2018年09月15日号
次回10月1日更新予定

artscapeレビュー

高嶋慈のレビュー/プレビュー

ゴットを、信じる方法。

会期:2018/05/19~2018/06/03

ARTZONE[京都府]

メディア・アートと技術的更新、ネット感覚に対する世代間の差異、「オリジナル」の物理的復元/(再)解釈行為の振幅で揺れる「再制作」、キュレーションにおける作家性の代行など、多岐にわたる問題を含むプロブレマティックな企画。アーティスト・ユニット、エキソニモが制作したメディア・アート作品《ゴットは、存在する。》(2009-、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]「オープン・スペース2009」展)を、約10年後に、「ゴットを信じる会」という匿名的集団が再制作し、「ゴット」の存在の検証を試みるというのが本展の枠組みである。

展示構成は、3つのパートから成る。1)導入部として、展覧会開催までのプロセスの紹介。NY在住のエキソニモに代わり、京都造形芸術大学の学生によって結成された「ゴットを信じる会」が再制作を行ない、かつ旧作を当時のまま再現するのではなく、約10年間のメディア環境の変化を踏まえて再制作することに決まった経緯などが示される。2)《ゴットは、存在する。》の展示記録や関係者の証言を集めたアーカイブ空間。作品の発表当時、10代前半だった「ゴットを信じる会」メンバーは同作を実見しておらず、再制作にあたり、展示記録や関係者へのインタビューを収集した。同作の展示に関わった2人の学芸員(ICCの畠中実、「世界制作の方法」展[2011]を企画した国立国際美術館の中井康之)と、2人のメディア・アーティスト(渡邉朋也、谷口暁彦)の話からは、ニコニコ動画やTwitter、セカンド・ライフのアバターなど、当時の新しいインターネット感覚に対してエキソニモが敏感に反応して作品化したことが分かる。


会場風景 [撮影:守屋友樹]

ここで作品概要を確認すれば、《ゴットは、存在する。》は、作家によれば「標準的なインターフェイスやデバイス、インターネットのなかに潜む神秘性をあぶり出すことをテーマにした一連のシリーズ」とされており、例えば《祈》は、掌を合わせて祈る形のように光学マウスを重ねることで、ディスプレイのなかのカーソルが微振動を続ける状況を作り出す作品である。《gotexists.com》では、「神」というキーワードでウェブ検索し、検索結果のサイト上に表示された「神」の文字が全て「ゴット」に置換され、《噂》では、同様にTwitter上で「神」の検索結果が「ゴット」に置き換えられたタイムラインが続々と表示されていく(「神奈川県」は「ゴット奈川県」に、「神動画」は「ゴット動画」になるといった具合である)。いずれも、デバイスやシステムのバグやエラーのような状況を装いつつ、人間の操作が介在しないまま、ある種の超自然的な力が顕現したり、「ゴットの存在する世界」がネット空間のなかで自律的に立ち上がる感覚を可視化している。

では、今回の第三者による再制作は、どのようなものなのか。3)再制作の展示パートでは、縦位置の液晶ディスプレイが2枚、対面して置かれ、片側ではGoogleリキャプチャの画像認証の画面が表示されている(グリッド状に表示されたさまざまな画像から、「ゴットの画像」を全て選択するよう要請される)。この画像認証は、迷惑メールの自動送信を防ぐため、送信者がロボットでないかを確認するために用いられるものだ。そして、もう一方のディスプレイでは、「私は、ゴットではない。」という一文が入力/消去を繰り返している。


ゴットを信じる会《告白》 2018

観客が身体的に触れられない仮想空間内に超越的に「存在」する、一種の霊性を帯びた「ゴット」の出現から、「ゴット」の存在を決定するのは「観客」側の認識の問題であるとする態度表明へ。エキソニモ作品と再制作の間に横たわるのは、こうした転回ないし断絶である。そしてここには、スマホやiPadなど端末の小型化、ネットの常時接続、タッチパネル操作など、マウスやキーボード、カーソルといったインターフェイスを無くして画像と直接接触しているような身体感覚の変化や、「リアル/バーチャル」の二項対立の解消がある。メディア・アートの最良の作品が、単なる技術的反映にとどまらず、技術それ自体への批評を含むとすれば、メディア環境の変化およびそれがもたらす身体感覚を加味して「オリジナル」を大幅に書き換えたこの再制作は、チャレンジングな試みとして、一定の評価に値するだろう。

だが同時に、ここには致命的な欠陥がある。カーソルからタッチパネルへという、画像と地続きに接続された身体感覚を扱うのならば、なぜ液晶ディスプレイではなく、観客が「実際に触れられる」スマホやiPadを使わなかったのか。機材的制約もあったかもしれないが、再制作のコンセプトを、展示形態が裏切ってしまう。さらに、縦位置で展示された液晶ディスプレイは、「窓」の比喩としての絵画を強く想起させる。私の身体はここにありながら、どこか別世界の光景を切り開いて見せてくれる窓=絵画、だがそれはフレームという装置によって境界画定され、私の身体は窓=絵画の開く「向こう側の世界」に触れることはできない―こうした「窓=絵画=液晶ディスプレイ」におけるジレンマは、一度否定された「ゴット」に再び不可侵性と礼拝性を付与してしまうのではないか。

2018/05/19(土)(高嶋慈)

Re/place

会期:2018/05/19~2018/05/20

京都市立芸術大学 芸大ギャラリー[京都府]

京都大学吉田キャンパスの石垣に立て掛けられた「立て看板」(通称タテカン)に対し、大学側が規制を強め、5月13日に撤去されたことが議論の波紋を呼んでいる。立て看板は学生運動が盛んだった1960年代から設置され始め、政治的な主張のアピールのほか、サークルや学生寮の勧誘、演奏会やイベントの告知など、学生がさまざまな声を発信する媒体として根付いていた。しかし、京都市は2017年、屋外広告物を規制する景観条例に反するとして、大学に文書で指導。これを受けて大学側は、承認を受けた団体しか学内の指定場所に立て看板を設置できないとする規定を作成し、今年5月から運用を始め、規定に従わない看板を撤去した。抗議する学生らと大学側の攻防はその後も続いている。

この京都大学による立て看板撤去に対し、京都市立芸術大学の学生有志が美術の側から反応し、学内ギャラリーで「Re/place」展を開催した。それぞれの部やサークル、看板の制作者から立て看板を借り受け、ギャラリー内に展示した。展示された立て看板は、新入部員の勧誘やイベント告知など従来の役割に加え、「立て看板撤去」に対する抗議も多数含まれている。

ここで、展覧会タイトルの「Replace」(置き換える)は示唆的だ。それは、京都大学から京都市立芸術大学へという物理的な場所の移動に加え、路上からギャラリー空間へというコンテクストの置き換えも二重に内包する。視覚的制度であるホワイトキューブへの移動、とりわけ路上空間では存在しなかった「キャプション」がそれぞれの立て看板に付されていたことの意味は大きい。タイトル、制作者、素材を明記する「キャプション」の付記により、元々発信するメッセージに加え、「これらは表現物である(表現物としてここにある)」というメタメッセージが差し出されるからだ。

表現物への規制に対し、「アーティスト」ならば、どう規制の網の目を潜り抜け、制度の虚をつき、表現として成立させるかが問われる。この点で興味深く、展示のなかで異彩を放っていたのが、撤去後の石垣の写真に「透明な立て看板」とキャプションを付けた1点である。これは、2方向へ向けた想像力の回復の試みとして読まれるべきだろう。ここに「透明な立て看板」を立てる抵抗の意思が確固として存在すること。そして、一見「何もない場所」には、目に見えない規制と排除の力が支配的に充満しており、その力が透明化し常態化していることへの警鐘である。 本展は、「立て看板撤去」という(現実にはたらいた)移動の暴力性を一方では想起させつつ、大学側の「管理体制の強化」や表現の規制に対する異議申し立てとして、芸大生が美術の側から声を上げたことの意義は大きい。


会場風景


会場風景

2018/05/19(土)(高嶋慈)

BLIND PIECE PROJECT

会期:2018/05/10~2018/05/11

京都芸術センター ミーティングルーム2[京都府]

通常のダンス公演とワークショップの中間のような感触をもった作品。構想と振付は、パフォーマー、振付家の秋津さやか。事前の告知文や公演前に「ガイド役」のパフォーマーにより、「パフォーマンスのシーンと観客がガイドの合図に従って目を閉じる時間が組み合わさった観客参加型の作品」であること、ダンサーと観客の身体的な接触があることが告げられる。

公演会場は元小学校の教室であり広くはなく、観客も定員15名と数が絞られ、親密な演出設計が図られる。正方形に並べられた椅子に観客が座ると、ダンサーが同じ客席から現われ、椅子に囲まれたスクエアの空間で動き始める。3名のダンサーはそれぞれ、学校やレッスン場など記憶のなかの場所を思い出しながら、廊下を歩く、段差を越えるといった動作を行なっているようだ。「これくらいの幅で…」「高さはこれくらいで…」といった言葉を誰にともなく発しながら、空間を測量するような動作に、うまく思い出せないもどかしげな仕草がノイズのように加わる。3人の身体が描く記憶の風景と交通が奇妙な磁場を醸成し始めたころ、「目を閉じてください」というガイドの言葉が唐突に発せられ、見ることが遮断される。目をつむっても動作の気配は続く。しばらくすると、「目を開けてください」という言葉が発せられ、視覚は回復する。


[写真提供:FORUM KYOTO]

これを数回繰り返した頃だろうか、「目を閉じている」時、誰かの手が膝をすうっと撫でた。次に目を閉じた時、膝の上に置いた手を誰かがそっと握る。「誰か」はだんだん大胆になり、手首を掴まれた私は席を立って、中央のパフォーマンスエリアに足を踏み出すよう無言で促される。突然離される手と「見えない」ことが微かな不安をよぶ。合図に従い目を開けると、何人かの他の観客も席から連れ出されて周囲に立っている。見る/見られるの反転。「目を開ける」度に、動かされた観客の身体が新たな風景を形づくる。「目を閉じている」時、動かされた私の手は誰かの身体に触わり/触れられる。身体の向きとともに変化して感じられる照明の明るさ、隣に立つ誰かの気配、不揃いな足音、だんだん速く大胆に動かされる私の身体。3名のダンサーの短いソロパートを「見る」時間を挟み、最後は観客全員が中央の空間に連れ出されて終了した。


[写真提供:FORUM KYOTO]

一方的にダンサーから「触られる」こと、「目を閉じて見ない」こと。ここで企図されているのは、「観客性」の揺さぶりもしくは一時的解除である。「見ること」を担保する安全な距離の介在は、ダンサーとの直接的な身体的接触により、破られる。そして(観客がガイドの指示に従う限り)視線の主体であることは―少なくとも一次的に―無効化されてしまう。

では、ここで起きている出来事の総体を見ているのはいったい「誰」なのか?「BLIND PIECE」の試みはむしろ、通常は不可視の盲点としてある「演出家」という特権的位置を浮かび上がらせる。また、「観客性」の一時的解除という戦略は理解できるが、「何かを思い出そうとしながら語る人間の(半ば)無意識の身体の動きや、語る言葉と身体の乖離を扱う」というパフォーマンスの軸との関連性が乏しく、やや未消化感が残った。既に2度の上演を重ね、今後も(観客の意見をフィードバックさせながら)発展させていくというこのプロジェクトの今後の展開に期待したい。

2018/05/10(木)(高嶋慈)

クロード・レジ演出『夢と錯乱』

会期:2018/05/05~2018/05/06

京都芸術劇場 春秋座[京都府]

ほとんど何も見えない深い闇から、人間のような形象がかろうじて浮かび上がる。闇を手探るように伸ばされた両手、おぼつかなく揺れる足取り、闇に隠された表情。足元に横たわる影の方が存在感のある、陽炎のようにおぼろげなひとがたが亡霊のように舞台上を彷徨う。スローモーションで引き伸ばされた痙攣。やがて、夜よりも暗い深淵のなかから、ざらついた質感を帯び、嘆きと憎悪と嘲笑が入り混じった声が発せられる。厳格な父親、石のように無関心な母親、死の匂いが重く立ち込めた家、情欲と死への衝動が、破滅的で夢幻的なビジョンの断章として語られていく。

フランス演劇界の巨匠、クロード・レジの演出による本作は、オーストリアの夭折の詩人、ゲオルク・トラークルによる自伝的要素の強い散文詩をテキストに用いて上演された。トラークルは薬剤師として働くなかでモルヒネ中毒になり、妹との近親相姦の関係にも苦しんだ。第一次世界大戦下で衛生部隊として戦線に送られ、自殺未遂の後、コカインの過剰服用により27歳で他界した。

原詩はドイツ語だが、上演はフランス語で行なわれている。そして、本公演の最大のポイントは、俳優の発語と完全に同期しない「日本語字幕」の表示のタイムラグにある。はらわたから絞り出すような発語から数秒ほど遅れて表示される字幕の「ズレ」は、演出上の意図によるものだ。意味内容の理解よりも先に、空気を震わす物理的振動としての「声」が、怖れ/嘆き/破滅の予感/絶望/苦悶の喘ぎといった感情を皮膚感覚で体感させ、調子の狂った弦楽器のようなその声の物質的質感が、一つひとつの言葉に手触りと輪郭を与え血肉化するのだ。声によって受肉化されたイメージを噛みしめる贅沢な間が、観客には与えられている。顔貌も見分け難いほどの暗がりが支配する舞台上で、やや遅れて俳優の頭上で淡い光を放つ字幕は、混沌と闇に文字通りひとときの「光」を与え、たちまち闇に飲まれて消えていく。フランシス・ベーコンの絵画を思わせる大きく開かれた口、その虚無的な広がりに、聴こえない叫びが充満する。

繊細にコントロールされた照明と音響、俳優の身体的現前と声の魅力、そして「字幕」の操作も含めた演出設計が、「朗読」から本作を「演劇」として分かつ。禁欲的にして過剰、沈黙のなかに叫びに満ち、静謐にして内臓的な暴力性に満ちた本作は、身体の輪郭を闇に溶かしながら声の野蛮的な力を浮上させ、見る者の時間・空間感覚すらも失調させるほどの力に満ちていた。


[Photo: Pascal Victor]

2018/05/06(日)(高嶋慈)

中尾美園「紅白のハギレ」

会期:2018/04/24~2018/05/06

ギャラリー揺[京都府]

美術品や古文書の「補彩」という保存修復の仕事に携わりながら、日本画材を用いた精緻な「模写」「写生」による絵画作品を制作する中尾美園。近年は、高齢の女性たちが所蔵する嫁入り箪笥や着物、思い入れのある品々を、記憶の聴き取りとともに丹念に紙の上に写し取り、絵巻のように繰り広げている。中尾作品の魅力は、本物かと見紛う迫真的な描写力の高さに加え、大切にされてきた品々へ向ける慈しむような視線が感じ取れる点にあるが、それだけではない。個人の記憶が刻まれた品々が、さまざまなアクシデントによる傷や破損を被り、それらが人の手で補修されながら、どのように後世へ引き継がれていくのか。「想定される未来」をシミュレーションし、複数に分岐した未来像として描くことで、「保存修復」という自らの仕事に対する深い洞察ともなっている。

本展では、京都市内に住んでいたある女性が所蔵していた「国旗セット」に取材した新作が発表された。94歳で逝去した女性は、祝日に、自宅に国旗を掲げるのが習慣だったという。中尾は、玄関外壁に取り付けられた旗竿を受ける金具に始まり、「国旗セット」と印刷されたビニールの収納袋、旗竿、その先端に付ける金球、そして折りたたんで保管されていた3枚の国旗をほぼ実物大で模写した。また、その1枚を広げた状態で模写したものの隣に、その「国旗」が10枚の「ハギレ」に切り分けられ、それぞれが「未来に起こりうる事態」のバリエーションとして描かれた作品が並べられた。一部がパッチワークの材料のように四角く切り取られた状態、破れた箇所がセロハンテープで補修された状態、当て布で継ぎ接ぎの処置を施された状態、水濡れによる染み、火災による焼け跡、子供の落書き、褪色などだ。

ここで、「現在の国旗の模写」と「想定される未来として描かれたハギレ」をつなぐポイントとして、「有形のモノの保存」と「無形の習慣の継承」という2点が交錯する。まず、有形のモノがどう未来に受け渡されていくかという点では、傷を負えば補修し、布の強度が弱くなれば繕ったり別の用途に活かすなどの処置が見られ、「未来の想定」であるにもかかわらず、大量生産・大量消費の時代以前の手仕事の感性がうかがえることが興味深い。同時にここには、「祝日に個人宅で国旗を掲揚する」という習慣が受け継がれていくのか、という無形のレベルをめぐる問いも浮上する。中尾が取材した老婦人は、ナショナリズムに傾倒していたわけではなく、「祝日をお祝いするアイテム」として暮らしのなかにあった感覚だったという。ハギレとして断片化され、傷や補修を施された「紅白の布」は、「国旗」が背負わされてきた意味やイデオロギーから半ば解放され、自然作用による経年劣化や人の手による痕跡が別の物語を語り始めるように見える。暮らしのなかにあったモノが形を変えながらも受け渡されていくように、「習慣」の継承も変質を被ることが示唆される。

中尾が国旗に興味を持ち、本作を制作したきっかけは、2016年に描いた《6つの眞智子切(想定模写)》に遡るという。この作品は、「眞智子」という老婦人の桐箪笥を取材し、天皇家とゆかりの深い橿原神宮で結婚式をあげた際に譲られた日の丸と、式で使用した扇を「6つの想定される未来」として描いたものである。本作でもまた、ある女性の人生の一部にあった「国旗」を、イデオロギーの代弁装置として見るのではなく、その生に寄り添うような眼差しで見つめることで、写真やスキャンによるデジタルデータ化が持ちえない体温を備えた存在感が感じられる。


展示風景

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2018/04/29(日)(高嶋慈)

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