artscapeレビュー

青野文昭 個展

2016年11月01日号

会期:2016/09/07~2016/09/18

gallery TURNAROUND[宮城県]

仙台を拠点に活動している青野文昭の新作展。遺物(異物)を異物(遺物)と接合しながら「なおす」作風によって知られる造形作家で、とりわけ3.11以後の造形表現を考えるうえで注目を集めている。先ごろ東京藝術大学大学美術館で催された「いま、被災地から──岩手・宮城・福島の美術と震災復興」展(2016/05/17~2016/06/26)では、収納用具と衣服を融合させることで、いままで以上に人間の気配を強く醸し出していたが、今回の個展でも、その特徴をさらに押し広げた作品を発表した。
縦に長い箪笥が2つ、お互いに体重を預けるかのように支え合っている。その外形がすでに「人」という文字を連想させるが、それらのうちの一方に埋め込まれた衣服が赤く着色されていることもまた、人間の血肉を感じさせてやまない。水平方向に寝かせられた別の作品にしても、表面に描き出された人型が実物のブーツを履いているので、いまにも立ち上がりそうな雰囲気だ。物であることにはちがいないし、決して人間そのものでもないのだが、だからといって単なる物として割り切ることも難しい。青野は文字どおり人間と物質のあいだを──もの派的な作法とは異なるかたちで──巧みに切り開いているのである。
ここで脳裏をよぎったのが、漫画家の諸星大二郎による短編「壁男」。壁男とは、アパートやマンションなど、室内の壁の中から住人の暮らしを観察する者たちだ。時として別の壁に移動することもできる、ある種の肉体をもちながらも、機能面では視線に特化している。つまり壁男とは、もっぱら「見る」ことに専念する近代的な視線の象徴である。青野による人間が埋め込まれたかのような造形物は、肉体こそ残されていないにせよ、あたかも壁男の存在を物語っているかのように見えた。いや、より正確に言えば、青野による造形物の中に壁男がいるかのように「見えた」というより、むしろその中から壁男によって「見られていた」ような気がしたのだ。
むろん、これは主観的な印象にすぎない。だが青野は、会場の一角に学生時代の課題として取り組んだ恐山のフィールドワークの記録を置いていた。写真と文章で構成されたそのフィールドノートは確かに貴重なものだが、むしろ強調したいのは、壁男と恐山の共通性である。それらは、いずれも私たちに「見られている」ことを強く意識させるからだ。通常、私たちは壁男の存在を知らないため「見られている」ことを意識することはない。だが、ひとたびその存在を認識するや、自分が彼らに「見られている」恐れが心のなかで果てしなく膨張してゆくのだ。恐山にしても、此方から彼方を見通すことができるわけではないが、彼方からは此方を見ているような気がしてならない。だからこそ参拝客は、心の内側に刻み込まれた深い傷を「なおす」ために、イタコの口寄せに頼らずとも、その一抹の可能性を信じていまもこの霊山を訪ねているのだろう。
青野文昭の作品が優れているのは、「見る」ことや「見られる」ことを含めて、造型表現の可能性を真摯に突き詰めているからだ。だが、その真骨頂は、そうした造型表現の展開を、従来の戦後美術の大半がそうしてきたように、人間の営みと切り離すのではなく、あくまでも人間の存在と同伴させているところにある。それは美術にとっての新たな原点になりうるのではないか。

2016/09/17(土)(福住廉)

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