artscapeレビュー

山﨑健太のレビュー/プレビュー

ドナルカ・パッカーン『野獣降臨』

会期:2020/07/22~2020/07/26

萬劇場[東京都]

コロナ禍の最中、いかなる戯曲を上演するか。戯曲を上演するという演劇の「方法」は、過去のアーカイブに現在を照らし合わせることで歴史から反省を(あるいは無反省を)引き出すことに優れている。演出家の仕事が上演の結構を整えることにあることは確かだが、その前段階として上演する戯曲を選択することもまた演出家の仕事であり、その腕の見せ所であると言えるだろう。

演出家・川口典成の個人企画「ドナルカ・パッカーン」が今回「緊急上演」したのは野田秀樹が1983年に第27回岸田國士戯曲賞を受賞した『野獣降臨』。伝染病を描いた本作は「野獣降臨」と書いて「ノケモノキタリテ」と読むことからも明らかなように差別を描いた作品でもある。コロナ禍の日本においては残念ながらさまざまな差別の問題が顕在化/激化しており、伝染病と差別を描いた本作の上演はきわめてアクチュアルなものとして現在に立ち上がってくる。

[撮影:三浦麻旅子]

ほかの多くの野田戯曲と同じように、本作もまた複数の筋と場面が混線し時空間も行きつ戻りつしながら進行していくため、ひと口にあらすじを紹介することは難しいのだが、大まかに言えば二つの物語がDNAの二重螺旋のように絡み合いながら進行し(あるいは退行し?)ていく。ひとつはあばら骨を一本失ってしまったボクサー・アポロ獣一(鎌内聡)の物語。それは地球と人の物語だ。もう一方は月と獣の物語。アポロ11という音をよすがに舞台は月へとジャンプする。獣を人のように変えてしまう伝染病を媒介するという月の兎(那須野恵/人形遣い:海老沢栄)を追う伝染病研究所の所長(丸尾聡)をはじめとする人々。しかし同じように地球では、人を獣のように変えてしまう伝染病が広がっているのだった。獣一が「獣のハジメ」と名乗るように人は獣へ獣は人へ、しりとりがごとく互いの尻にかじりつく。

たとえとしてDNAの二重螺旋をわざわざ持ち出したのは、それこそがこの戯曲の核となる構造だからだ。24本ある人間の肋骨を獣一は一本失い、残ったのは23本。それは人間が持つ46本の染色体のちょうど半分にあたる。人間は両親から23本ずつの染色体を受け継いで一人前のヒトとなる。だからこそ獣一と月の兎はそれぞれ半人前でしかなく、半人+半獣=地球+月でようやく一人前の物語が紡がれることになるのだ。

[撮影:三浦麻旅子]

戯曲の核に置かれたDNAの構造は伝染病や差別のモチーフとも呼応する。いずれもしばしばその「起源」が問題とされるが(「武漢ウイルス」なるWHOのガイドラインを無視した呼称を思い起こされたい)それはしばしば正統性への執着と裏表の関係にある(管見の範囲では「武漢ウイルス」という呼称を用いた人々とネトウヨと呼ばれる人々は重なっていた)。「宇宙家族アポロは、原始家族と背中合わせの双なりでございます」というセリフは過去(=原始家族)=起源と未来(=宇宙家族)=その結末とが切り離せないものであることを示している。野田はこの作品を「被差別民族」の物語だと明言したそうだが、しかし獣一たち宇宙家族=原始家族はときに聖家族と呼ばれ、物語の結末に至ってその「起源」がイザナギとイザナミの間に生まれた水蛭子にあったらしきことが示唆される。かつて現人神と呼ばれた天皇に一般的な意味での基本的人権は認められていない。差別と正統(性への執着)は表裏一体であり、この戯曲がもっともアクチュアルなのはその点だろう。『野獣降臨』は日本(人)の宿痾を鋭く抉り出す。

[撮影:三浦麻旅子]

川口は萬劇場がいち早く新型コロナウイルスへの対策を明示したことを受けて公演会場に選んだという。会場の入り口では検温、手洗い、手指靴底の消毒が行なわれ、一席おきに指定された客席はビニールシートで仕切られていた。宇宙飛行士/伝染病研究所所員を演じる俳優たちはフェイスシールドを装着し、観客たる私の「日常」はそのまま舞台上と地続きになる。煩雑であるはずの諸々でさえ劇世界への気分を盛り上げる道具立てになっていたという点においてもこの戯曲の上演は成功していたと言えるだろう。観劇前後の観客への情報提供も徹底していた。フェイスシールド越しの言葉が聞き取りづらい(しかしそれは観客たる私の側の問題でもあったのだろう。上演が進むにつれ耳がチューニングされたのかそれほどは気にならなくなった)など、上演上の課題こそいくつか見られたものの、この状況下でこそ上演すべき戯曲を「緊急上演」した川口の「目」は確かだ。前作『女の一生』初稿版完全上演でも川口は、戦後上演され続けている改訂版ではなく、戦時中に上演された初稿版のドラマツルギーこそが現代日本に通じているのだと示してみせた。日本人作家の手による戯曲に、いまこそ上演すべきは何かという観点から継続的に取り組み、過去の戯曲のなかに現代を照射するドラマツルギーを見出し上演し続けているドナルカ・パッカーン/川口の仕事に引き続き注目したい。

[撮影:三浦麻旅子]

[撮影:三浦麻旅子]


公式サイト:https://donalcapackhan.wordpress.com/

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2020/07/23(木・祝)(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『一角の角(すみ)』

会期:2020/07/15~2020/07/19

吉祥寺シアター[東京都]

『一角の角』(作・演出:本橋龍)はウンゲツィーファによる「連ドラ演劇」。新型コロナウイルスの影響で休館していた吉祥寺シアターの再開後、最初の企画として7月15日から19日まで1日1シーンずつ制作、その成果を毎日20時からライブ配信したものだ。

劇場に観客を入れないという条件を逆手に取り、吉祥寺シアターのさまざまな場所に配置された舞台美術が劇場内部に「街」をつくり出す。俳優たち自ら撮影者となりひとつのカメラを手渡していくことで、1日1カット1シーンの映像作品は紡がれていく(映像:和久井幸一)。登場するのはコウモリ(豊島晴香)、タヌキ(畦道きてれつ)、イヌ(石指拓朗)、ネコ(近藤強、黒澤多生、星美里)、ハト(松井文)、そしてヒト(西留翼)。各話の冒頭とラストには宇宙人(?)らしきものも映し出され、1カットのなかにさまざまな生物の視点が混在する。それは自らとは異なる複数の視点から世界を捉え直す試みであり、そうできたらいいのにという願いのようでもある。他者の視点は誰か/何かを「演じる」ために必要な能力でもあるだろう。

[撮影:上原愛]

[撮影:上原愛]

劇場のなかに出現した、動物たちの生きる「街」。それを構成する舞台美術は作品参加メンバーが持ち寄ったモノらしい。劇場に「外」が持ち込まれ、内と外とが反転する。劇場は宇宙の缶詰か。しかし考えてみれば「街」も「劇場」もヒトの設けた勝手な区分に過ぎない。動物たちは「森」と同じように「街」や「劇場」にテリトリーを広げもするだろう。ヒトにとって舞台の上はどこにでもな(れ)る空間だが、動物にとってのそこはほかの空間とことさらに区別されるような場所ではない。棲みやすさの程度の差だけがそこにはあり、ある種の動物にとって劇場は比較的棲みやすい場所ですらあるかもしれない。だから、ヒトがいなくなった後の劇場に動物が棲みつくというのは十分にあり得る話だ。『一角の角』で映し出される吉祥寺シアターはヒト不在の劇場の、現実にあり得る姿なのだ。

[撮影:上原愛]

『一角の角』の配信と同じ時期、無観客の劇場そのものを「舞台」とした上演の映像がほかにもいくつか配信されていた。それらを観た私が改めて感じたのは劇場という場所の特別さと、そこで演劇ができる/観られることへの悦びや感謝だった。『一角の角』の感触はそれらと異なっている。この作品でもっとも長く映し出されるのは劇場のロビーだ。舞台や客席といった劇場らしい場所は僅かな時間しか映し出されない。『一角の角』は劇場を劇場という機能を持つ場所としてではなく、単にそのようなかたちの、あるいは劇場としての機能を失ってしまった空間として映し出しているようですらある。今回のコロナ禍で多くの演劇関係者は劇場という場所の抱える脆弱性を痛感することになった。だが、そもそもウンゲツィーファ/本橋はこれまでもほとんどの作品をギャラリーや自宅などの非劇場空間で上演してきたのだった。だから、たとえすべての「劇場」という場所がなくなってしまったとしても、「劇場」に集まるという演劇の「かたち」が失われてしまったとしても「野生の演劇」は強かに生き残るだろう。

『一角の角』は和久井による編集と映像の追加を経た有料版が8月7日から配信される予定だ。

[撮影:上原愛]

[撮影:上原愛]

公式サイト:https://ungeziefer.site/


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2020/07/15(水)(山﨑健太)

TOHO MUSICAL LAB.『CALL』

会期:2020/07/11~2020/07/12

シアタークリエ[東京都]

東宝が新たに立ち上げたTOHO MUSICAL LAB.は「30分程度の短編オリジナル・ミュージカル」「今回が初演であること」「内容・テーマは自由」「スタッフ・俳優・ミュージシャンは感染症対策に細心の注意を払い制作すること」を条件にクリエイターに新作を依頼し上演する企画。第一弾となる今回は三浦直之(ロロ)の作詞・脚本・演出による『CALL』と根本宗子(劇団月刊「根本宗子」)の脚本・演出による『Happily Ever After』が二本立てで配信された。

いずれも完成度の高い作品だったが、特に『CALL』は「劇場で演劇を見ることの楽しみを思い出していただけるような そして初めて演劇をご覧いただくお客様にも楽しんでいただけるような前向きな“実験”」であるというこの企画の1本目にふさわしい作品となった。

[撮影:桜井隆幸]

人のいないところで「聴衆のいない音楽会」を開く旅をしてきたガールズバンド「テルマ&ルイーズ」。彼女たちがあるとき迷い込んだのはかつて劇場と呼ばれた廃墟だった。たまたま発見した演劇の衣装に夢中になる長女・シーナ(森本華)と次女・オドリバ(妃海風)。一方、三女・ミナモ(田村芽実)が舞台で歌っていると、誰もいないはずの客席から拍手の音が聞こえてくる。それはかつてその劇場で働いていたドローンのヒダリメ(木村達成)だった。当惑するミナモは「誰?」「どうして拍手しているの?」「観客って何?」と続けざまに問いを投げかける。その世界では劇場や演劇という文化はしばらく前に失われてしまい、彼女はそういうものに触れたことがないらしい。

[撮影:桜井隆幸]

[撮影:桜井隆幸]

ヒダリメは劇場の記憶を語り出す。数々の名舞台。それを見る観客たち。いつも同じ席に座っていたフジワラさんとミズハシさん。しかしいつしかふたりの距離は徐々に近づいていき、ついには間にたったひとつの席を挟むのみ。だがヒダリメがふたりのその後を見届けることはない。観客は劇場の外の世界を生きているからだ。劇場専属ドローンであるヒダリメにとって劇場は世界のすべてだが、それ以外の人々にとっては劇場は世界の一部でしかない。観客は必ず外の世界に戻っていく。だがそれでも、観客は何かと出会うために劇場に足を運ぶだろう。

出会いの場としての劇場への愛にあふれたこの作品には同時に、たとえ観客がいなかったとしても失われない表現することの悦びも描かれている。なんせ「テルマ&ルイーズ」はわざわざ人のいないところを探して音楽会を開いているのだ。「誰かに届けたくて歌ってるわけじゃない」という言葉には歌うことの悦びが刻まれている。「景色に聞いてほしいって思って歌ってるよ」というオドリバの「景色にあたしの歌が映えるんじゃなくて、あたしの歌に、景色が映えるの」という言葉はふざけても聞こえるが、自ら表現することで世界がより輝いて見えることは確かにあるのだ。

[撮影:桜井隆幸]

発した声がたまたまどこかの誰かに届いてしまったとき、客席にいたヒダリメがミナモに誘われ舞台に上がったように、その声を聞いた誰かもまた自らの声を発してみたくなるかもしれない。演劇は、歌は、小説は、マンガは、あらゆる芸術と人間の営みはそのようにして反響しあっている。だから、いずれにせよ演劇は続いていくのだという力強い希望。

タイトルの『CALL』は一義的には観客から俳優たちへと向けられるカーテンコールを意味するが、それは同時に劇場=表現者から観客への呼び声でもある。会場となったシアタークリエは新型コロナウイルス感染拡大防止のため休館期間を経て、このTOHO MUSICAL LAB.で数カ月ぶりの再開を果たした。それは未だ無観客での上演だったが、配信された映像を観た観客はかつて通った劇場への、あるいは未だ足を運んだことのない劇場への思いをかき立てられただろう。

[撮影:桜井隆幸]


公式サイト:https://www.tohostage.com/tohomusicallab/index.html

2020/07/11(土)(山﨑健太)

ウンゲツィーファ『ハウスダストピア』

会期:2020/07/01〜

『ハウスダストピア』はウンゲツィーファのウェブショップで購入することができる「郵送演劇」。郵送されてくる「チケット」には九つのQRコードが記載されており、観客はそれをスマートフォンで読み込むことでウェブ上の音声にアクセスし演劇を「鑑賞」する仕組みだ。QRコードには「ベッド(布団)」「洗面所」「キッチン」など、それぞれの音声を再生すべき場所が指定されており、観客は自宅のなかを移動しながら、それぞれに「その場所」を舞台とした音声を聞くことになる。

「その場所」といってももちろん、観客たる私の家で実際に何かが起きるわけではない。私はあくまで音声を聞いているだけなのだが、その「何もしてなさ」がむしろこの作品に奇妙な生々しさを与えている。たとえば1とナンバリングされ「ベッド(布団)」での再生が指定されている音声。添えられたイラスト(たからだゆうき)に布団の中でスマホの画面を眺める人物が描かれていることもあり、なんとなく寝転がって音声を再生してみる。聞こえてくるのは寝息らしき呼吸音。しばらくするとスマホのアラームとバイブ音が鳴り、起床した寝息の主は足音から推察するにベッド(布団)から離れていったようだ。一方の私はまだ自分の布団に寝転がったままだ。

『ハウスダストピア』の音声はYouTubeの限定公開動画のかたちで配信されており、「チケット」にはわざわざ「静止画ですので画面を見る必要はありません」と注意書きがある。しかし音声は最大でも5分程度なので、画面を見なくてもよいと言われても、何かほかのことをやりながら視聴するには少々短い。スマホでYouTubeを視聴する場合、有料会員に登録していないとバックグラウンド再生ができないため、私のスマホではながら視聴もできない。ぼんやりと音声を聞くことしかできない、それ以外何もしていない私のすぐそばで、何かが起きているような音がする。

続く2の場所は洗面所。歯磨きを終えると男が語り出す。「この部屋は僕の部屋だ。何故なら僕が住んでいるからだ。でも、そのことは、僕の前に住んでいた人も、さらにその前に住んでいた人も思っていただろう。そして僕の後に住む人も思うのだろう」。私の部屋に漂う幽霊のような声と、部屋に蓄積された記憶。しかしそれは存在しない記憶だ。私のいるこの部屋に、私より前に住んでいた人はいない。

耳を澄ませると聞こえてくるというおじさんの声に関するエピソード(都市伝説?)。身に覚えのない届け物。ここにある/ここにはない、もうひとつの家。やがて声の主は荷物をまとめ、その/この家から引っ越していく。「さよなら」。私はその声を自宅の玄関で聞き、そして取り残される。幽霊のように。

『ハウスダストピア』の最後のパートには「あなたが読むべき台詞が記されて」いる。このことは購入ページの説明書きで前もって告げられている。「あなた」は手紙を待つように自らが読むべき台詞が届けられるのを待ち、そしてそれを読むことになるだろう。手紙=戯曲の言葉が読み上げられることで、そこに書かれた言葉があなたの声で立ち上がる。

『ハウスダストピア』にはHomestay at Home vol.1とシリーズ名が付されている。ウンゲツィーファはこれまでの劇場での公演でも、異なる複数の時空間を劇場という「いまここ」へと巧みに重ね合わせることで、「私たち」が生きる世界のバラバラさと、それでもそれらがひとつの世界であることを描いてきた。自宅でのホームステイと名付けられたこのシリーズは、観客各々の家に、それとは異なる時空間を送り込む試みと言えるだろう。

『ハウスダストピア』は作・演出の本橋龍の戯曲集(『青年(ヤング)童話脚本集①②』)とともにウンゲツィーファのウェブショップで販売中。7月15日(水)からはウンゲツィーファの新作として吉祥寺シアターを舞台とした無観客の演劇公演/連ドラ演劇『一角の角(すみ)』が上演/配信予定だ。


公式サイト:https://ungeziefer.site/
ウェブショップ:https://unge.thebase.in/


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2020/07/07(火)(山﨑健太)

ロロ×いわきアリオス共同企画 オンライン演劇部『オンステージ』

会期:2020/06/27~2020/06/28

ロロ×いわきアリオス共同企画 オンライン演劇部「家で劇場を考える」は福島県いわき市にある文化交流施設「いわきアリオス」が「新型コロナウイルス感染症の影響で世界的に苦しい状況が続くなか、(略)“創造的な日常”を応援するべく、芸術文化を通したコンテンツを無料配信する『#おうちでアリオス』」の一企画。『オンステージ』はそこでつくり上げられた作品のタイトルだ。2017年7月から毎年開講されているいわきアリオス演劇部でも講師を務めるロロ・三浦直之を脚本・演出に、セノグラファーで舞台美術家の杉山至をワークショップ講師に迎え、アリオス演劇部のOB・OG(白土和奏、原田菜楠、齋藤永遠、門馬亜姫、秋葉ゆか、森﨑陽)にロロの俳優陣(望月綾乃、森本華、島田桃子)を加えた出演者9名によるオンライン演劇が上演・配信された。

「Zoomをつかって作品をつくってみてもなかなか演劇になってくれない。作品をつくるだけだとそれはやっぱり映像作品で、これを演劇にするためにはきっと観客についてもっと考えなくちゃいけない。演劇はみるだけじゃなくて過ごすものだ」と言う三浦が書いたのは「オンライン演劇を鑑賞する『ホームシアター』開演までの10分間の物語」。八つに分割されたZoomの画面の中央にはミニチュアの舞台らしきものが映っている。残りの七つのウインドウにはそれぞれイヤフォンで音楽(?)を聞きながら思い思いに過ごす人々。ミニチュア舞台の枠に現われた人物の「いらっしゃいませ。みなさま、会場BGMを流しながら、お席にておまちください」という言葉に対し「開演ってあとどれくらいですか」と質問が投げかけられ、もうすぐ演劇が始まるところだということがわかる。どうやら周囲の七つのウインドウに映る人々は観客で、「それぞれのやり方で、各々の気持ち高めていって」いるところらしい。遅れてさらにひとつウインドウが現われ、九つのウインドウが開演のときを待つ。

演劇を観るという体験には、作品を観るまでの、そして観たあとの一連の出来事も組み込まれている。チケットを確保し、劇場の場所を調べ、電車に乗り、劇場に着き、席に座って当日パンフレットを読み、開演を待つ。上演が終われば劇場の近くのラーメン屋に寄り、作品を反芻しながら帰途につく。オンライン演劇をはじめとする、新型コロナウイルスの影響下にある「演劇」あるいはその代替物が、作品の完成度とは別のところで物足りないものになってしまうのは、自宅での鑑賞では、劇場に足を運ぶという体験が、それによって生じるはずの環境の変化が失われているからだ。

だからこそ、三浦は演劇の上演前の時間にフォーカスをあて、開演を待つ観客の姿を描き出す。「お客様には、開演まで、それぞれが用意した音楽を聴きながら過ごしてもらっている」という設定も、それこそ「気持ち高め」るための、自宅にいながらにして劇場気分をつくり出すための工夫だろう。

もちろん、劇場に足を運ぶことは気分だけの問題ではない。環境の変化は出会いの可能性を呼ぶものだ。出会うのは人とは限らない。それはコンビニに並ぶ新商品かもしれないし、いままで通ったことのない路地、そこに見える風景かもしれない。現実のオンライン演劇では、おそらくは運営上のリスク管理の観点から、観客同士の「出会い=接触」は避けられる傾向にある。だが、三浦はあえてオンライン演劇の「客席」を描き、そこで生まれるささやかな交流を描いた。それは「出会い」を描き続けたきた三浦の願いの表われのようにも思えたのだった。

『オンステージ』は脚本と映像のアーカイブが公開されている。9名の出演者のうち台詞のある役は3名のみ。共通の脚本で配役をシャッフルした3チームのバリエーションも見どころだ。


『オンステージ』アーカイブ配信:https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01989
『オンステージ』台本:https://iwaki-alios.jp/cd/sites/files/2006online_engeki_daihon_3.pdf
『オンステージ』当日パンフレット:https://alios-style.jp/cd/app/?C=blog&H=default&D=01984

2020/06/28(日)(山﨑健太)