artscapeレビュー
未来美展「ナンニモ気にするな、バリバリにぶっちぎれ。」
2017年12月01日号
会期:2017/11/03~2017/11/05
鹿児島県鹿児島市松原町1-2[鹿児島県]
美学校の「未来美術専門学校アート科」で教鞭をとる遠藤一郎による企画展。「カッパ師匠」に扮した遠藤が総合ディレクターを務め、同クラスの受講生、および遠藤が鹿児島でスカウトした若手アーティスト、さらにはセルフメイドの自宅とともに全国を行脚している村上慧をゲスト・アーティストとして招聘し、あわせて18名が参加した。平面や立体、映像、インスタレーションなど、さまざまな作品が3階建ての古い雑居ビルの随所に展示された。大半は発表履歴の浅いアーティストばかりだが、表現の強度は並のアーティスト以上に烈しい。
なかでも注目したのは、中村留津子と仲田恵利花、川路智博の3人。
中村留津子の《まえをみる》は市販の黄色いコンパネの表面をすべて濃紺一色で塗り、その2枚のコンパネを連結させた支持体の表面を削り出した絵画。地の黄色が細い線として見える仕掛けだ。人間と動植物が入り乱れた絵は細密描写をベースにしているので、おのずと視線は画面に吸い込まれてゆく。随所に隠されたエロティックなイメージを発見できるのも面白い。ところが、その一方、スピード感のある荒々しいスクラッチの痕跡が、まるで見る者を拒絶するかのように、視線を遠ざける。絵画の醍醐味のひとつに求心力と遠心力を同時に体感させるイリュージョンがあるとすれば、中村はそれを独自の方法によって成し遂げているのである。長い時間をかけて試行錯誤を繰り返してきたなかで、その方法を獲得したことに大きな意味がある。
仲田恵利花は2つの映像作品を発表した。《eye2017》は自らの眼球を接写した映像で、その表面には夕陽やトンネルのライトが映り込んでいる。詩的な叙情性に溢れた、非常に美しい映像作品だ。一方、《ファイト》は夕暮れ時の田園風景のなかでカメラを正面に見据えて屹立する仲田が颯爽と放尿するもの。カメラを凝視する溜めの時間と決行のタイミング、ヒグラシの鳴き声や夕焼けの光、そして最後に繰り出すガッツポーズの切れ味。すべてが完全に計算され尽くしたパフォーマンス映像で、文字どおり爽快な鋭気を実感できる。女性の身体性に基づきながら男性が独占する身体技法を奪い取るという点で言えば、この作品はまぎれもなくジェンダー・アートのひとつとして位置づけられるが、かつてこれほど完璧に女性の勝利を体現した作品がほかにあっただろうか。
そして川路智博は大小さまざまな5点の水彩画を発表した。それらに通底しているのは、社会批評性というより、むしろ剥き出しの悪意。ボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》やフェルメールの《真珠の首飾りの少女》を明らかに模倣しているが、ヴィーナスと少女をいずれも豚のように描いているし、結婚式のブーケトスで新婦が背後に投げ飛ばしているのは男の生首である。しかし川路の絵画が面白いのは、底知れぬ悪意がどれだけ画面に表出していたとしても、あるいは、だからこそと言うべきか、逆説的に彼自身の絵画への愛が溢れ出ているように見えるからだ。画題が俗悪であればあるほど、水彩の淡い色調や丁寧な筆致が際立つと言ってもいい。その落差は、きわめて純粋な絵画愛を露悪的な身ぶりによって巧妙に隠蔽した高度なアイロニーに由来しているのか、あるいは愛を哲学的に探究することで、それと悪が表裏一体であることを解明した結果なのか、それともただ単に絵画の技術が未熟だからなのか、正確なところはわからない。だが純度の高い絵画愛が見る者の心を打つことだけは間違いない。
遠藤が盛んに口にしていたのは、受講生のなかから美術教育をアンインストールすることの難しさである。遠藤によれば、一度身についてしまった現代美術の作法、知識、規範が彼ら自身の表現を阻害する要因になっていることが多い。それらをいかにして相対化しながら自分自身を解放することができるのか。遠藤が心を砕いているのは、この点である。むろん、展示された作品を鑑賞するかぎり、すべての出品作家が自分自身の表現を十全に開陳できているとは言いがたい。方法を模索している途上にある者も少なくない。だが、この展覧会に立ちこめた濃厚な密度が美術大学の卒展などでは決して味わうことのできない性質のものであることは間違いない。
既成の美術教育が問題含みであることは否定できないし、それを批判することもたやすい。だが遠藤が優れているのは、それを展覧会というきわめて具体的な実践によって提示しているからだ。明治の近代化以来、日本社会に定着して久しい美術教育をアンラーニングすることの必要性。美術教育の当事者は、それが薩摩の地から発信されたことの意味をよくよく考えるべきではあるまいか。
左:中村留津子作品 右:川路智博作品
2017/11/04(土)(福住廉)