artscapeレビュー
世界に挑んだ7年 小田野直武と秋田蘭画
2017年02月01日号
会期:2016/11/16~2017/01/09
サントリー美術館[東京都]
「秋田藩士が中心に描いた阿蘭陀風の絵画」ゆえに「秋田蘭画」とよばれる作品の、中心的な描き手であった小田野直武(1749~1780)と、第8代秋田藩主・佐竹曙山(1748~1785)、角館城代・佐竹義躬(1749~1800)らの業績を辿る展覧会。秋田蘭画の特徴は、西洋画のような影や細部の描写、近景と遠景の対比、遠景においては銅版画のようなタッチで、代表的な作品は小田野直武「不忍池図」。和洋折衷の不思議な印象の作品だ。「不忍池図」は知っていたが、恥ずかしながら、『解体新書』の図を描いたのがこの小田野直武であるということを本展で初めて知った。鉱山調査で秋田藩を訪れた平賀源内と知り合った直武が江戸に上り、源内のネットワークを通じて蘭学者と出会い、『解体新書』の表紙、挿画を手がけることになったのだという。
直武が江戸に上ったのは安永2年(1773年)末。理由は不明だが、帰藩を命じられたのが安永8年(1779年)。翌安永9年(1780年)に直武は32歳で亡くなっている。源内も同じ年に獄死。佐竹曙山も程なく亡くなり、秋田蘭画創始に関わった人物が相次いで世を去ったことになる。秋田蘭画が再び光が当てられるようになったのは20世紀以降。秋田出身の日本画家・平福百穂によって「再発見」された。「秋田」という文脈で評価されたこともあって、直武、曙山らの死によって秋田蘭画の系譜は途絶えたとされる。しかし本展第5章「秋田蘭画の行方」でもその後継者として司馬江漢(1747~1818)が挙げられているように、直武、曙山の洋風画は江戸で江漢に継承され、江漢は亜欧堂田善(1748~1822)に影響している。直武が洋風画を描いたのは江戸に上がってからのことであり、直武の主、佐竹曙山は18歳まで江戸藩邸で暮らしている。直武に洋風画を教えた源内はもちろん江戸の人だ。「武士と印刷展」(印刷博物館、2016/10/22~2017/1/15)で諸藩主の印刷事業の多くが江戸で行なわれていたとあったが、「秋田蘭画」もまた江戸の武士の文化の上に成立したと考えられようか。直武らの作品には日本画の顔料の上にアラビアゴムを塗るなどして油彩画を模す試みがあるという。直武、曙山、義躬は、江漢、田善とほぼ同年代だ。直武らがもっと長く生きて油絵の具を手にしていたら、江漢同様に油彩画や銅版画を手がけたであろうか。そうであれば日本美術史もまた異なる展開をしただろうかと想像する。[新川徳彦]
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2017/01/09(月)(SYNK)