artscapeレビュー

2012年04月15日号のレビュー/プレビュー

万博──新しく、つながる。(2011年度 京都造形芸術大学 卒業制作展・論文発表会、京都造形芸術大学大学院 修了制作展・論文発表会)

会期:2012/02/25~2012/03/04

京都造形芸術大学構内[京都府]

京都造形芸術大学は卒業制作展の展示を昨年から大学キャンパスで行なっている。瓜生山の斜面に沿って建物が点在しているため、各コースごとの展示は構内のあちこちの建物を巡らねばならず、見る側にしてみれば時間と体力が必要だが、学生たちにとってはホームグラウンド。のびのびとした自由な雰囲気と活気が全体に感じられ、会場には制作者本人がその場に居合わせることも多いので、作品のコンセプトについて聞くことができるなど交流もしやすく美術館での展示の場合とは異なる良さがある。また、展示作品にはプライスカードがついているものもあり、学生たちがこの卒業制作展で作品を売買する機会になっている点もユニークだ。発表作品にはデザインや美術の学科のものだけでなく、保育と芸術を両方学ぶこども芸術学科や、文芸表現学科、アート・プロデュース学科などのものもある。なかでも、こども芸術学科の大田浩加の木製パズル《すてきな言葉のある国の物語》は秀逸。かるたのように、短い物語を読んでから言葉と図形のイメージを組み合わせ、完成させるものなのだが、色や形、言葉の響きなどのイメージも綺麗だ。熱心にこれを楽しんでいる鑑賞者(大人)の姿もあり印象に残った。もうひとつ、学内での発表の良さが発揮されていると感じたのは美術工芸学科染織テキスタイルコースの展示。学生たちの作品の多くが美しく見えた。展示の制限や制約というものがいかに作品に影響を与えているかを思い知る機会でもあった。


1──こども芸術学科こども芸術コース:大田浩加《すてきな言葉のある国の物語》
2──屋外の作品展示


3──美術工芸学染織テキスタイルコース:阿部愛友美《未確認いきもの 2011》部分
4──会場風景

2012/03/04(日)(酒井千穂)

2011年度京都造形芸術大学卒業制作関連イベント シンポジウム「万博へ、万博から」

会期:2012/03/04

京都造形芸術大学 京都芸術劇場 春秋座[京都府]

京都造形芸術大学の卒業制作展を訪れた。美術、建築、デザインだけではなく、テキスタイル、日本画など、いろいろなジャンルがある。1円玉を集めて103万円をかたどる作品、クリムト的な絵画がある和風の空間インスタレーション、壁が絵になった作品などが印象に残る。旅館の増築のように、傾斜に沿って、奥まで複雑に建物が続いていたことを初めて知った。坂茂による構築物も建設中だった。今回の卒制展のテーマ、万博にあわせて、浅田彰、五十嵐、ヤノベケンジ、岡崎乾二郎のトークイベントが開催された(当初、磯崎新も来る予定だったが、欠席)。五十嵐は建築、ヤノベは自作から大阪万博を中心に語り、岡崎は大阪万博と対極的な構造をもつ1967年のモントリオール万博を論じた。すなわち、丹下健三が全体計画を担当した大阪万博の未来都市がツリー構造だとすれば、モントリオールは逆に一枚一枚の葉がそれぞれの幹をもつ思想だという。

2012/03/04(日)(五十嵐太郎)

幻のモダニスト──写真家 堀野正雄の世界

会期:2012/03/06~2012/05/06

東京都写真美術館 3階展示室[東京都]

堀野正雄(1907~98)という名前を聞いて、すぐにその仕事を思い浮かべることができる人はそれほど多くないだろう。1930年代の「新興写真」の金字塔というべき写真集『カメラ・眼×鉄・構成』(1932)の作者としては常に取りあげられてきたが、彼の写真家としての全体像は1990年代までおぼろげにしか見えてこなかった。最晩年になって、「おそらく千枚近い数百枚」の写真印画が残っていることが判明し、東京都写真美術館専門調査員の金子隆一を中心として調査・研究が開始された。今回の展覧会は以後10年以上の研究の成果を一堂に会するものであり、日本写真史において画期的な意味を持つものといえる。
堀野はひと言でいえば、日本で最初にプロフェッショナルな「職業写真家」としての意識を持った写真家のひとりといえるだろう。6部構成200点余りの展示を見ていると、被写体を的確に把握し、完璧な技術でプリントし、さらに印刷原稿として仕上げていく能力が抜群に高いことがわかる。初期の前衛舞踊家や築地小劇場の舞台から、街頭スナップ、「機械的建造物」の構造研究、女優のポートレート、戦時中の報道写真まで、読者に最善の形で視覚的な情報を伝えようという意識が明確に貫かれているのだ。堀野はよく自分のことを「技術家」と書いているが、これは決して卑下しているのではなく、むしろ誇りを持ってそう位置づけていたのではないだろうか。
今回の展示で最も興味深かったのは、1931~32年にかけて『中央公論』や『犯罪科学』といった雑誌に掲載された「グラフ・モンタージュ」作品の実物展示のパートだった。堀野はこの頃、板垣鷹穂、村山知義、大宅壮一、北川冬彦、武田麟太郎といった書き手と組んで、言葉と写真とでまとまったメッセージを伝えようとするグラフ・ページをさかんに発表していた。《大東京の性格》《首都貫流──隅田川アルバム》《終点》《玉川ベリ》といった作品をあらためて見直すと、コラージュ的な写真構成と短いキャプションとの組み合わせによって、視覚伝達の枠組みを解体/構築していく意欲的な実験が試みられていたことがわかる。その試みは、残念なことに短い期間で終わってしまうのだが、それは1960年代以降のヴィジュアル誌で展開される編集・レイアウトの先取りだったともいえるだろう。
「グラフ・モンタージュ」に限らず、堀野の写真家としての位置づけは、この展覧会によって大きく変わっていくのではないだろうか。あれほど情熱を傾けていた写真の仕事を、なぜ戦後すぐに断念してしまったのか。この最大の謎を含めて、まだ考えなければならないことが多く出てきそうだ。

2012/03/05(月)(飯沢耕太郎)

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フェリーチェ・ベアトの東洋

会期:2012/03/06~2012/05/06

東京都写真美術館 2階展示室[東京都]

イタリアに生まれ、クリミア半島、インド、中国、日本、スーダン、そして最期の活動の地となったビルマ。フェリーチェ・ベアト(1832~1909)のドラマチックな生涯と、彼が足跡を残した場所の広がりは、当時としては驚くべきものだ。それを可能としたのが、これまた驚くべき勢いで表現領域を拡大しようとしていた写真術だった。ポール・ゲティ美術館のコレクションに、東京都写真美術館の所蔵作品も加えた130点を超える展示を見ると、この「19世紀の戦場カメラマン」の仕事の質の高さがまざまざと見えてくる。
ベアトが求めていたのは芸術的な評価などではなく、出来事をその細部まで精確に写しとることができる写真の能力を最大限に発揮して、あわよくば高額の報酬を得ようという野望だったはずだ。時には危険を冒しても、血なまぐさい戦場に足を運んで撮影したのは、その商品的価値がきわめて高かったからだろう。1863年から20年以上も滞在した日本を去るきっかけになったのが、銀相場の投機の失敗だったということをみても、ベアトは相当に山師的な人物だった。また彼が日本の絵師たちとともにつくり上げた「横浜写真」(手彩色の風景・風俗写真)は、写真の事業化の走りだった。ベアトのようなややいかがわしいところのある人物が跳梁していたということも、ある意味で19世紀の写真の面白さだと思う。
それに加えて、これは堀野正雄にも通じることだが、写真家としてのベアトのプロフェッショナリズムは特筆に値する。ガラスネガを使用する湿板写真の精密な描写力、丁寧にプリントされた鶏卵紙印画の美しさ、印画紙を横につなぐパノラマ写真の精度の高さは、ベアトが自らの写真のクオリティを保つことに、職人的な誇りを持ち続けていたことをよく示している。結果的に彼の仕事は、19世紀後半の世界の姿を現在までいきいきと伝える、貴重な視覚的資料となった。

2012/03/05(月)(飯沢耕太郎)

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せんだいデザインリーグ2012 卒業設計日本一決定戦

会期:2012/03/05

せんだいメディアテーク、東北大学百周年記念会館川内萩ホール[宮城県]

今年の卒業設計日本一決定戦では、仙台に来てから初めて、予選からファイナルに至るすべての段階で審査を担当しなかったが、結果的によかったと思う。東北大の五十嵐研の卒計は、研究室が始まって以来の最強の布陣となり、大活躍したからである。まず予選では、6人のうち4人(松井一哲、曽良あかり、三浦和徳、伊藤幹)が100選に入っている。もっとも、ここからもれた関谷拓巳によるサドの小説『ソドム120日』の建築化も、椚座基道の国会議事堂に複数の直方体が突き刺さる作品も、相当にユニークだった。建築棟が大破し、十分な教育環境がないと同時に、普段以上に負荷がかかるなか(引越や海外巡回展、学科60周年記念など)、震災の年に不思議なめぐり合わせとなった。
研究室からは3人がファイナルに進出している。さらに日本一となった今泉絵里花も加えると、東北大から4人も残った。今年10回目を迎える卒計日本一だが、筆者の記憶では過去9回にファイナルにまで東北大が残ったのは、2人くらいしかいない。うちひとりは2008年の五十嵐研の鈴木茜で、卒計ではベスト10止まりだったが、その2年後、東京ケンチクコレクションでは最優秀を獲得した。ともあれ、これまでも完全にばらばらにファイナルに残るというより、京都大学がまとめて3人くらい入ったり、理科大が2人、日本大学が2人、芝浦工大が2人という風に、年度によって同じ大学がかぶる傾向が認められる。やはり同学年に勢いがあるときとそうでないときが存在するからだろう。
卒計日本一は審査委員長の伊東豊雄の関心が強いことから、震災関係のプロジェクトが議論の中心となり、津波で流された家を模型を使いながら復元する、松井の「記憶の器」は日本二になった。東京に戻る最終新幹線で、ファイナルの審査員を担当した伊東、塚本由晴、コメンテータの竹内昌義らと一緒になり、「記憶の器」について議論が続く。おそらく、この案自体が記憶に残る、2位になったのだろう。あまり語られていないが、これは「卒計」批判の作品でもある。学生が実現しない絵空事を設計するよりも、実在する誰かを喜ばせることができる模型を制作したからだ。

写真:上=松井一哲、中=三浦和徳、下=伊藤幹

2012/03/05(月)(五十嵐太郎)

2012年04月15日号の
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