artscapeレビュー

手塚夏子/Floating Bottle『Dive into the point 点にダイブする』

2018年12月01日号

会期:2018/10/26~2018/10/28

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

おそらく、KYOTO EXPERIMENT 2018最大の問題作。今年の同芸術祭は、特に(ヨーロッパの)ダンス作品が充実しており、それぞれ「音楽」と身体表現の拮抗関係も際立っていた(ジゼル・ヴィエンヌ『CROWD』における90年代デトロイトのテクノサウンド、セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』におけるレゲエとダブ、マレーネ・モンテイロ・フレイタス『バッコスの信女―浄化へのプレリュード』におけるトランペット隊や「ボレロ」など)。では、欧米以外の地域のダンスの現在形は、何を見せてくれるのか。手塚夏子がヴェヌーリ・ペレラ(スリランカ)、ソ・ヨンラン(韓国)と結成したユニット「Floating Bottle」による本作は、エキゾティシズムの再商品化でも、現代的問題の表層的な提示でもなく、私たちの生を支配する「合理化された社会システム」そのものの「体験」を通して、「振付」の(拡張的な)概念を身体的に経験させるという意味では、現代社会/ダンス双方への批評性を多分に含んでいた。一方で、観客への強制力、「振付家・演出家」の権力性(とその隠蔽)といった点で、賛否両論が分かれるだろう。

上演開始とともに観客は、この作品が「観客も参加し、近代化のプロセスについて考える実験」であると手塚とペレラから告げられる。そして、「だるまさんが転んだ」の「ゲーム」への参加を促される。だが、「ゲームをより効率的に行なうため」と称して、度重なる「ルールの変更」がモニター越しに告げられ、ゲームは中断の度に変質していく。鬼役は「だるまさんが転んだ」と唱える代わりに、10までの数字をカウントすること。鬼の所まで前進し、捕まった人を解放する代わりに、「ゴールライン」への到達を目指すこと、といった変更だ。



手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点に ダイブする』2018 ロームシアター京都
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

次に鬼役は「ゲームリーダー」に任命され、壇上に上がり、手塚らから渡された「指示」からランダムに選んで読み上げ、観客はその指示に従うように告げられる(「右手を挙げる」「大声で笑う」「2回ジャンプする」「左を向く」の4種の指示)。さらに観客は3つの「チーム」に分けられ、たすきの色で分類され、それぞれの「チームリーダー」を多数決で選び、「合意書」への同意を要請される。「ゲームリーダー」は「指示」を壇上から出し、「チームリーダー」が監督役となって「素早く、大きく動けたメンバー」には加点として前進、「できていないメンバー」には減点として後退を命じる。メンバーが「ゴールライン」に到達すると、チームには得点が与えられ、優勝を賭けたチーム対抗戦の様相を呈していく。さらに、数字のついたゼッケンが配られ、前進/後退の指示は番号で呼ばれる。また、集団の模範役として「サブリーダー」2名が選出され、組織的管理体制がさらに強化されていく。こうして「子どもの遊戯」であったものは、権力の代行、集団の弁別、集団の利益のための個人の奉仕、対抗意識の醸成、報酬の提示、契約関係、組織化と管理体制の強化、記号化された個人の識別といったプロセスを経て変質し、企業や組織の効率的運営を至上目的として個人を徹底的に管理・統制していく「合理的な社会システム」のシミュレーションであることが分かってくる。



手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点に ダイブする』2018 ロームシアター京都
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

だが、「ゲーム」は終わる気配もなくずるずると続行し、点数の上限や制限時間も告げられない。「ゴール」と反対側の壁沿いには、楽器や雑誌、色鉛筆にスケッチブック、お面や衣装などが用意され、それらを手に取る「脱落者」も出始める。初めは観客に混じって「参加」していた手塚も、ゲームの進展は放置したまま、それらを手にウロウロ歩きまわっている。私が鑑賞した回では、「ゲームリーダー」役がとうとう「いつ終わるのか?」と口に出し、終了した。

ゲーム終了後は、車座になって意見や感想を言い合う「振り返りタイム」となった。もやもやとした不満、不快に感じたという意見、バイト先が同じ構造だという指摘、心理学の実験の参加を思い出したという感想などが出された。だが、一見民主主義的なこの時間さえも、一種の「不満の捌け口」として予め用意され、作品の一部に取り込まれていることは否めない。同様に、観客には「ゲームから降りる」選択の自由や暇つぶしの道具が与えられているが、あくまで手塚らの用意した枠組みのなかでの自由に過ぎない。



手塚夏子/Floating Bottle, Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点に ダイブする』2018 ロームシアター京都
[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]


本作で観客は、目に見える身体運動もしくはフォルムとしての「ダンス」を見る(消費する)のではなく、自身が「ゲームのルール」という「振付」によって動かされる。誰もが知る子どもの遊びという確信犯的に低いハードルから始めつつ、合理主義社会の構成員として遵守を要請される/内面化している「ルール」やシステムそのものを「振付(の拡張)」と捉え、抽象化し、私たち観客自身の「身体」に(再)体験させることで、明るみに引きずり出す。そこに、「ダンス作品の上演」としての本作の社会的意義がある。

一方、そこには批判すべき点や限界も指摘できる。全体の制度設計を行ないつつ、指示や統率といった権力の発動は第三者に委ね、自らは「モニター越し」の間接性に留まる態度は、「振付」「演出」の権力性を隠蔽しているとして批判されるべきだろう。また、ゲームの続行/終了の判断をあえて参加者に投げたことや反省的時間の設定は、(再)体験による自覚化を通して、「合理的だからこそ極めて不合理な競争と管理のシステム」にどう異議を唱え、どう終わらせるのかという議論に発展させることが、本作の真の企図であることを示していた。だが、数十分の短い時間では、本質的な議論が十分に汲み尽くされたとは言えなかった(多少「延長」されたものの、「次の演目をハシゴする観客」への配慮もあり打ち切られた)。だが、手塚らは、自身が/参加した観客が納得のいくまで議論を続けるべきだったのではないか。そのとき「ダンス」は安全な劇場で見せられる商品ではなく、変革のラディカルな力を持ったものへと変質を遂げるだろう。例えば、会場を出てカフェや路上で議論を続ける(穏当な手段)、あるいは「まだ作品の上演は終わっていない」として劇場を占拠して続ける(より過激な手段)の可能性はあった。結局、手塚らの試みは、「決められた適切な上演時間」「劇場の閉館時間」「フェスティバルの円滑な運営」という管理体制に回収されてしまい、近代以降に制度化された「劇場」「作品」のシステム自体には抗えなかった。そこに、本作の本質的な限界がある。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

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2018/10/26(金)(高嶋慈)

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