artscapeレビュー
砂連尾理『老人ホームで生まれた〈とつとつダンス〉 ダンスのような、介護のような』
2017年02月01日号
発行所:晶文社
発行日:2016/10/07
「コンテンポラリーダンスって何?」とは、よく聞かれる質問だ。解釈が多様で、一括りにしようとすれば「ポスト・モダンダンス以降の各自の個人的手法に基づくダンス」としか言いようがない。いや、なんとなくこんな感じというおぼろげなスタイルも現れており、自由に使える便利な言葉である分、それが本質的に何に取り組んでいるのかということは、漠然として像を結ばない。本書は、そんな悩みに応えてくれる一冊だ。本書で「……開かれた身体で生きていく、そのことこそが、僕にとってはダンスなのかもしれない」と砂連尾理は言う。砂連尾にとって、ダンスはテクニックやスタイルの呼び名ではない。あえて言えば、それは生き方に関わるものだ。
10年ほど前、寺田みさことのデュオ「傘どう」を休止し、ベルリン留学を経た後、砂連尾は積極的に障害者や老人(認知症や車椅子生活の方も含む)とパートナーを組んだり、また東日本大震災の被災地と関わりなどしながら、作品を作ってきた。こうした活動の中では、自分のダンスを相手に押しつけることは無意味だろう。むしろ有効なのは、相手の身体性と関わり、他者によって何度も自分を揺さぶられながら、その揺さぶられる自分に正直であることに他あるまい。「開かれた身体」とはそうした身体のことであるだろうし、単に柔軟で機転の利く、エリート的な身体ということではない。その成果が『とつとつダンス』『猿とモルターレ』などとして結実した。これらの傑作を見ると、審美的価値に訴えるどんな個人的手法を作り出すかという以上に、誰とどう正直に繋がるか、そこにダンスの核心があることに気づく。
昨年の10月、大阪に暮らす砂連尾を東京に招き、BONUSが主催してトーク&ワークショップのイベントを行なった。砂連尾はそこで、早朝、ヨガの講師として大学の体育館で準備をしているとき、ふと、体育館の壁が自分を応援してくれている気がした、という不思議なエピソードを披露してくれた。壁だけではなく、ときに山が、シャワーヘッドが自分に話しかけ、励ましてくれるというのだ。「開かれた身体」とは、そうした万物の声に勇気づけられる身体でもあるのか。自分を取り巻くすべてのものが自分を批判しているかのように感じてしまう都会暮らしのメンタリティからは、それが非科学的か否かに頓着するよりも、とてもうらやましい生き方であると思ってしまう。本書には、後半に、砂連尾メソッドが開陳されており、それを読めば、彼のアイディアを手短かに実践することもできる。
2017/01/24(火)(木村覚)