artscapeレビュー

2016年11月01日号のレビュー/プレビュー

松ノ井覚治の建築ドローイング─ニューヨークで学んだボザール建築

会期:2016/10/03~2016/10/21

京都工芸繊維大学美術工芸資料館[京都府]

美しい建築ドローイングの数々に、思わずため息が出る。松ノ井覚治(1896-1982)は、1920年代のニューヨークで活躍した珍しい経歴をもつ建築家。1918年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、アメリカに渡る。帰国した1932年には、ヴォーリズの事務所にも籍を置いた。ところで同大学の同級生が、村野藤吾(1891-1984)である。村野は拠点を大阪に移し、渡辺節の事務所に勤めた。一方、松ノ井はニューヨークの大手の建築事務所で働きながらコロンビア大学に学ぶ。1928年には、設計主任としてマンハッタン銀行本店(ウォール・ストリートの超高層ビル)の建て替えの仕事に携わるまでになったという。本展に展示されるのは、彼が大学に在籍しながら、ボザール・インスティチュート・オブ・デザイン(BAID)宛に応募した課題(審査結果は建築雑誌の誌面に公開された)。同団体は、パリのエコール・デ・ボザールによる「ボザール様式」を規範とする教育を行なう、当時の建築教育にあっては重要な機関であった。そのとおり、ドローイング作品には見事に描かれ着彩された、古典的な設計意匠を見て取ることができる。また京都工芸繊維大学美術工芸資料館 には、村野藤吾の充実した資料と研究実績がある。展示された寄贈品を巡る「もの」を通して、松ノ井と村野の間に流れるあたたかな友情の物語までも伏線として示される、何とも素敵な展覧会。[竹内有子]

2015/10/15(土)(SYNK)

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モードとインテリアの20世紀 ─ポワレからシャネル、サンローランまで─

会期:2016/09/17~2016/11/23

パナソニック汐留ミュージアム[東京都]

ファッションやテキスタイルに関連する展覧会が各所で開催され、多くの観覧者を集めている関東周辺のミュージアムであるが、汐留ミュージアムの企画は、建築やインテリア等、生活文化を主題とした展覧会を多く開催してきた同館ならではのファッションとインテリアとの関わりをテーマとした展覧会だ。出品されている衣装の数々は、すべて島根県立石見美術館のコレクション。石見美術館が20世紀西洋ファッションの流れをたどる作品を収集してきたのは、この地方が世界的に活躍するファッションデザイナーのパイオニアとして知られる森英恵の出身地だからだ。収集品は衣装にとどまらず、ファッションに関わる絵画、版画、彫刻、工芸、写真など多岐にわたる。そのコレクションとインテリアとを組み合わせる企画が生まれたのは、本展を担当する宮内真理子学芸員が関わったウィーン工房展(2011/10/08~12/20)がきっかけだという。同展には石見美術館が所蔵するウィーン工房によるモードと工芸品が出品されている。また、衣装を身にまとった人が環境と融合して初めて美しい空間となり得るというウィーン工房の思想に感銘を受けたことも本企画の背景にあるという。
ウィーン工房と20世紀初頭のモードには浅からぬ縁がある。ファッションデザイナーのポール・ポワレは、ドイツ、オーストリアに渡った際に装飾芸術展を訪問し、ウィーン工房の活動に注目。ウィーン工房を設立したヨーゼフ・ホフマンとも知遇を得ていた。1911年にポワレがデザイン学校を開設した背景にも、ウィーン工房の影響がある。ポワレがオートクチュールのデザイナーとして初めて香水など衣装以外の商品を売り出し、デザイン学校を設立し、室内装飾をも手がけたことを考えれば、ウィーン工房の影響の大きさ、本展示がシャルル・フレデリック・ウォルトではなくポール・ポワレから始まっていることにも納得がいく。ただし、この展示がファッションとインテリアを総合芸術として提示し得たかという点は留保したい。さまざまなデザイナーの衣装が隣り合わせて並ぶ展示室は、デザイナーの思想をたどるというよりも様式史の印象だ。ウィーン工房展に倣うならば、扱う期間とデザイナーを絞り、インテリアとの関係についてモードの発信側にもっとフォーカスしても良かったのではないだろうか。インテリア関連の実物資料は少なく写真や雑誌が中心であるが、 イラストレーターの福田愛子氏が同時代の資料に基づいて描き下ろしたという室内風景のパネルを衣装の背景に配する試みは、とてもよい。[新川徳彦]


展示風景

関連レビュー

ウィーン工房1903-1932──モダニズムの装飾的精神:artscapeレビュー|SYNK(新川徳彦)

2016/09/16(金)(SYNK)

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青野文昭 個展

会期:2016/09/07~2016/09/18

gallery TURNAROUND[宮城県]

仙台を拠点に活動している青野文昭の新作展。遺物(異物)を異物(遺物)と接合しながら「なおす」作風によって知られる造形作家で、とりわけ3.11以後の造形表現を考えるうえで注目を集めている。先ごろ東京藝術大学大学美術館で催された「いま、被災地から──岩手・宮城・福島の美術と震災復興」展(2016/05/17~2016/06/26)では、収納用具と衣服を融合させることで、いままで以上に人間の気配を強く醸し出していたが、今回の個展でも、その特徴をさらに押し広げた作品を発表した。
縦に長い箪笥が2つ、お互いに体重を預けるかのように支え合っている。その外形がすでに「人」という文字を連想させるが、それらのうちの一方に埋め込まれた衣服が赤く着色されていることもまた、人間の血肉を感じさせてやまない。水平方向に寝かせられた別の作品にしても、表面に描き出された人型が実物のブーツを履いているので、いまにも立ち上がりそうな雰囲気だ。物であることにはちがいないし、決して人間そのものでもないのだが、だからといって単なる物として割り切ることも難しい。青野は文字どおり人間と物質のあいだを──もの派的な作法とは異なるかたちで──巧みに切り開いているのである。
ここで脳裏をよぎったのが、漫画家の諸星大二郎による短編「壁男」。壁男とは、アパートやマンションなど、室内の壁の中から住人の暮らしを観察する者たちだ。時として別の壁に移動することもできる、ある種の肉体をもちながらも、機能面では視線に特化している。つまり壁男とは、もっぱら「見る」ことに専念する近代的な視線の象徴である。青野による人間が埋め込まれたかのような造形物は、肉体こそ残されていないにせよ、あたかも壁男の存在を物語っているかのように見えた。いや、より正確に言えば、青野による造形物の中に壁男がいるかのように「見えた」というより、むしろその中から壁男によって「見られていた」ような気がしたのだ。
むろん、これは主観的な印象にすぎない。だが青野は、会場の一角に学生時代の課題として取り組んだ恐山のフィールドワークの記録を置いていた。写真と文章で構成されたそのフィールドノートは確かに貴重なものだが、むしろ強調したいのは、壁男と恐山の共通性である。それらは、いずれも私たちに「見られている」ことを強く意識させるからだ。通常、私たちは壁男の存在を知らないため「見られている」ことを意識することはない。だが、ひとたびその存在を認識するや、自分が彼らに「見られている」恐れが心のなかで果てしなく膨張してゆくのだ。恐山にしても、此方から彼方を見通すことができるわけではないが、彼方からは此方を見ているような気がしてならない。だからこそ参拝客は、心の内側に刻み込まれた深い傷を「なおす」ために、イタコの口寄せに頼らずとも、その一抹の可能性を信じていまもこの霊山を訪ねているのだろう。
青野文昭の作品が優れているのは、「見る」ことや「見られる」ことを含めて、造型表現の可能性を真摯に突き詰めているからだ。だが、その真骨頂は、そうした造型表現の展開を、従来の戦後美術の大半がそうしてきたように、人間の営みと切り離すのではなく、あくまでも人間の存在と同伴させているところにある。それは美術にとっての新たな原点になりうるのではないか。

2016/09/17(土)(福住廉)

立蔵葉子ほか『岸井戯曲を上演する。♯1』

会期:2016/09/24~2016/09/25

blanClass[神奈川県]

岸井大輔の戯曲を毎回一本選び、複数の上演者がそれを次々と上演する企画の第一弾(月一で1年続く予定)。取り上げられたのは「文(かきことば)」という短い作品。作品といっても叙述文で書かれたその内容は、口語文ではなく文語体で書かれた文でこそ戯曲は書かれるべきではないかとのメッセージ。さて、では「文(かきことば)」の言葉たちは台詞なのか、ト書きと解すべきものなのか、さもなければ、コンセプチュアルな仕掛けであり、ひとつのインストラクションと見るべきか。ジョン・ケージの『4分33秒』が楽譜というよりもプレイヤーへの指令であったように、これもひとつの指令か?ただ「これをしろ」と命じるわけではないので、頓知というか、禅問答というか、一個の解に収まらない問いであって、一種のゲームのごとき設えと見るべきか。観客は事前に戯曲を渡されている。だから、上演者のパフォーマンスは、観客には応答のゲームに映る?立蔵葉子は、「文(かきことば)」をそのまま戯曲として読んだ。読みながら、体がくねっと揺れたりする。揺れるルールがおそらくあって、そのルールには戯曲への応答が込められているのでは、と想像する。カゲヤマ気象台はパジャマ姿の二人が、ケンドリック・ラマーの曲「Alright」の英詞を自動翻訳にかけて出てきた日本語を読んだ。歌詞は書き言葉か? よく分からなかったが、パジャマの男がバグを含んだ自動翻訳の日本語を読みながら、役者が力を込めたり、抜いたりしているのは、どんな理屈からだろうとこの点にも謎が発生していた。ぼくには立蔵とカゲヤマ気象台の上演が戯曲への明確な応答に思えなかった。応答なのかもしれないが、どこにどう応答しているのかが判然としない。戯曲と上演が明確なポイントでつばぜり合いしているように感じられなかった。三組目の橋本匠はふんどし姿で、漢字の形をその由来について喋りながら漢字の形を体で表現する。これは(体が体現する)「文字を読む」という軸が明確で、身体を用いた上演とこの戯曲とが掛け合わされているのを感じられた。芳名帳に書かれた名前を悶絶ながら読み上げるシーンも印象的で、これによって戯曲と上演というレイヤーの上に、客席の人々というレイヤーが重ねられた。戯曲が上演に与える作用のみならず、演出が上演に与える作用もある。複数の上演者が連ねられることで、この日は演出に注目が集まった。とはいえ、うまく戯曲と上演がつばぜり合いしていないと(戯曲との連関が判然としない演出がなされていると)、お題への応答のゲームにならない。ゲームじゃなくても良い。良いけれども、ゲームの良さは誰が見てもどんな戦いがなされているかが分かることにあり、ゲーム化は観客の参加可能性を、民主化をもたらすだろう。その点の仕組みが気になった。次回以降の展開をフォローしたい。

2016/09/24(土)(木村覚)

大場康弘作品展「Inner Books」躰の内に眠る書庫を静かに開いてみる……

会期:2016/09/26~2016/10/01

GALLERY Ami-Kanoko[大阪府]

水色を基調とする画面に描かれた、人、動物、植物、魚類、鳥類、天体など。それらはいずれも人格を持った存在として描かれて、等価な立場で静かに戯れている。大場康弘が描くメルヘンチックな絵画世界を説明すると、こんな感じになるだろう。しかし、本展の面白さは絵の個性だけではない。大小の作品をアトランダムに配したインスタレーション風の展示も大きな魅力なのだ。絵の配列を決めているのは、画中に登場する蔓草らしきもの。ひとつの作品を越えて蔓が延び、隣の作品、そのまた隣の作品へと繋がっていく。この蔓草のおかげで、一つひとつの作品が独立した存在でありながら、全体の一部として有機的に機能しているのだ。見た目はイラスト調で可愛い画風だが、全体を統べるコンセプトはスケールが大きく、骨太なものがある。そのギャップも大場作品の魅力だろう。

2016/09/26(月)(小吹隆文)

2016年11月01日号の
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