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生誕135年記念 川端龍子展—衝撃の日本画

2020年07月01日号

会期:2020/05/12~2020/06/21

広島県立美術館[広島県]

広島市内の美術館は5月中旬から再開しているのに、訪れるのがこの日になった理由は、この「川端龍子展」が6月18日まで東京からの客を受け入れなかったからだ。もちろん感染防止のためだが、会期が21日で終わるので東京の人は最後の3日間しか見られないことになる。おそらく受付で住所を確認しないだろうから黙って入ればよかったのかもしれないけど、いちおう善良な市民として解禁日まで待ったってわけ。

同展は川端龍子(1885-1966)の生誕135年を記念する回顧展。すると来年は没後55年の記念展が開けるし、再来年は生誕137年展も可能だが、誰も企画しないだろうね。あ、ちなみにぼくは長いあいだ龍子のことを女性画家だと思っていたけど、「りゅうし」という名の男ですよ。で、日本画嫌いのぼくがわざわざこれを見たいと思ったのは、日本画らしからぬブッ飛んだ発想ができる画家だからだ。チラシにも「衝撃の日本画」というサブタイトルのほか、「スケール、発想、生きざま、すべて規格外!」のコピーが踊る。

とりわけふざけてるとしか思えないのが戦争画だ。今回も超ド級の《香炉峰》が出ているが、これは中国の名山・香炉峰上空を飛ぶ日本の戦闘機を画面いっぱいに描いたもので、なんてったってサイズがほぼ原寸大の幅7メートル以上もある。しかも機体と主翼がなぜかシースルーで、下界の風景が透けて見えるのだ。いったいどういうつもりだろう? ほかにも、ここには出ていないが、青い神が巨大な魚雷を水中で発射しようとする《水雷神》や、南海を行く船団の上に太陽と三日月と南十字星が同時に描かれた《輸送船団海南島出発》など、破天荒な戦争画を残している。

こうした奇抜な発想は、もともと洋画家としてキャリアをスタートさせ、生活のために挿絵を描いていたという経験が培ったものだろう。初めから日本画の因習的な世界にどっぷり浸かっていたら、こんな発想は生まれなかったに違いない。20代後半でアメリカ旅行を果たし、帰国後いよいよ本格的に洋画家の道を進むと思いきや、なぜか日本画家に転身してしまう。ボストン美術館で《平治物語絵巻》と出会ったのが転向理由のひとつらしいが、これも中世の戦争画だ。最初は日本美術院展(院展)を発表の場にしたが、やがて破格の作品が仲間の反発を招くようになる。《龍安泉石》は京都・龍安寺の石庭を描いた四曲一双の屏風絵で、15個の石をすべて画面に収めているため、幅8メートルを超す超大作。こうした場所をとる作品を「会場芸術」といって中傷する者もいたが、これっていまの「インスタレーション」に近くね? いずれにせよほかの出品作家には迷惑がられたようだ。

こうして院展を脱退した龍子は青龍社を旗揚げ、以後亡くなるまで37年間、戦争を挟んで青龍社で発表を続けていく。そのなかでもっとも首をひねった作品が《南飛図》だ。二曲一双に8羽の雁と月、濃紺の空を描いたシンプルな絵だが、雁はすべて下を向き落下しているように見える。龍子に言わせると、地図では下が南なので雁が南下している場面を真上から見たところだというが、しかし上から見たら月と青空は見えないはず。このように辻褄が合わないのも龍子らしい。《伊豆の覇王樹》は亡くなる前年の制作で、青龍社に出した最後の作品。手前に種類の異なるサボテンを並べ、背後に大きく富士山を配しているのだが、色彩は緑青と茶、太陽の黄色だけで塗り残しも多く、誰が見ても未完成としか思えない。なぜこんなものを出品したのだろうか。

作品は初期の挿絵や青龍社のポスターも含めて100点余りで、そのほとんどが大田区立龍子記念館から借りたもの。素朴な疑問符だが、自ら建てた記念館に主要作品の大半があるということは、それらは売れなかったのか? それでなぜ立派な邸宅を構え、生前に記念館まで建てることができたのか? 答えは、ほかで稼いでいたから。やっぱり会場芸術(超大作)は売れないから、自分の記念館で見せるしかなかったのだ。

2020/06/19(金)(村田真)

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