artscapeレビュー
ジェシカ・ワイン『数学者たちの黒板』
2023年10月15日号
翻訳:徳田功
発行所:草思社
発行日:2023/07/20
先日、仕事で中国・北京に滞在したおりに、クリストファー・ノーランの新作『オッペンハイマー』(2023)を観る機会があった。原爆の父ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)を主人公とするこの伝記映画は、2023年9月末日現在、いまだ日本公開の目処が立っていないことで知られる。あくまで憶測の域を出ないとはいえ、その理由は、日本が世界で唯一の被爆国──というより、この映画で開発される原子爆弾の投下された国──であるという事実と無関係ではないだろう。さらに、SNS上で物議を醸した「バーベンハイマー」現象の余波もあり、同作は映画としての内容以前に、公開前から──良くも悪くも──高い注目を集めている。
ここでその『オッペンハイマー』について詳しく語るつもりはないが、個人的にこの映画で印象的だった要素のひとつが、物語中つねに大きな存在感を示す「黒板」の存在だった。知られるように、理論物理学者であったオッペンハイマーが「原爆の父」と言われるのは、かれが原爆開発を目的とするマンハッタン計画で主導的な役割を担った人物だからである。そんな科学者を主人公とする映画とあらば自然なことだが、本作には前途有望な若きオッペンハイマー博士が黒板を背に講義する場面が頻繁に登場する。そして、やがて始まるマンハッタン計画のために集った科学者たちの議論もまた、いつも複雑な式をともなった黒板を背になされるのだ。科学者たちが集まるところ、つねに黒板がある──。この事実は、やはり本作品の主要な部分を占める政治的な弁論(公聴会)の場面が口頭でのやりとりに終始するのと、どこか対照的である。
そんな特異な媒体としての黒板に着目したのが、写真家ジェシカ・ワイン(1972-)による「Do Not Erase」というプロジェクトだ。本書『数学者たちの黒板』は、このプロジェクトをもとにした作家初のモノグラフであり、原著は2021年にプリンストン大学出版局から上梓されている。
本書に収められた109枚の写真は、いずれも数学者たちの黒板を写しとったものだ。教室や研究室のものと思しき黒板には、個性豊かな図や数式が描かれており、どれひとつとして同じものはない。これを書いているわたしも含め、その内容を十全に理解できる者はほとんどいないだろうから、大多数の読者はこれを、ひとつのタブローとして把握することになるだろう。
その黒板の写真には、それぞれのタブローの「作者」である数学者たちの短いエセーが添えられている。これらもまた、写真に劣らず興味深いものばかりだ。とはいえ、その内容は人によってさまざまで、自分が数学の道に足を踏み入れた経緯について語る者、おのれの研究にとっての黒板の重要性について語る者、あるいは数学の愉しみをここぞとばかりに語る者など、個性豊かな100本あまりのエセーが写真の「キャプション」として並ぶ。
なかでも、これらのエセーには共通する一定の特徴がある。まず、本書に登場する数学者たちが総じて強調するのは、コミュニケーションの手段としての黒板の重要性である。ごく当たり前のことだが、PCやノートと比べてはるかに大きな面積を有する黒板は、その場に集まった複数の人間が即座に同じ情報を共有するのに適している。また、スクリーンに投影されたスライドなどとは異なり、その場で──原理的には──誰もが気軽に加筆・修正できるという点でも優れている。本書のもとになったプロジェクトが新型コロナウイルスの流行期に重なったという事情もあってか、本書に登場する複数の数学者が、オンラインでの議論では同じ成果が得られないとこぼしているのも印象的だ。
なかには、ウィルフリッド・ガンボやシミオン・フィリプのように、黒板がもたらす「遅さ」の重要性を強調する者もいる。講義や研究発表のさいに黒板を使用するとなれば、あらかじめ準備した資料にもとづいて内容を説明するよりも、ゆっくりとしたペースにならざるをえない。しかしそのことが結果的に、はじめてその内容にふれる他者の理解を促進する結果につながる、というのだ(20、82頁)。あるいはロネン・ムカメルが指摘するように、黒板を用いた講義や研究発表は「人間の思考の速さで行われる」がゆえに、「準備不足のパワーポイント」などよりもはるかにその優劣を浮き彫りにするだろう(78頁)。
かれら数学者のなかには、黒板のもつ物質性に大きな偏愛を抱く者が少なくない。例えば、本書のはじめに登場するフィリップ・ミシェルのエセーはこんなふうに始まる──「黒板は数学の研究をする生活の基本要素だ。10年前にローザンヌの職場に着いて私が最初にしたのは、悪臭のする赤いペンの置かれた醜いホワイトボードを、本物の黒板と交換するように手配したことだった」(12頁)。このような〈黒板≠ホワイトボード〉という考えかたは、アラン・コンヌ(54頁)、エスター・リフキン(152頁)、ジョン・モーガン(192頁)らも共有するところである。
他方、アミー・ウィルキンソンのように、黒板で数学の研究をすることが「触覚的な経験」(14頁)だと言う者もいる。かと思えば、フィリップ・オーディングのように、指導教員のオフィスにあったスレート製の黒板でチョークが奏でる、不思議なほど「一様な音」について語る者もいる(30頁)。黒板は視覚的なメディアであるにとどまらず、触覚的、聴覚的なメディアでもあるのだ。
本書にはまた、2015年に廃業した日本のメーカー・羽衣文具の栄光が書き留められていることも特筆しておきたい。前出のフィリップ・ミシェルは次のように言う──「滑らかに、途切れることなく書き込むには、上質のチョークも重要だ。特に感動したのは、ある年にクリスマス休暇から戻った博士研究員が、伝説的な日本の『ハゴロモ・フルタッチ・チョーク』を2箱持ってきてくれたときだった」(12頁)。羽衣文具のフルタッチ・チョークは数学者のあいだでは知られた逸品であったらしく、同社の廃業のさいには世界中の数学者による買い占めが起こったという。バッサム・ファヤドが言う「日本製の上質のチョーク」というのも、おそらくこの羽衣チョークのことだろう(156頁)。
昨今、大学の内外における講義や研究発表のほとんどは、Microsoftのパワーポイントをはじめとするデジタルツールによって行なわれている。本書はそうした世の趨勢に対し、実のある説明や議論をするには、黒板というオールドメディアが必要であることを高らかに唱える。それは、おそらく本書の主題である数学に限った話ではなく、新たなアイデアを生み出そうとするあらゆる分野の仕事に当てはまるだろう。本書に登場する数学者たちは、真に創造的な仕事のためには、黒板のような物質的抵抗をともなったメディアが必要であることを示唆しているように思われる。
2023/10/05(木)(星野太)