2019年03月15日号
次回4月3日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

林勇気「times」

会期:2018/11/17~2018/12/01

ギャラリーほそかわ[大阪府]

自身で撮影した、あるいはインターネット上で収集した膨大な量の画像を切り貼りしたアニメーション映像を制作し、記憶(の断片化)、デジタル画像の共有と流通、消費について、時に宇宙の誕生から消滅を思わせる壮大な映像世界で言及してきた林勇気。近年は、プロジェクターや再生機の存在自体を作品に取り込む、デジタルデータとしての映像をピクセルの数値に還元するなど、映像メディアの成立条件に対して自己言及する作品に取り組んでいる。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

本展もこの流れに位置するものであり、同時期にFLAG studioで開催された個展「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」とともに、「デジタルデータのアーカイブ」に焦点が当てられている。作品の素材として用いられたのは、2005年にYouTubeに初めて投稿された動画「Me at the zoo」である。YouTubeの創設者の1人が投稿した、わずか19秒の映像であり、動物園の象の前でコメントする映像だ。だが林は、この映像をピクセルに分割し、それぞれの色情報を3桁×3段の数字で数値化し、視認不可能な膨大な数値が目まぐるしく移り変わる、暗号の波のような映像に変換して映し出した。また、数値化されたデータは、紙、石、金属という伝統的な記録媒体に刻印された形でも提示された。デジタルデータはどのように保存され、未来へと継承可能なのか。ここには、「ポストメディウム」というよりは、メディウムなき非実体的なデータとなって憑依し続ける状況が差し出されている。さらには、「私たちは何を見ているのか?」という知覚論的な問いも横たわっていた。



林勇気「times」 ギャラリーほそかわでの展示風景 [撮影:麥生田兵吾]

関連レビュー

林勇気「遠くを見る方法と平行する時間の流れ」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/12/01(土)(高嶋慈)

MuDA『立ち上がり続けること』

会期:2018/11/23~2018/11/25

京都芸術センター[京都府]

ダンサー、演出家のQUICKを中心に、2010年に京都で活動開始したパフォーマンスグループ、MuDA。これまでは野外やギャラリーの跡地など非劇場空間で、剥き出しの物質を配置したなかで肉体の衝突を繰り広げるパフォーマンス作品が特徴だったが、本作では、白い床だけのシンプルな舞台上で、「倒れる」という動作をミニマルにひたすら反復し、肉体と床面を衝突させ続ける過酷なパフォーマンスを行なった。

会場に入ると、プロレスのリングを思わせる白い正方形の床が観客と対峙する(「スタンディング」の鑑賞エリアも設けられている)。ほの暗い照明のなかで登場し、観客と相対したかと思うと、突如、前のめりに床に倒れ込むQUICK。激しい衝撃音。もがくように膝や足先を床に何度も打ち付け、のたうち回り、やっと立ち上がったかと思うと、再び激しく床に倒れ込む。その反復。舞台中央のQUICKを挟むように男女2人のパフォーマーも登場、同様の行為を反復し、衝突の衝撃が二重、三重に増幅されていく。彼らは立ち上がろうともがき苦しんでいるのか、それとも「立つ」ことに抗い続けているのか。外側から身体に加えられる暴力的な圧力なのか、あるいは体内で渦巻くエネルギーの内的状態が噴出しているのか。身体を制御しようとする苦しみなのか、それとも身体の制御への抵抗なのか。目の前でひたすら続く行為を見ているうちに、意味への求心ではなく、意味の決定を拒む両義的な隔たりが開けていく。山中透によるアンビエントなノイズサウンドが宗教的な儀式性を付加し、仏教徒が行なう「五体投地」のようにも見えてくる。



[撮影:井上嘉和]

「倒れ、腹ばいでもがき、立ち上がってはまた倒れる」動作の繰り返しは10分以上も続いただろうか。彼らの動作は少し変化し、「両足を大きく開いて立ち、ヘッドバンキングのように頭を振り回し、倒れる」動作を繰り返すようになった。衝突音に混じって、雄叫びのような唸り声も発される。この第2フェーズを10分ほど繰り返した後、「腕を大きく回してから倒れる」第3フェーズに至った。動きのペースは落ちないが、彼らの身体には疲労の色が次第に滲んでくる。音楽はいつしか止み、無音の静寂のなかに、ひたすら肉と物質のぶつかる音と荒い息づかいが響く。次第に照明は暗くなり、闇に包まれてもなお、衝突の音は響き渡り続けた。



[撮影:井上嘉和]

ここには一切のドラマが用意されていない。「身体的な負荷をかけ続けることで逆説的に輝き出す身体」とか、「倒れても倒れても立ち上がろうとする生命の力強さ」といったストーリーがないのだ。スポーツ観戦に「感動する」回路や「災害から立ち上がる人間の強さ」といった物語に回収されることを拒んでいる。彼らが床に我が身を打ち続ける過酷なパフォーマンスは、「身体」がそうした(資本や国家の)物語へと回収され、搾取されることへの「抵抗」としてなされたのではなかったか。

2018/11/23(金)(高嶋慈)

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?─森村泰昌のもうひとつの1980年代─

会期:2018/11/03~2019/01/27

モリムラ@ミュージアム[大阪府]

大阪の北加賀屋にオープンした、森村泰昌の美術館「モリムラ@ミュージアム」の開館記念展。北加賀屋はかつて造船業で栄えた地域だが、近年は元造船所の広い空間や敷地を活かした展示や舞台公演の開催、アーティストの活動拠点化など、アートによる活性化が進む。森村は、家具店のショールームだった築40年の建物をリノベーションし、フロア面積400㎡の美術館として生まれ変わらせた。

外観は平凡な事務所だが、2つのホワイトキューブの展示室に加え、本格的な座席を備えたミニシアター、開放感のあるライブラリー、グッズや書籍を揃えたミュージアムショップを有し、美術館としての機能をコンパクトに備えている。古い商店のガラス戸や森村の実家の茶屋で使用されていた茶箱が什器として使われるなど、新旧が同居する空間だ。

本展の1室では、森村が扮装のセルフポートレート作品を制作するようになってから初めての個展「菫色のモナムール、其の他」(1986年、大阪のギャラリー白)を再現した。ロダンの彫刻に扮した、身体性の強い作品が並ぶ。またもう一室では、出世作となった《肖像(ゴッホ)》(1985/89)に加え、マネの描いたベルト・モリゾ、伝説的ダンサーのニジンスキー、道路標識(!)に扮したセルフポートレート作品が展示された。巨大な《男の誕生》は、ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》に倣い、画廊主や同世代の作家3名と共演した珍しい作品だ。これらのカラー写真作品とともに、80年代前半に手がけた作品(カトラリーや卓上のオブジェを構成主義風に写したモノクロ写真、抽象的なシルクスクリーン作品、デザイナーとして手掛けた美術館のポスターなど)が並び、「スタイル」を確立するまでの模索時期/確立初期の作品群が一堂に会している。

「80年代」が森村にとっては多様な方向性を試す模索時期であったとともに、ロダンの男性像やニジンスキーといった対象の選択には、「身体性」への関心もうかがえる。森村自身は、ミニシアターで上映された《モリムラガタリ・80’s》で、むしろ時代の雰囲気から齟齬やズレを感じていたこと、80年代に作った作品だがアンチ80年代であると語っている。だが、例えばニジンスキーに扮した彼が、金色に塗られた「コンバースのハイカットシューズ」を履くといった身振りのなかに、80年代における消費社会の到来や個人の嗜好のブランド化に対する批評性を見てとることができる。

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ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/11/11(日)(高嶋慈)

ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代

会期:2018/11/03~2019/01/20

国立国際美術館[大阪府]

「80年代」にフォーカスを当てた企画が目につく今秋。金沢21世紀美術館を皮切りに巡回中の「起点としての80年代」展が作家数を絞ってテーマ別の構成を取ったのに対して、本展ではクロノロジカルに65名を見せるという総花的な構成となっている。「1980~81年」「1982~83年」というように2年ごとに区切り、制作年の順に作品を並べ、各セクションの頭には、例えばバブル景気、航空機事故、昭和天皇の崩御などメルクマールとなる出来事や社会現象を解説するパネルが掲げられる。だが、出品作は大半が絵画や具象的な彫刻であり、社会への直接的な言及や批評性は薄い。むしろ乖離や解説パネルの必然性への疑問を感じざるをえない。また、「制作年への準拠」に加え、基本的に「1作家1作品主義」であり、単調な見本帳のように均されていく印象を受けた。絵画画面の大型化、ペインタリーな筆触の強調、色彩性や触覚性、装飾性、レリーフ、キッチュ、引用や表象との戯れ(横尾忠則、中原浩大、森村泰昌、福田美蘭)といった共通項はうかがえるが、「80年代の時代の雰囲気」を伝えたいなら、商業的なイラストレーターや広告表現(「おいしい生活」)といった視覚文化を入れるべきだったのではないか。

ここで改めて展覧会タイトルに目を向けると、奇妙な欠落感に気づく。「ニュー・ウェイブ」から「関西」が消去されているのだ。だが、80年代の日本現代美術を歴史化するにあたり、いわゆる「関西ニュー・ウェイブ」の検証は避けては通れないだろう。作家ごとの解説パネルには、例えば「フジヤマゲイシャ」展という言葉だけが登場するのみであり、その中身や意義について踏み込んだ検証はなされない。メルクマール的な展覧会を「再現」し(現存しない作品は再制作もしくは資料で補い)、実作品と当時の言説の両面から検証するなど方法はあった。歴史化=羅列された年表化ではない。美術館の仕事は、微妙な「平等」主義や政治的「配慮」ではなく、議論の端緒を開くような斬新な視点と強固な枠組みの提示にあるのではないか。そこから、(賛同であれ批判であれ)見る者の思考が再起動するのだ。

関連レビュー

君は『菫色のモナムール、其の他』を見たか?森村泰昌のもうひとつの1980年代|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/11/03(土)(高嶋慈)

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プレビュー:マーク・テ+YCAM共同企画展 呼吸する地図たち

会期:2018/12/15~2019/03/03

山口情報芸術センター[YCAM][山口県]

マレーシアを拠点とする演出家、リサーチャーのマーク・テを共同キュレーターに迎えた展覧会。マーク・テは、演劇作家、映画監督、アクティビストらが集うマレーシアのアーティスト・コレクティブ「ファイブ・アーツ・センター」のメンバーでもある。日本ではこれまで、TPAM──国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2016とKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNで『Baling』を、シアターコモンズ ’18では『バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章』を上演。レクチャー・パフォーマンスの形式でドキュメント資料や出演者自身の個人史を織り交ぜながら、マレーシアの近現代史を複眼的に検証する気鋭のアーティストだ。

本展では、東南アジアと日本のアーティストやリサーチャーが、各国の歴史、文化、政治、経済、日常生活などを独自の視点でリサーチし、自らの言葉で語りかけるレクチャーやレクチャー・パフォーマンス作品が、12週にわたって主に毎週末に開催される。以下、その一部を紹介する。

シンガポールのアーティスト、ホー・ルイアンは、TPAM 2016や「サンシャワー : 東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで」展で発表した《Solar: A Meltdown》が記憶に新しい。このレクチャー・パフォーマンスでは、アジアやアフリカなどに赴いた植民地主義時代の欧米人が、熱帯の太陽がもたらす「汗」を徹底して隠蔽したこと、その背後には「団扇で涼を送る」現地労働者と家庭の清潔さを保つ女性たちの労働があったことが指摘される。本展での上演作品《アジア・ザ・アンミラキュラス》では、1997年のアジア通貨危機を出発点に、ポップカルチャーにおけるアジア経済の未来主義の出現、発信、流通をたどるという。また、シンガポールの歴史学者のファリッシュ・ヌールは、200 年前の地図に焦点を当て、英領ジャワにおける植民地時代の地図製作の役割や地図と権力の関係を紐解く。ジャカルタを拠点とするイルワン・アーメット&ティタ・サリナは、東南アジアの海上交通の要衝、マラッカ海峡における国境の支配に対し、密輸、転覆工作、宣誓といった行為からヒントを得て、シンガポールの国境を通過するための8つの方法を提案する。一方、演出家の高山明は、国籍という概念を超えて暮らす海上生活者から着想し、移動性、越境、侵入、ハッキングなどの視点から参加者とリサーチを行なうワークショップ「海賊スタディ」を実施する。また、キュレーターの小原真史は、1903年に大阪で開かれた第五回内国勧業博覧会で「人間の展示」が行なわれた人類館と新たに発見された写真を中心に、近代日本の自己像と他者像について考察する。

シアターコモンズ ’18や来年開催されるシアターコモンズ ’19がレクチャー・パフォーマンスに焦点を当てているように、従来の舞台公演とは異なるこの形式も浸透しつつある。社会批評や表象分析、歴史研究といった硬派な主題のなかに、映像や身体性、アーティストならではの新鮮な視点や想像力の契機を持ち込むことで、見る観客の能動的な思考が促される。また、マーク・テ自身もそうだが、アーティスト、研究者、演出家、キュレーターといった職能的なカテゴリー区分を流動化させていく側面も持つだろう。

さらに本展では、これらに関連した映像インスタレーションやドキュメンテーションも上映される。カルロス・セルドランは、スペインとアメリカの統治、日本軍の占領、戦後政権の復興などさまざまな歴史的事象によって上書きされてきたマニラの史跡についてのパフォーマンス・ツアーの映像を上映する。ヴァンディ・ラッタナーは、カンボジアのクメール・ルージュ政権下で亡くなった姉に向けて語るヴィデオ・インスタレーション『独白』を上映する。やんツーは、自らがロードバイクで移動して集めた地形データからフォントを生成するソフトウェアを自作。VRを使った主観視点で、山口の地形からフォントが生成される過程を追体験できる作品を展示する。3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)は、市民、専門家、アーティスト、スタッフが協働し、復興のプロセスを独自に記録したアーカイブを活用した展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」より、小森はるか+瀬尾夏美、鈴尾啓太、藤井光の3つの映像作品を抜粋して展示する。

このように本展は極めて多様な切り口から構成されるが、植民地支配から現代に至るまで、金融、移民、翻訳などさまざまな交通と地政学的なポリティックスを再検証し、国境によって分断化・固定された静的な地図ではなく、多中心的で有機的、動的なネットワークとしての「地図」がどう構築されていくのか。毎週末、山口に通いたくなる充実したプログラムに期待がふくらむ。

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SPIELART マーク・テ『VERSION 2020 - THE COMPLETE FUTURES OF MALAYSIA CHAPTER 3』|山﨑健太:artscapeレビュー

シアターコモンズ ’18 マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター「バージョン2020:マレーシアの未来完成図、第3章」|高嶋慈:artscapeレビュー

2018/10/30(火)(高嶋慈)

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