artscapeレビュー
立蔵葉子ほか『岸井戯曲を上演する。♯1』
2016年11月01日号
会期:2016/09/24~2016/09/25
blanClass[神奈川県]
岸井大輔の戯曲を毎回一本選び、複数の上演者がそれを次々と上演する企画の第一弾(月一で1年続く予定)。取り上げられたのは「文(かきことば)」という短い作品。作品といっても叙述文で書かれたその内容は、口語文ではなく文語体で書かれた文でこそ戯曲は書かれるべきではないかとのメッセージ。さて、では「文(かきことば)」の言葉たちは台詞なのか、ト書きと解すべきものなのか、さもなければ、コンセプチュアルな仕掛けであり、ひとつのインストラクションと見るべきか。ジョン・ケージの『4分33秒』が楽譜というよりもプレイヤーへの指令であったように、これもひとつの指令か?ただ「これをしろ」と命じるわけではないので、頓知というか、禅問答というか、一個の解に収まらない問いであって、一種のゲームのごとき設えと見るべきか。観客は事前に戯曲を渡されている。だから、上演者のパフォーマンスは、観客には応答のゲームに映る?立蔵葉子は、「文(かきことば)」をそのまま戯曲として読んだ。読みながら、体がくねっと揺れたりする。揺れるルールがおそらくあって、そのルールには戯曲への応答が込められているのでは、と想像する。カゲヤマ気象台はパジャマ姿の二人が、ケンドリック・ラマーの曲「Alright」の英詞を自動翻訳にかけて出てきた日本語を読んだ。歌詞は書き言葉か? よく分からなかったが、パジャマの男がバグを含んだ自動翻訳の日本語を読みながら、役者が力を込めたり、抜いたりしているのは、どんな理屈からだろうとこの点にも謎が発生していた。ぼくには立蔵とカゲヤマ気象台の上演が戯曲への明確な応答に思えなかった。応答なのかもしれないが、どこにどう応答しているのかが判然としない。戯曲と上演が明確なポイントでつばぜり合いしているように感じられなかった。三組目の橋本匠はふんどし姿で、漢字の形をその由来について喋りながら漢字の形を体で表現する。これは(体が体現する)「文字を読む」という軸が明確で、身体を用いた上演とこの戯曲とが掛け合わされているのを感じられた。芳名帳に書かれた名前を悶絶ながら読み上げるシーンも印象的で、これによって戯曲と上演というレイヤーの上に、客席の人々というレイヤーが重ねられた。戯曲が上演に与える作用のみならず、演出が上演に与える作用もある。複数の上演者が連ねられることで、この日は演出に注目が集まった。とはいえ、うまく戯曲と上演がつばぜり合いしていないと(戯曲との連関が判然としない演出がなされていると)、お題への応答のゲームにならない。ゲームじゃなくても良い。良いけれども、ゲームの良さは誰が見てもどんな戦いがなされているかが分かることにあり、ゲーム化は観客の参加可能性を、民主化をもたらすだろう。その点の仕組みが気になった。次回以降の展開をフォローしたい。
2016/09/24(土)(木村覚)