artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
冨安由真 個展:The Doom
会期:2021/12/17~2022/01/23
アートフロントギャラリー[東京都]
アートフロントギャラリーは通りに面したグラスウォール(ガラス張りの壁)が特徴だが、冨安はこのグラスウォールを巧みに作品に採り込んでいる。それについて触れる前に、まずは横にあるエントランスからギャラリーに入っていこう。すると、正面に壁が立ちはだかり、ドアがついている。ドアを開けるともうひとつ部屋があり、中央にテーブルと椅子が置かれている。これだけなら入れ子状の部屋というだけの話だが、異様なのは、青白色に塗られた等身大の馬の模型の前脚がテーブルを貫通していること。つまりこの馬は実体のない幽霊のような存在、という設定なのだ。冨安によれば、馬は黙示録の死を象徴する「蒼ざめた馬」で、彼女が幼少期に見た夢の情景に基づいているという。
感心したのは、この異様な光景を、グラスウォールを通して外から丸見えにしたこと。ふだんはガラス越しに絵や立体作品が見えるのでギャラリーとわかるが、今回はまるでエルメスのショーウィンドーかなにかと勘違いしかねず(エルメスは馬がロゴマークに使われている)、なにごとかと足を止めてのぞき込む人も多い。この特徴的なグラスウォールをこんな風に活用したアーティストがいただろうか。
仕掛けはまだある。ドアから部屋に入ると、片側の床が上がり、天井が下がっていることに気づく。つまり部屋の奥をすぼませ、遠近感を歪ませているのだ。これは部屋に入ったときに強く感じるが、ガラス越しに外から眺めるとあまり不自然に感じることなく、実際より空間が広いように錯覚してしまうのだ。この空間の変容がまた、蒼ざめた馬のいる光景をいっそう非現実的なものにしている。ちなみに、部屋の奥をすぼませた結果、ギャラリーの奥に空間ができ、そこにも蒼ざめた馬をモチーフにした立体や映像を展示している。それらがなにを意味しているのかよくわからないが、彼女いわく「よくわからないものの中にこそ、大事なことが潜んでいる」。よくわからないまま安心して会場を後にした。
2021/12/17(金)(村田真)
ソール・スタインバーグ シニカルな現実世界の変換の試み
会期:2021/12/10~2022/03/12
マンガは紙媒体で読むものだと思っているので、よっぽどのことがない限り美術館やギャラリーのマンガ展に行くことはない。原画やエスキースが公開されようが、作者の用いたペンやインクが出品されようが、わざわざ公共的な空間に赴いて鑑賞するのはまっぴらごめん。春画と同じくひとりプライベートに楽しみたい。でもソール・スタインバーグは見に行ってしまった。ぼくにとっては「よっぽどのこと」なのだ。
いつからスタインバーグに惚れ込んだのか忘れたが、学生時代からであることは間違いない。当時買ったスタインバーグの画集『新しい世界』を引っ張り出してみると、1970年発行とあるから半世紀以上も前のこと(買ったのはその数年後)。なんと出版社はみすず書房で、装丁は瀧口修造。小文ながらハロルド・ローゼンバーグと瀧口が論を寄せるくらいだから、現代美術の巨匠並みの扱いだ。ほかにもホイットニー美術館での回顧展(1978)のカタログをはじめ、イエナ書店や丸善で画集を何冊も買い込むほど熱を上げたが、日本ではほとんど話題に上ることもなく、いつのまにか忘れかけていた。今回久しぶりに名前を聞いて駆けつけた次第。
スタインバーグ(1914-99)はルーマニアに生まれ、イタリアで建築を学んだが、ファシズムから逃れて渡米。以後半世紀以上にわたり、主に『ニューヨーカー』誌を舞台に作品を発表してきた。先にマンガと書いたが、確かにマンガ(コミックではなくカートゥーン)ではあるけれど、マンガを超えたメタマンガというか、現代美術のなかでもとびきり洗練された現代美術と言ってもいいくらいの質を備えているのだ。ローゼンバーグが入れ込むのも無理はない(ちなみにホイットニー美術館のカタログにもローゼンバーグが長文を掲載)。
いつからスタインバーグに惚れたかは忘れたが、最初にどの作品でぶっ飛んだかは覚えている。『ニューヨーカー』の表紙を飾った《9番街からの世界の眺め》ってやつだ。画面の下半分にビルの立ち並ぶマンハッタンの9番街、10番街が描かれ、その上にハドソン川、その上にところどころ岩の突き出た四角い平面(アメリカの国土)があり、その先に太平洋、さらに向こうに中国、日本、ロシアが1本線で表わされている。なんという大胆かつ斬新な世界観であることか! しかもそれを、とても建築を学んだとは思えない雑なパースで描いてみせるのだ。この号の発行日は1976年3月29日だから、ぼくは70年代後半にどこかでこれを目にしてファンになったわけだ。
スタインバーグのいちばんの魅力はウィットに富んだ記号表現にある。たとえば、ひとりの男が相手になにかを延々と話している絵。話の内容はアルファベットらしき線を書き連ねているだけなので不明だが、そのフキダシが大きな「NO」の字になっている。なんだかんだ理屈をつけてるけど、結果は最初から「ノー」だってこと。こうしたアルファベットや記号を用いた作品はたくさんあって、チケット売り場の前に1から12まで数字が並び、6だけ男の姿が描かれている絵は、人間を数字としてしか見ない現代社会への皮肉と読むこともできる。などと解説するのが野暮なくらい、絵=線描そのものに魅力があるのだ。たとえば、天秤の片方に2、4分の3、5、4分の1という数字が載り、もう一方に小さな8が載ってバランスをとっている絵。意味的には正しいのだが、そんなことよりひとつひとつ数字のスタイルを変え、数という抽象概念に個性を持たせているのが笑えるのだ。
スタインバーグのマンガは現代美術といったが、それは現代美術が内容より形式を重視するという意味においてだ。マンガというのはたいてい描かれる意味や内容に笑ったり感動したりするものだが、彼のマンガは「線」「平面」「スタイル」「セリフ」といったマンガを成り立たせている要素そのものをイジる。そのことでマンガが1枚の平面に引かれた線にすぎないことを暴くのだ。しかもそれを現代美術のように深刻ぶらず、軽妙な線でトボけてみせる。こんなに知的でナンセンスなマンガがほかにあるだろうか。展覧会を見た後、久しぶりに画集を引っ張り出して耽溺した。やっぱりマンガはひとり家で読むに限る。
2021/12/11(土)(村田真)
HOKUTO ART PROGRAM ed.1 前編
会期:2021/10/30~2021/12/12
清春芸術村[山梨県]
「HOKUTO ART PROGRAM」を見に、清春芸術村を初訪問。清春という名称は最初、白樺派との関連で「せいしゅん(青春)」と読んでいたが、正しくは「きよはる」で、もともとここの地名だったと初めて知った。もちろん「青春」にもダブらせているんだろうけど。そんなわけで、ご多分にもれず青春時代に白樺派に感染したぼくではあるが、この芸術村ができたころ(1980年代)にはすでに免疫ができていたため足が向かず、ようやくいい年こいて訪れたってわけ。どうでもいいけど。
ここは「HOKUTO ART PROGRAM」の中心だけあって、デヴィッド・ダグラス・ダンカンによる晩年のピカソを捉えた写真展をはじめ、アトリエ系の建築家6人による「テント」の提案、映画監督の河瀨直美による映像インスタレーション、芸術と科学の融合を目指したバイオアート、イラストレーターとしても知られる長場雄のインスタレーションなど盛りだくさん。 まず、広い敷地内に点在しているテント群。長谷川豪は、花を包むように透明の筒を地面に立てて支柱にし、光を遮断する布地のテントを張っている。内部は暗闇で、てっぺんから花にスポットライトのように自然光が差す仕組みだ。永山祐子は3つのしずく型の透明なテントを設置。起き上がりこぼしのようにさまざまな方向を向いているが、地面に固定されているので転がる心配はないらしい。藤村龍至はモンゴルのパオ(包)と同じ構造で、《脱東京・遊牧民の包》を創出。寝るためではなく過ごすための、半分開いて半分閉じた「クロープン(clopen)」なテントを目指したという。 これらはいずれも、会期の40日間だけ屋外展示されるという前提条件の下につくられたそうだ。
かたわらに建つ谷口吉生設計のルオー礼拝堂は、河瀨直美の個展会場と化している。中央に壺を置いてナナカマドやクロガネモチなどを生け、それを取り囲むように半透明のオーガンジーのスクリーンを張り、河瀨のルーツである奄美、沖縄の森や海を撮った映像を映し出している。中央の植物は朽ちていくが、そこにレイヤーとして永遠の映像を干渉させることで、過去と未来を往還させている。その向かい側に建つ白樺派の図書資料を集めた白樺図書館では、長場雄が本棚やテーブルをシートで覆い、キャンバスに転写した自作のイラストを無造作に立てかけている。アートとイラストを股にかける彼がテーマにしたのは、前者に存在し、後者には存在しない「搬入」だという。なるほど、搬入作業中の様相だ。
現代美術展だと思って行ったら、確かに現代美術の文脈に則った作品ばかりだが、作者は建築家、映画監督、イラストレーターといった面々。それゆえ新鮮な刺激も多かった反面、どこか物足りなさを感じたのも事実だ。まあいずれにせよ、白樺派の夢を実現したような場所でこんな展覧会を見られるとは思わなかった。
公式サイト:https://www.hokutoartprogram.com
2021/12/07(火)(村田真)
HOKUTO ART PROGRAM ed.1 後編
会期:2021/10/30~2021/12/12
中村キース・ヘリング美術館[山梨県]
いまキース・ヘリング美術館では、40年近く前にぼくがニューヨークで撮ったキース・ヘリングの写真を展示してくれているのだが、なかなかコロナ禍が収まらず、ようやくタイミングを見計らって行くことができた。ちょうど今週まで「HOKUTO ART PROGRAM」という企画展もやっているし。これは山梨県北杜市にある清春芸術村、中村キース・ヘリング美術館、平山郁夫シルクロード美術館など5つの施設が、「芸術と観光という二つの要素を多面化し、『時間をかけてここに来ていただくことの価値』を磨き続け」ようとの主旨で始めたもの。ここではSIDE COREと脇田玲の2組が出品していた。どちらもキース・ヘリングやグラフィティに関連づけた作品となっている。
SIDE COREは《IC1(Imaginary Collection1)》と題して、高床式の小屋を制作。小屋の床には丸い穴が3カ所開いており、下から首を突っ込んで内部をのぞき見る仕掛けだ。のぞいてみると、室内にはストリート系のペインティングや版画がびっしり展示され、ネズミのぬいぐるみやスニーカーの空箱なども置いてある。作者がもらったり買ったりしたコレクションだそうで、3つの穴から見える作品群にはそれぞれ異なる意味が与えられているという。しかしこうして床スレスレの目線で見上げると、なんだか自分がネズミにでもなったような気分。さらに室内にはカメラが据えられ、のぞいた人の顔が外のモニターに映し出される仕掛けなのだ。タイトルの「IC1」はニューヨークのPS1、「イマジナリー・コレクション」はアンドレ・マルローの「空想の美術館」に由来するだろう。グラフィティや美術史の知を盛り込んでいる。
脇田玲の作品は《アランとキースのために》と題された映像で、電子計算機の開発に関わった数学者のアラン・チューリング(1912-54)と、キース・ヘリング(1958-90)の時を超えた対話の場を創出するもの。チューリングは化学物質が相互に反応して拡散していく形態形成について考察したが、映像はモルフォゲンと呼ばれるその形態形成のパターンが、キースの絵とよく似ていることを示している。原理はさっぱりわからないけど、作品は一目瞭然、点が線になり枝葉のように四方に伸びていく様子は、まさに空間を埋め尽くしていくキースのドローイングそのもの。空間を線で均等に、効率的に埋めようとすると必然的にこういうパターンになるのだ。これはおもしろい。ちなみに2人ともホモセクシュアルだったらしい。
*脇田玲の展示会期:2021年10月16日(土)〜2022年5月8日(日)
SIDE COREの展示会期:2021年10月30日(土)〜2022年5月8日(日)
2021/12/06(月)(村田真)
クリスチャン・マークレー 「トランスレーティング[翻訳する]」
会期:2021/11/20~2022/2/23
東京都現代美術館[東京都]
映像作品はたいてい長い割に退屈なのが多く、時間の無駄なのでチラ見しかしないが、クリスチャン・マークレーの映像は長いくせにずっと見ていて飽きることがない。今回は出品されていないが、ヴェネツィア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞した《The Clock》は、映画の断片をつなぎ合わせて24時間を表現した文字通り24時間の長尺。ぼくは一部しか見ていないけど、時間が許せばすべて見たいと思っている。
出品作の《ビデオ・カルテット》は、《The Clock》に先行する作品。4面スクリーンにそれぞれ映画の登場人物が楽器を鳴らしたり、歌ったり、叫んだりするシーンの断片が次々と映し出されるのだが、それらの音がつながってひとつの「曲」を構成しているのだ。いわば映画のリミックスだが、原理がわかっても「はいおしまい」にはならず、繰り返し見ても飽きるどころか、見れば見るほど新しい発見があっておもしろさは増していく。それは映画の選択と構成の巧みさによるものだろう。
マークレーはもともと音楽シーンから出発し、レコードジャケットやコミックを使ったコラージュやペインティングを制作するなど、音楽と現代美術をつなぐ活動を展開してきた。例えば最初の部屋の《リサイクル工場のためのプロジェクト》は、奥行きのある旧式のパソコンのモニターを円形に並べ、工場でパソコンを解体する流れ作業を画面に映し出すインスタレーション。これから自分の身に降りかかるであろう運命を予知するかのような解体現場の映像を、モニター自身が流しているのだ。ユーモアと残酷さの入り混じった自己言及的な作品といえる。 《アブストラクト・ミュージック》は、ジャズなどのレコードジャケットに抽象絵画が使われることに目をつけ、タイトルやアーティスト名を絵具で消して原画の抽象絵画を復元させたもの。よくある遊びではあるが、カンディンスキーがシェーンベルクに触発されて抽象を始めたいきさつとか、ポロックがジャズ好きだったエピソードとかを思い出させる。こうした視覚と聴覚に関わる作品で笑えるのが、「アクションズ」のシリーズ。荒々しく絵具が飛び散るアクション・ペインティングの上に、コミックの「SPLOOSH」とか「THWUMP」といったオノマトペをシルクスクリーンで刷った絵画作品だ。絵具をぶちまけるアクションとオノマトペが見事に合致しているだけでなく、抽象表現主義にポップアートをレイヤーとして重ねることで、両者の差異と相似を示唆しているかのようにも見える。
「叫び」や「フェイス」のシリーズも、コミックから顔の部分をコラージュしたものだが、その選択と構成の巧みさといったら、どんなグラフィックデザイナーも顔負けだ。もう天性のヴィジュアルセンスとしかいいようがない。言い方は悪いが、他人のフンドシで相撲をとる大横綱だ。比べるのも酷だが、同時開催していたユージーン・スタジオが吹っ飛んでしまう。
2021/12/03(金)(村田真)