artscapeレビュー

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌

2021年11月01日号

会期:2021/10/09~2021/11/28

東京ステーションギャラリー[東京都]

小早川秋聲(1885-1974)といえば、なんといっても《國之楯》をはじめとする戦争画で知られる日本画家。2年前、《國之楯》を中心に約40点の作品による個展が京橋の加島美術で開かれたが、京都から始まった今回の展覧会は、初期から晩年まで100余点を集めた初の大規模な回顧展となる。

小早川は鳥取県の住職の息子として生まれ、僧籍に入りながら絵を学び、国内外を問わず旅を好んだ。初期のころは武将をはじめ、郷土玩具、旅先の風景などを描いた作品が多いが、目に留まったのは日露戦争に従軍したときの《露営之図》。暗闇のなか焚き火を囲む兵士たちをシルエットで描いたもので、30年後にも同趣の画題を繰り返すことになる。20代から東洋美術研究のためたびたび中国に渡り、1920年代には念願のヨーロッパ旅行を果たし、文化交流のためアメリカにも派遣された。こうした西欧見聞の成果が端的に現われているのが《長崎へ航く》だろう。これは日本に向けて出航するオランダ船を見送る女性たちを後ろ姿で表わしたもの。日本ではなくオランダから見た視点で描くというのは、国際的視野がなければできない発想だ。

小早川の人生が大きく動くのは1930年代に入ってから。1931年に満州事変が起こると中国に派遣され、戦争画に手を染めるようになる。多くの画家が従軍するのは日中戦争が始まる1937年以降のことだから、きわめて早い。以後、かつての《露営之図》を彷彿させる《護国》をはじめ、《御旗》《護国の英霊》《虫の音》《日本刀》《業火 シンガポールの最後》《出陣の前》など数多くの戦争画を制作。なぜ西欧を見聞し、国際的視野を身につけたはずの小早川が戦争画にのめり込んでいったのか、いまから見れば理解に苦しむ。しかし、享楽的で退廃的なエコール・ド・パリで一世を風靡した藤田嗣治が戦争画に転身したのとは違い、父は光徳寺住職、母は三田藩主九鬼隆義の義妹という保守的な家に生まれた小早川にとって、国威発揚のために絵筆を振るうのは疑う余地もなく当然のことだったのかもしれない。

だが一方で、従軍中に戦死した兵士の火葬に立ち合い、読経の供養もしたという小早川は、「惨の惨たるもの之あり候」と戦争の悲惨さを嘆いてもいる。従軍画家として戦意を煽りながら、仏教徒として生命を愛おしむというジレンマ。その葛藤の狭間に生まれたのが《國之楯》ではなかったか。寄せ書きのある日章旗を顔に被せた日本兵の遺骸を描いたこの作品は、陸軍が依頼したにもかかわらず受け取りを拒否されてしまう。遺体の描写は戦意を喪失させる、というのが理由だった。

戦争初期において日本兵の死を描くことはタブーだったが、戦況が悪化するにつれ戦死者は「殉教者」に祭り上げられ、全滅は「玉砕」に読み替えられ、死体の描写などの悲惨な場面も容認されていく。しかしそれが戦意を高揚させるか、厭戦気分を増幅させるかは微妙だ。藤田嗣治の《アッツ島玉砕》は悲惨な描写ゆえに圧倒的な支持を受けたが、それはギリギリの線を狙った藤田の戦略勝ちといえる。だが小早川にはおそらく戦略などなく、ただ画家であり仏教徒でもあるという二面性がこの作品で図らずも露呈してしまったということだろう。

戦後、小早川は戦争に協力したことを反省し、《國之楯》の遺体の上に散っていた桜を塗りつぶしてしまう。少しでも愛国的な要素を消そうとしたのだろう。そのため現在ではこれを「反戦画」として見直す人もいるそうだが、頭上と身体全体にうっすらと光輪をかぶせることで、遺体を「英霊」として聖化させていることは否定できない。戦後は戦争画を描いた画家としてその画業は忘れられていたが、半世紀たって《國之楯》が掘り起こされ、再び美術史に浮上して今回の回顧展につながったのだから、まことに戦争と美術の関係は一筋縄ではいかないものだ。

関連レビュー

小早川秋聲─無限のひろがりと寂けさと─|村田真:artscapeレビュー(2019年10月01日号)

2021/10/19(火)(村田真)

2021年11月01日号の
artscapeレビュー