2018年04月15日号
次回5月15日更新予定

artscapeレビュー

飯沢耕太郎のレビュー/プレビュー

伊丹豪「photocopy」

会期:2018/02/13~2018/03/03

The White[東京都]

伊丹豪が2017年にedition nordから出版した『photocopy』は意欲的な造本の写真集だった。ページが全部バラバラになっていて、一カ所だけピンで留めてある。つまり、横にスライド(回転)しないと写真図版が見えないようにつくられているので、否応なしに一枚の写真だけではなく、その前後の複数の写真が目に入ってくることになる。「何の疑いもなく本をめくること、見たような気になることへの批評」として組み上げられたこの写真集は、トリッキーだがスリリングな視覚的な体験を味わわせてくれるものだった。

今回の伊丹の個展では、「その本の構造を逆手にとり、逆のアプローチで空間構成を試み」ている。具体的にはプリントの大きさを極端に変え、フレーム入り、アクリル裝、直貼りなど多様なやり方で壁に写真を並べるやり方だ。こちらは一枚の写真に視線を収束させることを回避し、部屋全体の空間を一挙に体験させようというもくろみである。

それはそれでうまくいっているとは思うが、このような「ティルマンス展示」はこれまでも多くの写真家たちが試みているので、それほど新鮮味はない。それとともに、人、モノ、建物などが混在する都市空間を縦位置で切り取ったイメージ群が、どんな論理で(あるいは非論理)で構築されているのかが、あまり明確に伝わってこない。写真の見せ方へのこだわりから一歩進めて、一枚一枚の写真の意味(あるいは非意味)の連なりの必然性へと観客を導いていく枠組みが必要になるのではないだろうか。

2018/02/14(水)(飯沢耕太郎)

野村次郎『茜と梅』

発行所:赤々舎

発行日:2017/11/01

野村次郎は「日常」を撮影し続けている写真家だ。身近な人物たちや周囲の状況、日々の移ろいなどをカメラにおさめていく行為は、もはや日本人の写真表現のベースになっていて、これまでも多くの作品が発表されている。だが、野村が刊行してきた写真集『遠い眼』(Visual Arts、2009、第7回ビジュアルアーツアワード受賞作)、『峠』(Place M、2012)、そして本作『茜と梅』を見ると、そこに漂っている空気感が、ほかの写真家たちの「日常写真」とはかなり違っていることがわかる。中判カメラで撮影され、モノクロームにプリントされた写真の一枚一枚は、鋭いエッジのナイフで切り出されたような緊張感を湛え、タナトスの気配が色濃く漂っている。写真を見ていると、じわじわと「怖さ」に捕われてしまうのだ。

野村は一時期「引きこもり」になり、精神的に不安定な時期を過ごしたことがあった。その後、「茜ちゃん」と出会って結婚し、犬を飼い始めて小康を得る。だが、精神状態の微妙な変化に対応する日々はいまも続いているようだ。野村にとって、写真を撮ることは、ともすれば向こう側に大きく振れてしまう自分自身を保ち続けるための緩衝剤の役目を果たしているのではないだろうか。本作に登場する「茜ちゃん」と彼女を包み込む世界は、ほのかな微光に包まれているように見える。ぎりぎりの綱渡りでつくり上げられてきた写真たちにも、以前に比べると柔らかなふくらみがあらわれてきた。撮り続けることと生きることとのバランスをうまく保ち続けて、繊細だが強い吸引力を持つ作品世界を、より大きく育てていってほしいものだ。

2018/02/13(火)(飯沢耕太郎)

第10回恵比寿映像祭 インヴィジブル

会期:2018/02/09~2018/02/25

東京都写真美術館ほか[東京都]

普段、写真(静止画像)を中心に見ていると、動画による映像作品の展示にはうまく馴染めない。上映時間が長くなると、どうしてもまだるっこしく感じてしまうことが理由のひとつだが、それだけでなく視覚、聴覚、触覚などが全面的に巻き込まれ、作品と同化してしまうことがあまり好きではないのだ。それで、今年10回目になる「恵比寿映像祭」も見たり見なかったりということが続いていた。だが、今年はどうしても見たい展示物があった。東京都写真美術館3Fの会場に展示された、「コティングリー妖精写真および関連資料」である。

1917〜20年にかけて、イングランド北部のコティングリー村に住む16歳のエルシーと9歳のフランシスが父親のカメラで撮影したという「妖精写真」が大きな反響を呼ぶ。作家で著名な心霊主義者でもあったアーサー・コナン・ドイルも、それらの写真を本物であると主張する論文を発表した。ところが1983年になって、フランシスが絵本を切り抜いて配置したフェイク写真であったことを告白し、この事件には一応の結論が出たことになっている。今回の展示に出品されていたのは、英文学者の井村君江氏が、オークションで手に入れたという、エドワード・L・ガードナー旧蔵小さな皮鞄の中に収められていた5点の「妖精写真」と関連資料だった。

たしかに写真を見れば、妖精たちは切り抜かれたぺらぺらの紙切れであることはすぐにわかる。だが、この写真群には、単なるフェイク写真では片づけられない奇妙な魅力がある。エルシーやフランシスと、その周辺で踊り戯れる妖精たちの姿は、ファンタジックな想像力の産物として、とてもうまく演出・構成されているのだ。あたかもジュリア・マーガレット・キャメロンのピクトリアルな芸術写真を思わせる見事な構図を、若い女の子たちが創り上げることができたのは驚きだが、なによりも写真としての力があったからこそ、ドイルや神智学協会の書記長を務めていたというガードナーを引き込み、信じさせることができたのではないだろうか。

今回の展示は、鞄の中に入っていた100点余りの手紙、手記、写真などのごく一部にすぎない。ぜひ全貌を公開する展覧会や出版物を実現してほしいものだ。

2018/02/12(月)(飯沢耕太郎)

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市川孝典×鬼海弘雄「sprinkling A-side」

会期:2018/02/08~2018/03/09

Basement GINZA[東京都]

市川孝典は、60種類以上の線香で紙を焦がしたり、穴を空けたりして繊細で緻密な画像を描き出していく「線香画」と呼ばれる手法で知られるアーティストである。これまでは、彼自身の記憶の中の視覚像を再現する作品が中心だったのだが、今回のBasement GINZAの展示では、写真家の鬼海弘雄のポートレートや風景作品をモチーフにした作品を発表した。会場には鬼海がインド、アナトリア(トルコ)で撮影した写真も並び、さらに「線香画」だけでなく、3種類の顔料で画像を描き、それを電動サンダー(紙ヤスリ)で削りながら仕上げていく、新たな手法の作品も展示してあった。

市川の作品は、むしろ絵画というよりは写真に近いのではないかと思う。カメラやフィルムや印画紙こそ使っていないが、頭の中の画像を紙に定着するプロセスはストレートな写真そのものであり、絵画的な改変や変更はまったく行なわれていないからだ。「見える」ものをそのまま再現するという、最も基本的な写真の原理を、彼は自らの身体をカメラと化して体現しているわけで、そのこと自体が驚くべきことだ。それだけではなく、今回のコラボレーションを通して見ると、市川が鬼海の写真の本質をきちんと把握し、むしろそれを増幅して表現しているのではないかとも思えてくる。他者が撮影した写真を「偽りの記憶」として再現するという今回の試みは、さらに大きく発展していく可能性を秘めているのではないだろうか。

なお同時期に、東京・池の上のギャラリーQUIET NOISE arts and breakでも、市川の新作展「Slip out」(2月8日〜2月17日)が開催された。こちらはSNSの画像をモチーフに、電動サンダーで仕上げた作品群だが、はじめて色つきの画像にトライしている。意欲的に作品世界の幅を広げつつある。

2018/02/10(土)(飯沢耕太郎)

金川晋吾「長い間」

会期:2018/01/27~2018/02/25

横浜市民ギャラリーあざみ野[神奈川県]

毎年この時期になると、「あざみ野フォト・アニュアル」の一環として、現代写真家の企画展が開催される。今年は「蒸発」を繰り返す父親を撮影した「father」シリーズで注目を集めた金川晋吾(1980、京都府生まれ)をフィチャーした「長い間」展を見ることができた。

2008年から撮り続けられている「father」は、すでにかなりの厚みに達しており、2016年には青幻舎から同名の写真集も刊行されている。今回は出品点数を14点に絞り、大きめのプリントを並べて、父親のポートレートと観客とが正対するような展示にしていた。そのことによって、彼自身の人生をそのまますべて呑み込んでしまったような、なんとも不可解かつ曖昧な中年の男の存在感が、より生々しく露呈しているように感じた。金川は父親にカメラを預け、毎日自分の顔を撮影してもらうというプロジェクトも試みているのだが、それらの画像は映像作品としてスライドショーのかたちで見せている。その上映時間はなんと3時間22分。さすがに全部見ることはできなかったが、しばらく見続けていると、なかなか目を離せなくなってしまう。

もうひとつ、今回は金川が2010年から撮影し始めた「叔母」(父親の姉)のポートレート作品19点もあわせて展示されていた。彼女も理由がわからないまま失踪し、20数年間行方不明になっていたのだという。ここでも「father」と同じく、彼女の顔貌や微妙な身体の傾きを、ことさらに感情移入することなく淡々と写し取っているだけなのだが、やはり見ているうちに、写真に強く引き込まれていく。「人間とは何か?」という根源的な問いかけを受け止めないわけにはいかなくなる。どちらも、まさに「長い間」見続けていたくなる、奇妙な引力を持つ写真群だ。

なお同会場では、「平成29年度横浜市所蔵カメラ・写真コレクション展」として、「写真の中の身体」展が併催されていた。横浜市所蔵の古写真、写真機材のお披露目展だが、こちらもよく練り上げられたいい展示だった。

2018/02/07(水)(飯沢耕太郎)

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