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美術工芸の半世紀 明治の万国博覧会展[III] 新たな時代へ

2017年12月01日号

会期:2017/10/21~2017/12/03

久米美術館[東京都]

幕末から明治期にかけて日本が参加した万国博覧会と美術工芸を取り上げる3回シリーズの最後は、第5回パリ万博(1900年/明治33年)とセントルイス万博(1904年/明治37年)への日本の参加を、出品された美術工芸品や久米美術館が所蔵する資料などで見る。
アール・ヌーヴォーの全盛期に開催された19世紀最後の万博となった1900年のパリ万博は、歴代のパリ万博と比べて規模、出品数、入場者数において最大規模となった。日本は法隆寺金堂をイメージした日本館を建造し、そこに791点にのぼる美術工芸品を展示している。この万博で日本は初めて美術部門に正式出品し(それまでは工芸、装飾品として扱われていた)、日本画、油画、彫塑あわせて191名の美術家が作品を寄せた。満を持しての出品だったが、評価は低かった。展示スタイルもひどかった。残された写真を見ると壁面の上部まで何段にもわたって作品がかけられており、とても鑑賞に適しているように見えない。とりわけ油彩画は凡庸との評価だった。しかしながら日本の洋画家たちはめげなかったようだ。この万博の事務官であり出品者でもあった久米桂一郎は欧米人の日本趣味をセンチメンタルと一蹴。当時パリに集った日本の洋画家たちは帰国後、自らの画業を犠牲にして美術教育、美術行政に尽くすことになったのだという(本展図録、107-109頁)。
他方で1904年に開催されたセントルイス万博は、フランスからのルイジアナ州購入100周年を記念したものだった。日本は日本庭園に平安時代の寝殿造りを模した本館、金閣寺を模した喫茶店などを設置。また二代川島甚兵衛は伊藤若冲の絵画を綴れ織りで再現して展示した「若冲の間」を制作、金賞を受賞している(この作品は閉会後にニューヨーク商工会議所に寄贈されることになったが、輸送中の船舶火災で焼失してしまった)。本展ではこのほかに第5回内国勧業博覧会(1903年/明治36年)が資料で紹介され、博覧会が商取引の場から次第に遊園地化する様子が示されている。
本展チラシに大きく取り上げられている陶器「信天翁大鉢」(1900年)は、陶磁器の絵付窯である瓢池園を創設した河原徳立が第5回パリ万博に赴いた際に日本陶磁のデザインの参考にするために買い求めたもの。第5回パリ万博では帰国後に京都高等工芸学校で教鞭をとることになる浅井忠もまた参考用の陶磁器などを購入している。折しもヨーロッパではジャポニスムが終焉を迎えて日本の工芸輸出は衰退しつつあり、まさに日本の美術工芸が新たな時代へと入ろうとしていた頃のことである。[新川徳彦]

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2017/11/17(金)(SYNK)

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