artscapeレビュー
山﨑健太のレビュー/プレビュー
ゲッコーパレード『(タイトルなし)』
会期:2020/05/25~2020/05/31ごろ
「コロナ禍のお見舞い申し上げます」。5月某日、郵便受けに届いた一通のハガキにはどぎついイエローのインクでこう書かれていた。差出人はゲッコーパレード。「現在のように人が集まることができない、演劇の上演という文化活動が休止する時期に行う新たな活動の軸」としての「最初の一歩となる小さな作品」がこのハガキということらしい。ウェブ上のフォームから申し込むと自宅(など)にこの作品が届くシステムだ。手元に届く数日前からTwitterの私のタイムラインにはすでにこの作品を手にしたらしき人の感想がちらほら見られ、しかしそれらは押し並べて不穏なものだった。実際、届いたハガキの文面は定型的な「お見舞い」でありながら、イエローのインクは狂気じみていて、不気味以外の何物でもない。どことなく不幸の手紙を思わせさえする。
作品の申し込みに対する返信メールには「届いた作品の写真や映像をアップロードすることはお控えください」と書かれていて、私の見た範囲ではそれは律儀に守られていた。一方で「この小さな作品の説明や感想などをSNS等に投稿いただけるとありがたいです」とも書かれており、おそらくは作品が届くのが遅い方だった私は、タイムラインを通して得体の知れない何かが「近づいて」くる気配だけを感じる数日間を過ごしたのだった。
そしてそれは実際に近づいてくることになる。数日後、二通目のハガキ。文面はまったく同じ。しかし文字は紙面いっぱいに書きつけられ余白は消失している。ある箇所には盛り上がって見えるほどにインクが塗り付けられ、ある箇所では筆の毛先が感じられるほどインクが掠れている。見た目からして明らかに逸脱している。そして三通目。半ば予感していた通り、それは黄色一色に塗り潰されていた。
文字通り(いや、もはや文字はないのだが)意味不明な黄色い平面と化したハガキを見ながら私が思い出したのは「メリーさんの電話」という都市伝説だ。メリーという人形を捨てた少女に電話がかかってくる。「私メリーさん。いま、ゴミ捨て場にいるの」。その後も電話は繰り返しかかってきて、そのたびに彼女は近づいてきている。最後の電話で告げられるのは「私メリーさん。いま、あなたの後ろにいるの」という言葉だ。近づくことが忌避される時期に企まれた、近づく恐怖(?)の上演。
ところで、最後のハガキの表面にはQRコードが付されていて、ゲッコーパレードからのコメントにアクセスできるようになっている。そこで明かされるのは、作品に「明確な違いを持つ幾つかの種類が存在」するという事実だ。劇場で観客として演劇を観る場合、少なくとも同じ回の客席に座るほかの観客と私は同じ作品を観ていて、そのことを疑うことはない。だが、劇場に行くことができない状況下での演劇的試みの多くは、観客それぞれの自宅で鑑賞されることを前提としている。このとき、私はほかの観客と本当に同じ作品を観ていると言い切れるのだろうか。私はネタバラシの文章を読むまで、てっきりほかの「観客」にも同じハガキが届いているものと思い込んでいた。
ちなみに知人によると、赤いインクでメッセージが書かれているバージョンが存在しているらしい。真っ赤に塗りつぶされたハガキを郵便受けに発見するところを想像し、黄色でよかったとほっとするような、惜しくもあるような。
最後の一通がアベノマスクと同じ日に届いたのは出来すぎだった。
公式サイト:https://geckoparade.com/
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2020/06/02(火)(山﨑健太)
ロロ「窓辺」 第2話『ホームシアター』
会期:2020/05/22~2020/05/24
ロロによる連作短編通話劇「窓辺」の第2話は『ホームシアター』。編集者の羽柴夕(森本華)が自宅で仕事をしていると見知らぬ女性(島田桃子)からビデオ電話がかかってくる。春野紺と名乗る彼女は夕の高校時代の同級生だという。なかなか思い当たらない夕だったが、話しているうちにようやく彼女のことを思い出す。高校時代、夕が学校の自販機でカロリーメイトを買おうとして小銭が足りず、たまたま後ろにいて20円を借りた相手が紺だった。彼女は自分は実は半年前に死んでしまっていて、いまこうして話しているのはただの映像、生きていた頃の記憶の蓄積でできた人工知能なのだと言い出す。だから、もう返してもらえない20円の代わりに、自分が秋乃から借りたままの消しゴムを返してほしいのだと──。
第1話『ちかくに2つのたのしい窓』と「秋乃」という名前でつながりつつ「リアル」だった第1話から一転、ファンタジーともSFとも(ホラーとも?)つかない超現実的な設定が(しかしさらりと)盛り込まれた第2話。黒地に「ホームシアター」と白い文字が浮かぶ画面越しに「おーい、聞こえますかー」と声が聞こえるオープニングはビデオ通話というよりは映像作品のそれだ。
紺は人工知能の自分には夕から見える画面が世界の全部だと言い、夕の画面の外にあるものを知りたがる。コンセント、壁掛け時計、カレンダーと数え上げていく夕。だが、たとえ死んでいなかったとしても、人は一緒にいる時間の外側の世界を共有することはできない。夕は紺自身に知らされるまで彼女の死を知らなかった。紺は夕が結婚していることを知らなかった。離れている人はそこには「いない」。
だが、いまそこにいなかったとしても、紺の存在がなかったことになるわけではない。夕はかつてカロリーメイトはチョコ味しか食べなかったのだが、紺とのやりとりがきっかけでフルーツ味を食べるようになる。それはいままさに夕がパソコンの前でかじっているものだ。紺の存在は夕が手にするカロリーメイトのなかにある。それどころか、カロリーメイトのそのフルーツ味こそがまさに、紺の呼び声を夕に届かせたものかもしれない。たとえ覚えていなかったとしても、いまの夕を形づくるものの一部は紺がもたらしたものだ。
「怖がらないで、バーチャルYouTuberみたいなものだから」という紺の存在はたしかにフィクションのキャラクターめいたところがあり、そう考えるといかにもフィクション然としたオープニングの演出もうなずける。「おーい」と聞こえてくるのはフィクションからの呼び声でもあったのだ。タイトルバックに声だけが聞こえ、夕の姿が映し出されるまでの短い間、それは観客の私への呼びかけのように響く。
誰かとの、何かとの出会いが人を変え、形づくっていく。それはロロ/三浦直之が繰り返し描き続けてきたこの世の理だ。だから、エンディングで呼びかけが繰り返されるのもまた必然だろう。渡されたバトンは次へとつながっていく。誰かから受け取ったものはまた別の誰かへ、別のかたちで手渡される。フィクションから受け取ったものはまた別のフィクションへと生まれ変わる。そういえば、紺が数え上げるもののなかには『ブレードランナー』や『her』といったタイトルもあった。呼びかける声はそうしてどこまでも連なっていく。夕と秋乃はどのようにつながるのだろうか。「窓辺」第3話は6月中旬の上演が予定されている。
公式サイト:http://loloweb.jp/
ロロ『窓辺』:https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5
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2020/05/22(土)(山﨑健太)
Q オンライン版 『妖精の問題』
会期:2020/05/16~2020/05/17
今回「オンライン版」として上演された『妖精の問題』はQの代表作のひとつ。2017年にこまばアゴラ劇場で初演されて以降、横浜、京都、ニューヨークと再演され、2020年4月には白水社から刊行された市原佐都子の初の戯曲集『バッコスの信女─ホルスタインの雌』に戯曲が収録された。戯曲は落語による一部「ブス」、歌唱による二部「ゴキブリ」、セミナー形式の三部「マングルト」の三部構成で、もともとは俳優・竹中香子による(ほぼ)ひとり芝居として上演されたもの。今回は戯曲はほぼそのままに複数の新たなキャストを迎え、オンライン用に再構成しての上演となった。
一部「ブス」は互いにそう認め合うふたりの「ブス」の学生(寺田華佳、遠藤早菜)のオンラインでの会話を描く。近づく選挙では逆瀬川志賀子率いる「不自然撲滅党」が話題を集めているらしい。彼女は平均(美男美女)から外れた顔を持つ人間は死ぬべきだと主張する。「ブス」の一方は平均から外れた自分は「天才」だから整形して「完璧の人類」として生きていくと言い、もう一方は迷惑な「ブス」は子孫を残すべきではないし自分は「一刻も早く消えてほしい」と言う。
二部「ゴキブリ」で描かれるのは家に出るゴキブリに悩まされるある夫婦(西田夏奈子、日髙啓介)。ある日、夫が大量に焚いたバルサンを妻が吸ってしまい、胎児に「異常」が見つかる。一方その後、家には「異常のあるゴキブリ」がしぶとく生き残っているのであった。
三部「マングルト」は女性器に棲息するデーデルライン桿菌で作ったヨーグルトを使った健康法(?)についてのセミナー。講師(竹中香子)と助手(山根瑶梨)が「マングルト」をはじめた淑子先生(山村崇子)のエピソードを交えつつマングルトのつくり方や効能を観客にレクチャーしていく。
タイトルの「妖精」が示すのは「見えない(ことにされている)もの」。三部に共通するものとしてたとえば「遺伝子」を挙げてみることもできるが、いじめの常套手段である「無視」や人前で口に出すことを避けがちな「女性器」など、「見えない(ことにされている)もの」というキーワードの射程は広い。市原は『バッコスの信女─ホルスタインの雌』のあとがきで「自分のなかにある優生思想」に言及しており、なかなかに直視しがたいそれ=「見えない(ことにされている)もの」に対峙させられる凄みがこの作品にはある。
Zoomを使ったオンラインでの上演としてもよくできた作品だった。もともとほとんどがモノローグで構成されている作品のため俳優が正面を向いてしゃべり続けていてもさほど違和感がなく、Zoomと相性がよかったというのもある。だが、一部はオンライン通話、二部はミュージカル調の映像作品、三部は観客も巻き込んでのオンラインセミナーと、同じ画面を使いつつ形式をずらし、バーチャル背景やアンケートなどZoomの機能もフルに活用しての上演は形式への貪欲な探究と演出の巧みさの賜物だろう。
しかしそれでも、作品の出来不出来とは異なるところで、この戯曲はやはり劇場で上演されるべきものだという印象も受けた。市原が「自分のなかにある優生思想」と向き合うところから生まれたという『妖精の問題』にはもともと危ういところがある。一部における「ブス」、二部における「異常」はそれぞれ、ラストに至ってプラスの価値を持つものへと反転するようにも思える。だがそれはけっして広い意味での「役に立つ」という尺度から抜け出るものではない。大きな意味でのパラダイムの転換は起きていない。だからこそ、観客がそれをどう受け取るかが、さらに言えば、同じ客席で作品を受け取る「世間」としてのほかの観客の存在が重要になってくる。
三部にしても同様だ。女性が女性器名を連呼するのを聞く(特に男性の)観客の多くは居心地の悪い思いをするのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。そしてそれはほかの(特に女性の)観客とともに客席に座る劇場においてより強く生じる感覚だろう。劇場での竹中香子の怪演にもそこで語られる言葉を容易に飲み込むことを許さない迫力があった。ひとり芝居として竹中が複数の人物を演じるという形式も、容易には割り切れない感情や価値観を体現するのにふさわしいものだった。オンライン版は巧みだった分、全体はマイルドで受け取りやすいものになっていた。それは悪いことではない。そうでなければ画面の前での130分は耐えられなかったとも思う。だが、自分とは異なる価値観を持つかもしれないほかの人間の存在が想定されなくなったとき、「舞台」上での差別的言動や性の解放は容易に娯楽として消費されるだろう。私はまだ、自分を含めた日本の観客をそこまで信用できない。
公式サイト:http://qqq-qqq-qqq.com/
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2020/05/16(土)(山﨑健太)
dracom『STAY WITH ROOM』
会期:2020/04/11〜
『STAY WITH ROOM』はdracomによる音声作品。2020年6月までに【Prologue】、【1】、【2】、【3】の4本とdracomのリーダー筒井潤ソロ名義での特別編『ずっと、いたんだよ』が公開されている。この作品の面白さについては出オチ的な側面も強いので、レビューの続きを読む前にぜひ作品本編を鑑賞していただきたい。【Prologue】は約6分と短め、もっとも長い特別編でも約13分となっている。
タイトルが示唆する通り、『STAY WITH ROOM』はステイホームが叫ばれるなか、「部屋にいること」そのものに焦点をあてた作品だ。5本の作品はいずれもYouTubeで公開されていて、本編が始まる前には「スピーカーを使用した、微かに聴こえるほどの小音量」と「フルスクリーン再生」が推奨する鑑賞方法であるとの注意書きが表示される。音声作品であるにもかかわらず「フルスクリーン再生」が推奨されているのは、ディスプレイがオフになっているかのような状態をつくり出すためだろう。タイトルが表示されると画面はゆっくりと溶暗し、以降、画面は黒一色となる。
「こっち見て」「こっちこっち」「こっちだって」「わからない?」と囁く声はまるで鑑賞者である私のことを知っているかのような口ぶり。「たまにはこっちを見て」というその何者かの正体は「あなたの部屋」だ。【Prologue】は「見てくれてない」「だからたまには見て」という部屋がしばしの沈黙の後、「ちゃんと見てる?」と再び問いかけるところで終わる。
部屋が語りかけてくるというワンアイデアが作品として成立するのは、ユーモラスな語り口とアイデアをシリーズとして転がす機知のなせるワザだろう。そこにはしかし部屋の存在論とでも呼ぶべき哲学的(?)問いも孕まれている。【1】の冒頭は【Prologue】のラストを反復するように始まるのだが、「見て、じーっと、部屋を」という言葉に従って自室を眺めていた私は続く「違う、こっちじゃない」「それは壁」という言葉で思わず笑ってしまった。なるほど確かに私が見ていたのは壁だった。しかしそれでは「部屋を見る」とはいかなることか。部屋の内部にいながらにしてそれは可能なことだろうか。
オンラインを使って演劇を成立させようとするとき、鍵となるのは観客の想像力だろう。いかなるかたちであれ、観客が作品を鑑賞している現実だけはリアルタイム=生のものであり、そこに演劇を立ち上げる契機がある。『STAY WITH ROOM』はパソコンのディスプレイがオフになっている状態を擬態しつつ「声」だけを聞かせることで、観客のいる部屋を「俳優」に仕立て上げる。このとき部屋は俳優であると同時に劇場でもあるわけだ。
だが、「違う」「それは壁」という「部屋」の言葉は観客の想像力をはぐらかす。生真面目な観客は、それが「演劇」的なものだとわかっているからこそ、聞こえてくる言葉を「部屋」が語るそれとして受け取ろうとするだろう。だが、「私が見ているこの部屋が語っているのだ」という観客の想像は、部屋の「違う」「それは壁」という言葉で否定されてしまう。つまり声は、観客が想定していたのとは違うところから聞こえてきているのだということになる。ここには何か、単に部屋が語っているのだと想像するのとは違う、よりいっそう演劇的なものがありはしないだろうか。
公式サイト:http://dracom-pag.org/
dracom『STAY WITH ROOM【Prologue】』:https://www.youtube.com/watch?v=iSaFRU4PKO4
2020/05/10(日)(山﨑健太)
ロロ「窓辺」 第1話『ちかくに2つのたのしい窓』
会期:2020/04/19~2020/04/25
ロロが新たに立ち上げたシリーズ「窓辺」は、離れた土地で暮らす人たちのあるひと晩のビデオ電話を切り取った連作短編通話劇。すでに4月に第1話『ちかくに2つのたのしい窓』が上演され、5月22日(金)〜24日(土)には第2話『ホームシアター』の、6月上旬には第3話の上演も予定されている。YouTubeLiveを使った生配信形式の作品は「ビデオ通話」というシンプルなシチュエーションを用いながら、劇場で上演されてきたこれまでのロロの本公演や「いつ高」シリーズと同じく「いまここに(い)ないもの」への想いをかき立てる。いや、そこには「いまここにいないもの」とつながることを可能にしながらも不十分でしかあり得ないビデオ通話だからこその親密さとさみしさがあった。
さて、ここからは作品内容に触れるが、第1話『ちかくに2つのたのしい窓』は第2話の上演に先立つ5月21日(木)に再演が予定されている。未見の方は続きを読む前にぜひ再演をご覧いただきたい。
『ちかくに2つのたのしい窓』で描かれるのは宮城県に住む村田秋乃と東京都在住の川岸風太の通話。会話は仕事から帰ってきた旧友同士のそれとして始まるが、やがて風太はパートナーと別れてきたことを秋乃に告げる。どうやら風太と秋乃は想いを寄せ合っているらしい。しかし二人の気持ちが完全に一致するわけではない。秋乃は風太にもっと宮城に帰ってくればいいのにと言うが、秋乃はそんなに気軽に新幹線は使えないと言い返す。問題は距離だけでない。それぞれが置かれている状況の違いはなかなか見えづらく、ときに相手を傷つけてしまうこともある。
ロロとしては珍しく、直接にエロティックな場面があったのが印象的だ。ビデオ通話の画面越しに触れ合う二人。風太のスマホは画面がひび割れているらしく、画面に映る秋乃のくちびるにも細かい傷があると風太はそれをなぞる。当然、観客にそのひび割れは見えないのだが、だからこそ観客は風太のなぞる指先を改めて想像する。それを受けて照れてみせる秋乃の想像は観客のそれと重なり合っているだろう。
ところで、秋乃と風太はそれぞれロロのメンバーの亀島一徳と篠崎大悟が演じていて、設定にも二人が男性であることがはっきりと記されている。セックスするかどうかについてのセリフもあるにはあるのだが、二人の関係がどのようなものであるのかがはっきりと語られるわけではない。ロロ/三浦直之はこれまでの作品でも既存の枠組みに捉われない関係の結び方を描いてきた。本作では、単に男性同士のパートナー関係を描くのではなく、二人の人間が結ぶ関係が本来どのようなかたちにでも開かれているということを描いている。秋乃と風太との間で互いへの想いが一致しているかどうかはわからないし、その必要もない。二人の関係はこれからまた変わってもいくだろう。画面越しに触れ合いE.T.の真似をするふたりが何度も繰り返す「ともだち」という言葉はそのたびに違って聞こえる。
自分とは、いまとは違う「普通」を想像すること。それもまた「いまここにないもの」への想像力だ。そこには「いまここ」を未来へと開いていく可能性がある。
公式サイト:http://loloweb.jp/
ロロ『窓辺』:https://note.com/llo88oll/n/nb7179ad5e3a5
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2020/04/19(日)(山﨑健太)