈)

岸田良子展「TARTANS」

会期:2018/06/12~2018/06/23

galerie 16[京都府]

岸田良子が2010年から手がけている「TARTANS」シリーズの第8弾。1968年に刊行された書籍『THE CLANS AND TARTANS OF SCOTLAND』に掲載されたタータンチェックの写真を元に、80号のキャンバスに拡大して描いた絵画作品である。それぞれの絵画には、「LINDSAY」「MACINTOSH」など、タータンチェックの名前がタイトルに冠されている。筆を使わずに、ペインティングナイフとマスキングテープを用いて制作されているため、遠目には均質でフラットな表面は巨大な布地を貼り付けたように見えるが、近寄って見ると、地色(赤)の上に交差する縦/横の色の帯(緑、赤褐色)が、ごく薄く盛り上がった絵具の層を形成している。編まれた織物を表面的には擬態するが、「筆触」はないものの、絵具の物質的な層の形成が「絵画であること」を宣言する。そのグリッド構造は、厳格な幾何学的抽象絵画を思わせ、モダニズム絵画の規範を擬態するかのようだ。また細部を見れば、拡大された「織り目」は「斜線の交差」として描かれ、オプ・アート的な錯視効果を生み出す。あるいは、布地の表面を「絵画」として描く、すなわち三次元の物体を二次元に変換するのではなく、二次元の平面を二次元として描くトートロジカルな態度は、ジャスパー・ジョーンズの国旗や標的を描いた絵画作品を想起させる。このように岸田の「TARTANS」シリーズは、複数の絵画史的記憶を重ね合わせつつ、「写真」(複製、コピー)、「テキスタイル」(絵画の制度から捨象された手工芸の領域)といった諸要素のミクスチャーでもって、「絵画」に(再)接合しようとしていると言えるだろう。


会場風景

また本展では、約40年前に発表された《A・B・C スター絵本》(1979)も合わせて展示された。これは、往年の映画俳優などの「スター」のブロマイドを、名前のアルファベット毎に1人選び、同じ写真で全ページを構成した1冊の「本」に仕立てた作品だ(ただし「X」の本のみ該当者がなく、白紙である)。本の写真図版を元に絵画化した「TARTANS」とは逆に、ブロマイド写真から本を制作したという反対のベクトルだが、既存の情報の収集、引用、所属する文脈からの切断、(再)秩序化、抽象(絵画)化といったプロセスに対する一貫した関心や連続性が感じられる展示構成だった。


《A・B・C スター絵本》1979

2018/06/17(日)(高嶋慈)

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