2018年07月15日号
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artscapeレビュー

見世物大博覧会

2016年12月01日号

会期:2016/09/08~2016/11/29

国立民族学博物館[大阪府]

「見世物」とは、「料金をとって珍しい物や各種の芸を見せる興行」(明鏡国語辞典)のこと。江戸時代以来、盛り場や寺社境内などに見世物小屋を仮設することで興行を行なっている。
その定義は明快だが、内実は実に多様で幅広い。「物」に限って言えば、籠や貝、陶磁器などで造形物をこしらえる細工見世物や人間の肉体をリアルに再現する生人形、さらには奇獣珍獣を見せる動物見世物まである。「芸」に焦点を当てても、空中に張った綱や垂直に立ち上げた竹の上で離れ業を演じる軽業や、足だけで物品や人間を自由自在に操る足芸、独楽を巧みに回転させる曲独楽、とにかく重量物を持ち上げて力技を見せる曲持、はたまた女だけで相撲をとる女相撲、さらには乗馬したまま芝居や踊を演じる曲馬芝居などもある。つまり見世物とは、造型と身体パフォーマンスの両面に及ぶ民俗芸能である。
「物」と「芸」が芸術や美術の根幹にある基本要素であることを思えば、見世物は明治期に輸入された近代美術より先行する美術の原型と言えるのかもしれない。事実、木下直之は『美術という見世物』(1993)のなかで、「見世物は美術展が生まれ育った家なのである」(ちくま学芸文庫、p.17)と指摘している。「体操」が見世物小屋の曲芸師たちに出自をもつように、「美術」はある一定の秩序のもとで物を見せる見世物小屋に由来している。今日、見世物と美術の連続性は、ある種の学術的前提として定着していると言ってよい。
本展は、国立民族学博物館と国立歴史民俗博物館が連携しながら「見世物」の全体像を網羅的に紹介したもの(2017年1月17日より3月20日まで国立歴史民俗博物館に巡回)。見世物小屋を模した空間に、見世物の写真や映像、刷り物、使用された器材、絵看板、報道資料、解説文などが展示された。むろん見世物小屋がそのまま再現されていたわけではないし、「美術」との連続性を強調していたわけでもなかったが、それでもその知られざる実態を体感するには十分すぎるほど充実した展観である。
なかでも最も強烈な印象を与えたのが、「人間ポンプ」こと、2代目安田里美(1923-1995)。幼少の頃から見世物小屋で育ち、まぶたの力だけで水をたたえたバケツを振り回す「眼力」、口に含んだガソリンを吹き出しながら着火する「火吹き」、そしてさまざまなものを胃の中に飲み込んでは吐き出す「人間ポンプ」など、さまざまな芸を身につけた生粋の芸人である。会場では、1980年代にじっさいの見世物小屋で演じられた演目を記録した貴重な映像が上映された。
金魚を飲み込んで生きたまま吐き出すのはまだ序の口で、安田は剃刀、五円玉などを次々と呑みこんでゆく。驚くべきは、彼がその後釣り糸を呑み込むと、先端の針に金魚がかかっていたり、五円玉の穴に糸が通っていたりすることだ。にわかには信じられない光景だが、映像をとおしてでも、その尋常ではない芸の力に圧倒されるのだ。事実、現場の客の大半は子どもたちだったが、彼らの表情は驚愕というよりはむしろ理解不能といった様子で、しかしそのような唖然とした表情こそが、実は安田里美の芸の真骨頂を如実に物語っていたように思われる。それは、言ってみれば世界を停止させるような芸だったのではないか。
本展で紹介された見世物の数々を目の当たりにして痛感するのは、見世物が人間の五感に総合的に働きかける芸能だという事実である。視線を集中させるための空間的な配慮はもちろん、会場内の効果的な導線、観る者を決して飽きさせない劇的な展開を含んだ演目の構成、視覚的な強度を補強する濁声の口上など、数々の技術がふんだんに投入されていることがわかる。
その反面、結果として逆照されるのは、視覚を特権化したうえで整備された美術の制度である。木下が解明したように、美術館が導入される前、人々は油絵茶屋という見世物小屋で油絵を観ていたが、そこは視覚だけを優先させる美術館とは違い、芸人が口上を披露しながら、そして茶(珈琲)を飲みながら、絵画を鑑賞していた。いや、「鑑賞」という言い方にあまりにも近代的なバイアスがかかっているとすれば、それは「楽しんでいた」と言うべきかもしれない。いずれにせよ、「見世物」から「美術」へのパラダイム・チェンジの大きさをまざまざと感じざるをえないのである。
「美術」による「見世物」への侮蔑や憎悪に近い差別的な扱いが生じるのは、まさしくその双方のあいだに広げられた大きな隔たりのなかである。木下が言及している「それでは見世物にすぎない」という美術館関係者による常套句が、そのように差別化することで美術が美術であるための自己規定をもくろむ、きわめて政治的な身ぶりであることは明らかだが、本展で克明に浮き彫りになっているのは、そのような「美術」の自己規定を置き去りにするほど豊かな見世物の世界の論理と魅力である。あえて挑発的に言い換えれば、たとえ「美術」がなくても「見世物」があれば十分なのではないか。
例えば見世物研究の第一人者である川添裕は、見世物を次のように明快に定義している。すなわち「見世物とは、たんなる過去の遺物なのではなく、むしろ『世界』を更新する可能性の表現なのであり、さまざまな事物に新たな喜びや驚きを感じ、あるいは不可知なものへの不安にかられ、心底恐怖することのできる、特権的な『世界』である」(「常軌を超える力」同展図録収録、p.187)。安田里美の芸を目の当たりにした子どもたちは、五感を大いに刺激されながらも、おそらく世界が停止してしまったような感覚に陥ったはずだ。けれども、その後再び動き出した世界は、それまでとはまったく異なる姿として、彼らの眼球に映っていたに違いない。だが、そのような世界の更新こそ、実は今日の私たちが美術に求めてやまない超絶した力の正体ではなかったか。
見世物を侮るなかれ。それは美術の原型であり、立ち返るべき原点である。美術が隘路に陥っているとすれば、その打開策のひとつは見世物をとおして美術を再構築する道のりにある。

2016/10/23(日)(福住廉)

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