artscapeレビュー
マリメッコ展
2017年02月01日号
会期:2016/12/17~2017/02/12
Bunkamuraザ・ミュージアム[東京都]
1951年、アルミ・ラティアによってヘルシンキに創業したフィンランドを代表する企業のひとつ、マリメッコ社の60年の歴史を、ヘルシンキのデザイン・ミュージアムの所蔵品でたどる展覧会。展示は3つのパートに分かれている。第1章はアルミ・ラティアの思想と代表的なファブリックの紹介。第2章では創業から現在まで、マリメッコ社の歩みを時系列で辿る。第3章ではパターンや色彩、デザイナーに焦点を当てて、マリメッコという企業、ブランドのアイデンティティを探る。
社名のマリメッコは女性の名前である「マリ(mari)」にドレスを意味する「メッコ(mekko)」を付けたもので、「マリのドレス」を意味する。また「マリmari」は創業者アルミ(Armi)の綴りを並べ替えたもので、マリメッコという企業がアルミ・ラティアの強い個性によって成長したことを物語っている。他方で、マリメッコが優れたデザインを生み出し、成功してきた要因は自由な作品づくりにあるといわれている。1964年にマイヤ・イソラがデザインした《ウニッコ》(ケシの花)をめぐるエピソードはそのひとつだろう。当時アルミ・ラティアはマリメッコの商品に花柄の図案は使わないと明言していたにも関わらず、この図案を採用。《ウニッコ》は現在でもマリメッコのイメージをかたちづくる代表的な図柄になっている。1968年から1976年までマリメッコ社で働き、現在京都のテキスタイルブランドSOU・SOUのデザイナーを務める脇阪克二によれば、マリメッコ社にはノルマやテーマ等の要求が一切なく、求められたことは「BE YOURSELF」だけだったという(『脇阪克二のデザイン』パイインターナショナル、2012年8月、29頁)。1974年から2006年までマリメッコ社のデザイナーを務めた石本藤雄は本展のためのインタビューで「売れないものでもつくらせてくれた」「売れないかもしれないけれども商品化を考えてくれる人たちが社内にいた」と語っている(本展図録、183頁)。1953年から1960年までデザイナーを務めたヴオッコ・ヌルメスニエミは「私がマリメッコでつくるものについて、アルミは何ひとつ口を出しませんでした。本当に何ひとつも」と述べている(本展図録、178頁)。売れないデザインは商品としてはやがて廃番になるのだが、それでも売れ筋を狙うのではなく、自由な作品づくりが可能だったのはなぜだろうか。これは私見だが、マリメッコのファブリックがスクリーン印刷だったことが理由のひとつだったのではないか。20世紀初頭に登場し、戦後ファブリックのプリントに多用されるようになったスクリーン印刷は、従来の織や染め、木版や銅版によるプリントと比べて量産のための初期費用が安く、それは少量生産も容易な技術であることを意味する。つまり万が一そのデザインが売れなくても、損失が少なくてすむのだ。もちろん、他社も同様の技術を用いることができたのでそれだけをマリメッコ社の成功の理由にはできないが、技術がデザイナーの自由を拡大したことは間違いないし、自由で多様なデザインがあったからこそ、その中からヒット作品が生まれたのではないだろうか。他方で、すべてのデザインが売れたわけでないことを考えれば、デザイナーの「自由」と販売面を含めた経営との関係がどのようなものであったのか、さらに詳細を知りたいところだ。
作品は鮮やかだが、展示スタイルはやや平板で彩りに欠ける。たとえば過去のショップの再現展示などがあっても良かったのではないか。解説では1979年のアルミ没後から1980年代の停滞と、1991年にCEOに就任したキルスティ・パーッカネンによる復活にも触れられていて、マリメッコ社の経営がつねに順風満帆だった訳ではないことが分かる。[新川徳彦]
2016/12/16(金)(SYNK)