artscapeレビュー

伊藤キム/フィジカルシアターカンパニーGERO『家族という名のゲーム』

2016年11月01日号

会期:2016/10/01~2016/10/02

スパイラルホール[東京都]

伊藤キムの舞台という点では、予想通りの内容なのかもしれない。いまやほとんど使われなくなった名称である「コンテンポラリー・ダンス」の、日本における代表的な存在の一人が伊藤である。その特徴は日常性にある。今作では、その日常性が家庭の食卓という形であらわれている。四人の男女、彼らはときに父、母、娘、息子となる。散らばった日常の品々。それを手に取っては、その品物に関係ありそうでなさそうな言葉を口にする。日常性からつるっとすべり、はみ出る瞬間。ただし、それは日常に亀裂が走って真っ逆さまに落ちるといった事態というより(そうなれば舞踏になるかもしれない)、日常からずれて日常の重さから抜け落ちる瞬間なのだ。「回避」という言葉が浮かぶ。それは実に「伊藤キム」らしい。身体動作に起きるずれというよりは思考のずれにあえていえば伊藤キムのダンスはあり、それは「あれ、どうしてそうなるの?」といったずれの感覚として顕在化する。例えば小さな場面。着ぐるみを着た男に、女が不満を爆発させる(二人はつきあっているという設定でのこと)。爆発は増幅してゆく。着ぐるみに顔をうずめて女が話すほどにそうなる。そしてさらに彼女の声はくぐもる。その「ずれ」が「おかしい」という趣向なのだ。男は聞きとりにくいと愚痴をこぼす。女に対する男の愚痴は、観客の賛同が起こるというより、「不満」(内容)を「聞きとりにくい」(形式)にすり替える不誠実な態度として映る。日常性からの遊離が「空とぼけ」として起こるこの「ダンス」は、繰り返すが、舞踏のような非日常(異常なもの)との出会いを生むというよりも、「遊離してしまった自分」へと意識が向かうという意味で、ナルシスティックなものとなる。舞踏と比較する必要は必ずしもない。ただ、伊藤の行なう日常性とのナルシスティックな関わり方に、どんな価値をひとは見るのだろう。いかにも、これは日本の「コンテンポラリー・ダンス」だ。けれども、それでよいのか、という問いに現在の多くの日本のダンスは至っているのではなかったか。

2016/10/01(土)(木村覚)

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