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クリスチャン・ボルタンスキー アニミタス さざめく亡霊たち

2016年11月01日号

会期:2016/09/22~2016/12/25

東京都庭園美術館[東京都]

宇多田ヒカルの新譜『Fantôme』が、すばらしい。アルバムの随所に漂っているのは、文字どおり、幻の気配。歌詞から察すると、それが2013年に亡くなった彼女の母、藤圭子を暗示していることは明らかだとしても、彼女が切ない声で歌い上げる喪失感や心象風景が私たちのそれらと共振してやまないこともまた事実である。眼前に現われた幻影に触れようとした瞬間、たちまち霧消してしまう哀しさ。あるいは逆に、その幻影に受肉させかねないほど暴力的に再生される記憶の恐ろしさ。そして、そのように現われては消え去る幻に苛まれながらも、なおもわずかなユーモアとともに歩み続ける力強さ。最初の曲が「黒い波」という言葉で始まり、最後の曲が「すべての終わりに愛があるなら」という言葉で終わることから、ポスト3.11のレクイエムとしてみなすこともできなくはないが、いま、この時代を生きる者であれば誰もが共感しうる同時代的なリアリティに満ちた記念碑的な傑作である。
さてクリスチャン・ボルタンスキー(1944-)といえば、言うまでもなく幻、幻影、亡霊を主題にする世界的なアーティストである。日本では、越後妻有における《最後の教室》や瀬戸内における《心臓音のアーカイヴ》などの常設作品で知られているが、本展は意外なことに東京での初個展。現在開催中の「瀬戸内国際芸術祭2016」にも参加しているが、同芸術祭で発表された野外のインスタレーション《ささやきの森》の映像作品も本展で上映された。
だがその内実は、事前の期待値とは裏腹に、いささか物足りない印象は否めない。なぜなら、たとえ彼の代名詞とも言える「亡霊」が寄る辺ないものだとしても、展示物と建築物との境界線を認識しがたいほど、それらの存在感がきわめて希薄だったからだ。会場の随所から亡霊たちの「声」が漏れてくるが、音量が小さいうえ音質もあまりよくないため、何を言っているのか聴き取りにくい。豊島の《心臓音のアーカイヴ》と同じように、心臓音と合わせて明滅するランプを見せるインスタレーションにしても、空間が狭いことは致し方ないにせよ、肝心の音が抑制されているため、豊島の作品のように全身を揺るがすほどの衝撃は到底感じられない。しかもブラックキューブを担保できていないため、開口部から差し込む無粋な光が劇的な効果を半減させてしまっている。それゆえ、いかなる「美」も、いかなる「崇高」も感じ取れない、いかにも中途半端な展示になっていると言わざるをえない。よもや旧朝香宮邸という高貴な空間を忖度したわけではあるまいが、そのような邪推を招きかねない要因が展示に含まれていたことは否定しがたい。
ところで『Fantôme』のなかでボルタンスキーと比較しうる楽曲が、KOHHと共作した「忘却」である。まさしく《心臓音のアーカイヴ》のように、この楽曲はハートビートで始まり、ハートビートで終わるからだ。そもそも心臓音とは不安や恐怖といった死の経験と表裏一体の関係にありながら逆説的に生を証明するものだが、豊島の《心臓音のアーカイヴ》は尋常ではないほどの音量を空間全体に満たすことによって、来場者をその両義性の只中に没入させる、優れた作品である。むろん音量という点では、「忘却」はそれに匹敵するわけではない。だが「忘却」は、歌詞によっても私たちを生と死のはざまに誘うのだ。
「天国」と「地獄」、「入り口」と「出口」。あるいは「熱い唇」と「冷たい手」。「忘却」は、あらゆる二項対立の言葉によって構成されているが、宇多田ヒカルの聖とKOHHの俗という二極は、「冷たい手」や「強い酒」という言葉によって互いに接合されながらも、弁証法的に止揚されるというより、むしろ対極主義的に分節されている。だからこそ私たちは、その聖俗の裂け目に、生きていながら死の淵を覗き込んてしまったような不気味な感覚を感知するのである。本展に欠落していたのは、このような意味での二極にほかならない。

2016/10/14(金)(福住廉)

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