2017年08月01日号
次回9月1日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

莫毅「研究ー紅1982-2017」

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会期:2017/06/23~2017/07/19

Zen Foto Gallery[東京都]

中国を代表する現代写真家、莫毅(モウ・イ)の作品を、Zen Foto Galleryで展示する連続企画展も4回目になる。今回は「紅(赤)」という色をテーマにした彼の作品を集成した。莫毅は中国ではごく普通に見ることができる「紅」という色にずっとこだわり続けてきた。いわゆる「チャイニーズ・レッド」は中国共産党のシンボルカラーであるだけでなく、お祝い事などに使われるおめでたい色でもある。今回の展示では、「赤い風景」(1997)、「赤い電柱」(同)、「赤いフラッシュ-私は一匹の犬」(2003)、「崇子の赤いスカート──北京を歩く」(2004)、「赤い閃光のロリアン──ドイツ軍基地とスペイン要塞」(2007)の5シリーズのほかに、彼が日常的に撮り続けてきた赤い事物(布団、プラスチック製品、看板、ポスターなど)や、インターネットから取り込んだ歴史的事件の画像などが、壁一面に貼り巡らされていた。
今回の「紅」シリーズのアプローチは、批評的、政治的でありながら、とても軽やかであり、莫毅のほかの作品の、身体性にこだわった重々しい雰囲気とはかなり印象が違う。同時に「紅衛兵が皆つけていた赤い袖章、入団宣誓の時に面と向かった党の旗、リーダーが亡くなった時に死体にかぶせた赤い布、今日まで街から消えることのない赤い宣伝横断幕」といった彼の記憶のなかの「紅」のイメージが、写真によって呼び起こされている。苦難の時代を真摯に生き抜いてきた中国人のアーティストの生涯を、「紅」のイメージをつなぎ合わせて辿り直すことができる、とても興味深い作品群だった。いつも同じことを感じるのだが、もっと大きな空間で、彼の多彩な作品群を一堂に会して見てみたい。そろそろ、どこかの美術館が中国現代写真家たちの個展、あるいはグループ展を本気で企画すべきではないだろうか。

2017/06/29(木)(飯沢耕太郎)

小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」

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会期:2017/06/03~2017/08/12

G/P GALLERY[東京都]

小林健太は、1992年神奈川県生まれの、最も若い世代に属する写真作家である。2016年のG/P GALLERYでの初個展「# photo」では、都市の光景や身近な人物たちを撮影した画像をphotoshopで加工したり、ビデオ作品として出力したりする作品を発表した。現実をデジタル的に変換していく手続きそのものが、「グラフィック・ユーザー・インターフェース」(複雑な操作を直感的に扱うことができるインターフェース)に日常的に接してきた彼自身の生の経験と分かち難く結びついており、結果的にのびやかでナチュラルな画像として出現してくる。最初からデジタル・ツールを自在に使いこなすことができた世代に特有の写真表現のあり方が、いままさに拓かれつつあるといえそうだ。
その小林の新作は、ユニークな発想の作品群だった。都市を走り回る自動車を昆虫に見立てるアイデアは、特に目新しいものではないが、小林は特にアリのような「群知能」を持つ昆虫に注目する。彼らは「個体は単純な反応で動くが、群れになったときには強大な知性を発揮」し、蟻塚のような巨大な建築物をつくり上げる。自動車も同じで、一台一台は知性を持たないが、アリのように都市にはびこってその風景や環境を変質させていく。そんな「自動車昆虫」のあり方をどう表現するのかについてはまだ模索中のようで、会場には大きく引伸ばした道路標識や、昆虫標本を思わせる自動車の写真のほかに、土を焼いてグリッド状に敷き詰めたオブジェなども展示してあった。思考の広がり具合を、どのように作品に落とし込んでいくのかについてはさらに試行錯誤が必要だろう。海外のギャラリーや写真フェスティバルからも参加依頼が来ているようだが、いまは制作と発表のペースを加速していく時期なのではないだろうか。

2017/06/28(水)(飯沢耕太郎)

藤岡亜弥『川はゆく』

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発行所:赤々舎

発行日:2017/06/11

本書の外箱に「川は血のように流れている 血は川のように流れている」というエピグラムが記されている。藤岡亜弥が撮影した広島では、太田川、天満川など市内を流れる6つの川は、特別な意味を持っているのではないだろうか。いうまでもなく、1945年8月6日の原爆投下の日に、川は死者たちの血で染まり、その周辺は瓦礫と化した。広島で川を見るということは、その記憶を甦らせることにほかならない。
「8・6=ヒロシマ」の記憶は、多くの写真家たちによって検証され続けてきた。土門拳、土田ヒロミ、石黒健治、石内都、笹岡啓子──だが藤岡の『川はゆく』はそのどれとも似ていない、まさに独特の位相で捉えられた「ヒロシマ」の写真集だ。原爆追悼の記念行事が集中する暑い夏と、原爆ドームをはじめとする爆心地近くの象徴的な空間が、中心的なイメージであることに違いはないのだが、写っているのはどちらかといえば脱力を誘うような日常の場面だ。にもかかわらず、その底には悪意と不安としかいいようのない感情が透けて見える。日常の裂け目やズレを嗅ぎ当てる彼女の鋭敏なアンテナは、幾重にも折り畳まれた光景から、「ヒロシマ」の死者たちの気配を引き出してくる。そしてその眺めを、「血のように流れている」川のイメージが包み込んでいる。
2016年度の伊奈信男賞を受賞したこの作品で、藤岡亜弥は写真家としてのステップをまたひとつ前に進めた。2007~12年のニューヨーク滞在時に撮影された《Life Studies》など、まだ写真集になっていないシリーズもある。先日のガーディアン・ガーデンの個展「アヤ子、形而上学的研究」をひと回り大きくした展示も見てみたい。

2017/06/26(月)(飯沢耕太郎)

東京墓情 荒木経惟×ギメ東洋美術館

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会期:2017/06/22~2017/07/23

CHANEL NEXUS HALL[東京都]

「東京墓情」の「墓情」はいうまでもなく「慕情」の洒落だが、荒木経惟の作品世界をとてもうまく指し示す言葉だ。荒木は東京の下町の三ノ輪の出身だが、生家の前には「投げ込み寺」として知られる浄閑寺があり、身寄りのない遊女を供養した総霊塔は、子供時代の「インディアンの砦」だったという。また、彼が被写体としての花を意識するきっかけになったのは、1973年に浄閑寺の墓場の花を白バックで撮影したのがきっかけだった。つまり、「墓」のある眺めは、荒木の原風景であり、そこからごく自然に、東京を「墓場」に見立てる発想が湧いてきたのではないだろうか。「3・11」後のざわついた状況のなかで、彼はモノクロームの「東京墓情」シリーズを撮影し始める。そして、それらは旧作を加えて2016年にパリのギメ東洋美術館で開催された「Tombeau Tokyo」展で初めて公開されることになった。今回のCHANEL NEXUS HALLでの展示は、そのダイジェスト版というべきものだった。
とはいえ、東京での「東京墓情」展には、花と人形とオブジェを構成した新作のカラー作品と、ギメ東洋美術館の日本の古写真コレクションから荒木自身が選んだという15点の写真があわせて展示され、展覧会としてはまったく別な印象を与えるものになっていた。特に興味深いのは、幕末から明治中期にかけて撮影されたフェリーチェ・ベアト、日下部金兵衛、小川一真らの着色プリントの世界と、荒木の写真との意外なほどの近さである。これらの「横浜写真」は、主に日本を訪れた外国人旅行者のためのお土産用写真として撮影・販売されていたものだ。当時の日本の風景や日本人の風俗は、外国人のエキゾチシズムを喚起するテーマだったのだが、荒木の写真にも日常を異物化する視点があり、それが古写真と奇妙なかたちで共鳴しているように思える。
それにしても、今年に入って荒木の活動には再び加速がついてきている。同時期にタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムでは「写狂老人A 17.5.25で77齢 後期高齢写」展(5月25日~7月1日)が、新宿のエプサイトでは「花遊園」展(6月10日~6月29日)が開催された。今年は10くらいの展覧会企画が同時進行しているという。それらをつなぎ合わせていくと、荒木の作品世界の新たな切り口が見えてくるのではないかという予感がある。

2017/06/21(水)(飯沢耕太郎)

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鏡と穴──彫刻と写真の界面 vol.2 澤田育久

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会期:2017/05/27~2017/07/01

gallery αM[東京都]

光田ゆりがキュレーションする連続展「鏡と穴──彫刻と写真の界面」の第2弾。前回の高木こずえ展も面白かったが、今回の澤田育久展もなかなかスリリングな展示だった。澤田は1970年、東京生まれ。金村修のワークショップに参加して本格的に写真家としての活動を開始し、現在は東京・神田神保町の写真ギャラリー「The White」を運営している。今回展示された「closed circuit」シリーズは、2012年11月~2012年10月に、1年間にわたって毎月1度個展を開催して発表したものである。
撮影されているのは、地下鉄の駅と思しき、白っぽい材料で覆い尽くされた無機質な空間である。「日常的に撮影できること」、「撮影場所をありふれた公共的な場所」に限定するという条件を課して撮影されたそれらの写真群は、ツルツルのプラスチック的な質感を持つペーパーに大きく引伸ばして出力され、壁に貼られたり、ワイヤーからクリップで吊り下げられたりして展示されていた。撮影、プリント、展示のプロセスは、きわめて的確に選択されており、現代日本における社会的、空間的な体験のあり方を見事に体現している。澤田の展示をきちんと見るのは今回が初めてだったが、思考力と実践力を備えたスケールの大きな才能の持ち主だと思う。
ワイヤーから吊り下げられた作品は、横幅が壁の作品の半分で、画面が二分割されてスリットが覗いている。そのために画像に微妙なズレが生じているのだが、「視線の移動に伴う対象同士の関係性の変化を通して撮影時の状況に似た体験を鑑賞者に与える」という展示の意図が、そこでも的確な視覚的効果として実現していた。

2017/06/16(金)(飯沢耕太郎)

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飯沢耕太郎

1954年生まれ。写真評論家。きのこ文学研究家。筑波大学大学院芸術学研究科修了。主な著書=『写真美術館へようこそ』『ジャパニーズ・フォトグラ...

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