artscapeレビュー

金沢ナイトミュージアム2022 永田康祐個展「Feasting Wild」@karch

2023年03月01日号

会期:2022/09/10~2022/09/19

karch[石川県]

半地下のレストランに入って席に案内されると、机の上のナプキンには紙片が置いてあった。本稿で扱う永田康祐によるパフォーマンス「Feasting Wild」は、スペインのレストラン「エル・ブジ」のシェフ、フェラン・アドリアによるコンセプチュアル・キュイジーヌ以降のコース料理の提供の形式に則っている。

具体的には、2時間半ほどをかけて10品の料理がサーブされた。フィンガーフードが3品、そのあとに温前菜、冷前菜、リゾット、魚料理、肉料理、そして皿盛りのデザートが2皿、さらに料理とペアリングされた手製のノンアルコールドリンク5杯で構成されている。この構成は世界中のそこかしこで楽しまれている料理形式だといえるだろう。

先述したコンセプチュアル・キュイジーヌとは、アドリアがコンセプチュアル・アートを念頭に自身の活動を説明した言葉だ。アドリアは「エル・ブジ」でフランス料理を経たスペイン料理の再解釈から始め、次第に、異文化との衝突による味や食材の組み合わせの新規性ではなく、物事のあり方や考え方をすべてを刷新してしまうような「新しい」概念の創造をそこで目指すようになっていった。アドリア(=「モダニズム料理」あるいは「分子料理」)に影響を受けたそれ以降の料理を人類学者の藤田周は「現代料理」と呼ぶ。わたしはその現代料理を、フランス料理を骨子としたグローバルな言語をもってそれぞれの土地や諸文化に根ざしたヴァナキュラーな料理を他者や当事者にわからせるということであり、のまれ合うというその方法、あり方自体の開発が目指された料理形式だと捉えている。この時代の流れから考えたとき、永田の本作にはコンセプチュアル・キュイジーヌにとっての「新しさ」と現代料理における方法論が同居している。


永田康祐「Feasting Wild」@karch[撮影:奥祐司]


わたしは料理についての話をしていたのだが、ここでボリス・グロイスが論じるところの「新しさ」が頭をよぎる。現代美術における新しさとは、美術館にどう持ち込まれたのかなのだと歴史を語るその言葉を反芻してみよう。永田は美術館ではなく、karchという常日頃からレストランである場所でのポップアップとして、あるいは展覧会としてディナーコースを提供する。じゃあこの場合、何が新しいのか。ただ美術家として、アートワールドに向けたプレスリリースを打ち、展覧会と銘打ってフルコースディナーを作家が調理場でつくり込んでいることが新しいのだろうか。はたしてこれは現代美術による諸文化の剽窃行為なのだろうか。

いよいよパフォーマンスが始まる。作家である永田からは、本日のあらましと料理がセクションごとに分かれていて、セクションごとに名前が付けられているという立て付けについて、そしてキュレーターの金谷亜祐美からは、本展では永田が書き下ろした提供料理についてのキャプションが都度配られるといった説明があった。永田がキッチンにせわしなく戻る。料理の提供が始まる。美味しい。ここで振舞われたコースの料理の品目を提供順に記しておこう。

フィンガーフードの3品は「手つかずの自然」と題され、それぞれ「鰹 フルムダンベール」、「鶏肝 牛蒡 山桑」、「猪」で構成されている。前菜は「家畜」というセクションで、茶碗蒸しのような温前菜「蚕 銀杏 真桑」と「三倍体真牡蠣 ホエイ 林檎」の冷前菜が提供された。次は「他者としての自然」という「みき粕 蜜蜂花粉ガルム 豚」のリゾット。

メインに入っていく。「野良になる」では魚料理「鯰 加賀太胡瓜 ディル」が、「条件付きの野生」では肉料理「放牧牛 九条葱 万願寺唐辛子」が、「荒れ地より」ではデザート2品、「麹 みき 梅 メロン」と「紅葉苺 グレープフルーツ サワークリーム 都市養蜂蜂蜜」がサーブされた。

料理を即物的な品名で書く方法は現代料理の常套手段である。調理方法ではなく、だれが生産したどのようなものを使用するのか。その生産について、遡ることができる土地の情報を開示する。脱作家主義といってもいい。

この点において、即物的な永田のお品書きはその作法に則っている。のだが、ここでレストランからずれる紙片の提供が始まる。おいしい、おいしいと猪肉のコロッケを食べる。たっぷりとした鶏のムースの上に金沢の白山で作家が収穫した山桑のジャムがのったものをパクっと食べる。ナスタチウムがピリっとしてチーズと鰹のくさみがつなぎになったタルトを食べる。永田による書き下ろしや引用で編まれた紙片が細切れに届く(最後にはおよそ39ページになった)。

料理を食べたり待っている間に紙片を読む。そこには料理のつくり方と食材について書かれていた。例えば「鶏肝 牛蒡 山桑」には真桑が養蚕の日本への渡来とともに1000年にかけて山桑と交雑した歴史と作者の採集行為について。「鰹 フルムダンベール」には動物性食材の旬の概念が人間にとっての美味さによって規定されているという状況について書かれている。白眉は「三倍体真牡蠣 ホエイ 林檎」だろう。牡蠣とホエイがタピオカとからまり、牡蠣にのったすり下ろされた林檎の冷凍ピクルスが酸味と甘味を付与する。真牡蠣といえば9月は産卵期を過ぎたばかりで旬ではないはずだが、プリっとして食べ応えがあり、牡蠣の濃厚な味わいとホエイとピクルスの酸味のバリエーションとともに何個でも欲しくなる一品だった。キャプションには次のように書かれている。「三倍体牡蠣は、受精卵に操作を加え、産卵できなくさせることによって、通年で見瘦せせず……旬の概念を失った(常に旬ともいえる)牡蠣です」。


永田康祐「Feasting Wild」@karch[撮影:奥祐司]


永田康祐「Feasting Wild」@karch[撮影:奥祐司]


うまい、うまいと唸りながら、この感性が生じるようにどうしてなったのか。そこにどのような技術や文化があるのだろうか。料理という一皿での構成、コースという連なり、生産、偶然、あるいは開発。前衛以降の現代美術が脱技術化を既存世界の破壊の主要な手法とするときに、就学や修行を経た技術ありきの「レストラン」は一瞬「現代美術」から遠いものに思えるかもしれない。しかし、料理における模索にもまた同時代的な事象が存在することは純然たる事実である。

永田の本作は、「エル・ブジ」以降の現代料理、例えば、その土地で食材を採集するところから始め、北欧料理をゼロからつくり上げた「NOMA」、脱即物性としての料理という意味では「CENTRAL」からの影響と応答が窺える。「美味いは正義」という脱イデオロギーの顔をしたものに潜む人間の欲望に輪郭を与え、「野生を食べる」といったときの「野生」、すなわち、あらゆる自然という概念を対立項にもつものを崩そうとする本作は、現代美術における「新しさ」のつくり方に、グロイスとは異なる解答を提出するものだろう。

本展はネットでの事前予約を経て1万2000円で鑑賞可能でした。


★──現代料理をはじめとした潮流と芸術については以下が詳しい。
藤田周「食とアート:アートとしての現代料理を楽しむために【シリーズ】〇〇とアート(6)」(『Tokyo Art Beat』、2022.2.11)2023.2.23閲覧(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/food_and_art



公式サイト(金沢ナイトミュージアム2022/主催:NPO法人金沢アートグミ):https://www.nightkanazawa.com/2022/09/feasting-wild.php

2022/09/18(日)(きりとりめでる)

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