2018年10月15日号
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artscapeレビュー

遅咲きレボリューション!

2016年12月01日号

会期:2016/10/15~2017/01/29

クシノテラス[広島県]

櫛野展正は日本で唯一のアウトサイダー・キュレーター。長らく広島県福山市の鞆の津ミュージアムで他に類例を見ない独自の企画展を催してきたが、このほど独立して同市内にアウトサイダー・アートを取り扱うギャラリー「クシノテラス」をオープンさせた。本展は開館記念展に次ぐ第二回目の企画展で、高齢者になってその才能を開花させた表現者たちを一堂に集めている。
参加したのは、ダダカンこと糸井貫二をはじめ、福祉施設を退職後にダンボールなどに絵を描き始めた長恵、50歳になってエロチックな自撮り写真を撮り始めたマキエマキ、そして70歳を超えてから写真を学び、パソコンソフトを駆使しながら、セルフポートレートを撮っている西本喜美子の4人。何かと「コンセプト」や「文脈」を重視しがちな現代美術とは対照的に、いずれも内なる衝動に素直に突き動かれた、きわめて純粋な表現者たちである。
なかでも突出していたのが、熊本県在住で、今年88歳の西本喜美子。その写真は、物干し竿の衣服に袖を通したり、ゴミ袋に身を包んだり、老女である自分を笑い飛ばすようなユーモアあふれるものばかり。そこに、老人をむげに扱いがちな現代社会への痛烈な批評性を読み取ることもできなくはないが、それ以上に伝わってくるのは西本のひたむきな表現欲動である。息子の写真教室で基本的な技術を習得し、やがて撮影した写真をパソコン上でデジタル加工する水準にまで自分で自分を引き上げた底力がすばらしい。軽トラックに轢かれているように見える写真は、停車した車両の前に倒れ込んだ自分を撮影した後、パソコン上で画像処理することで、あたかも軽トラックが高速で前進しているかのように見せたものだ。面白い写真を撮るために知恵と工夫を凝らし、その継続が結果的に写真と自分をともに高めているのだろう。その発展的な軌道に西本が乗っていることが感じられるからこそ、私たちの視線はますます釘づけになるのである。
櫛野の挑戦がアウトサイダー・アートの外縁を拡張していることは間違いない。ジャン・デュビュッフェが命名した「アール・ブリュット」以来、それは精神疾患をもつ人による表現に注目しながら、西洋近代の芸術とは別の芸術を求めてきた。櫛野はこれまで社会福祉という領域に軸足を置きつつも、もう片方の脚を、従来のアウトサイダー・アートには含まれない、例えばヤンキーや死刑囚、スピリチュアルといったアウトサイダーまで伸ばし、あるいは純粋無垢な障害者というレッテルを貼られがちなアウトサイダー・アートに、社会福祉の世界では敬遠されがちなエロティシズムや暴力性をあえて持ち込んだ。こうした孤軍奮闘の取り組みが、隘路に陥って久しい現代美術の世界に痛快な風穴を空けた功績は、最大限に強調しなければなるまい。
だが、あえて批判的な論点を示すならば、アウトサイダー・アートの外縁を拡張する仕事は、どれほどその境界線を外側に押し広げたところで、美術そのものの「革命」には結びつかないのではないか。なぜなら、そのフロントをどこまでも拡大することができるのは、自らの立ち位置を「インサイドには置かない」という巧妙かつ周到な戦略によって担保されているからだ。言い換えれば、現代美術の歴史や文脈、構造と無縁な場所を確保することではじめて「別の芸術」の価値は生まれている。それが退屈な現代美術に飽き足らない人々にとっての求心力となっている事実は否定しない。けれども、はたして「別の芸術」の真価が、そのようなある種の例外にしかないとは到底思えない。少なくともデュビュッフェが提起したアール・ブリュットとは、西洋近代芸術のアジールとしてではなく、むしろその真価が体現された本来的な芸術として構想されていたはずだった。だとすれば、アウトサイダー・アートのフロントは、果てしなく外縁を拡張する方向性だけでなく、むしろインサイドを脱構築ないしは内破する方向性にも見出すことができるのではないか。
アウトサイダー・アートを糸口として現代美術の内側から根本的な変化を引き起こすこと。しかも、その革命を遂行するのは外側からやってきたアウトサイダーではなく、現代美術の内側を構成していることを自認する当事者自身でなければならない。そうでなければ、歴史が証明しているように、異端や例外はたちまち内側に回収されてしまうことは明らかだからだ。アウトサイダー・アートの最も大きな魅力は、そのようにインサイダー・アートを根底から突き崩す潜在的な批判性にある。
その意味で、櫛野が本展で糸井貫二を取り上げている点は興味深い。彼こそアウトサイダーに見えて、その実インサイダーの中心に内蔵されていることを示す美術家だと思われるからだ。櫛野にかぎらず、さまざまな論者がこの伝説の美術家について言及しているが、その多くは異端や例外として位置づけているにすぎない。だが、パフォーマンスの形式面でも、それを衝動的に導き出した表現欲動の面でも、ダダカンこそ、実は最も純粋かつ誠実に、あるいはまた正統に、美術の本質を体現した美術家ではなかったか。それが証拠に、ダダカンは自らが「異常」というレッテルを貼り付けられがちなことを十分に自覚していた。「あえて信ずることをおし貫き、純粋に生きようとすれば、あらゆる罵言、不当な反感、抵抗を覚悟しなければならない。だから私は言ふのである。「純粋であればあるほど、誤解されるのだ」(「光の版画」1964年11月24日付け、黒ダライ児『肉体のアナーキズム』p.435)。「純粋」なインサイドを自認するアーティストらは、ダダカンのこの言葉を耳にして、どのように感ずるのだろうか。外側に見ていた異端や例外が、内側の核心に棲んでいることを感知したとき、革命は始まるのだ。

2016/10/22(土)(福住廉)

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