artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

塔本シスコ展 シスコ・パラダイス かかずにはいられない! 人生絵日記

会期:2021/09/04~2021/11/07

世田谷美術館[東京都]

名古屋の「グランマ・モーゼス展」の記憶がまだ頭の隅にこびりついたまま、日本のグランマともいうべき塔本シスコを見に行く。塔本は1913年、熊本県の農家に生まれる。親がサンフランシスコ行きの夢に託してシスコと命名。本名なのだ。11歳で奉公に出され、20歳で結婚したが、46歳で夫が事故死。53歳から息子の画材を借りて絵を描き始め、91歳で亡くなるまで後半生を制作に捧げたという。あれ? 農家に生まれたのも、奉公に出されたのも、夫に先立たれてから絵を描き始めたのも、90歳を過ぎてからも描き続けたのも、モーゼスばあさんと同じじゃん。女性は夫がいなくなると創作意欲が湧くもんなんだろうか。いや、たぶん彼女たちは夫が健在なころから創作意欲はあったけど、それを発揮する時間的余裕および世間的寛容さがなく、さらに自主規制も働いたんじゃないかと想像する。なんかいきなりジェンダー問題に突き当たってしまった。

その作品は、やはり彼女自身の日常生活やこれまでの体験に基づき、想像を交えて描いたものが多い。しかしグランマ・モーゼスみたいにワンパターンではなく、風景もあれば人物や花の絵もあり、描き方もより奔放で色彩も派手で、特に花の絵は装飾的で、ときに天地左右の区別がつかない作品もある。その意味ではいわゆる素朴派というより、アウトサイダーアートに近いかもしれない。驚くのは作品の量で、出品されているだけでもセラミックや人形なども含めて200点以上。うち100号あるいはそれ以上の大作が30点を超し、公募展のように一部は2段がけに展示している。内容もバラエティに富んでいるだけに、まるでひとり団体展だ。

これだけの絵が描けたのは、息子が画家だったことが大きい。そもそも絵を描くきっかけが、息子の留守中にキャンバスの絵具を削ぎ落として油絵を描いたのが始まりだというから、息子が絵の道に進まなければグランマ・シスコは誕生しなかったか、もっとひそやかな日曜画家で終わっていたかもしれない。そう考えるとずいぶん恵まれていたと思う。とはいえ、作品的にもキャリア的にも遜色がないのに、作品が飛ぶように売れ、国民的画家にまで上りつめたグランマ・モーゼスとの差はなんだろう。それはもう国力および国民性の違いとしかいいようがない。やはり親の夢を追ってサンフランシスコに移住すべきだったか。

2021/09/07(火)(村田真)

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寿司 SUSHI ─ A World in a Grain of Sand

会期:2021/07/24~2021/09/04

東京画廊+BTAP[東京都]

「寿司」展といっても残念ながら画廊で寿司を提供してくれるわけではなく、寿司のような掌サイズの小品ばかりを集めたグループ展ということだ。確かに寿司は一口で食べられる小さな芸術品といってもよく、職人の美意識と技術と経験が小さな物体に結晶しているので、小品展のタイトルには悪くない。本展は中国の若手キュレーターユニットXnとのタイアップで実現したもので、日本、中国、香港、フィリピン、イランから11組のアーティストが出品している。

中国のニー・ヨウユは各国のコインを叩いて表面を平らにし、その上に山水風の絵や文字を描く。貨幣価値をつぶして芸術的価値に置き換えるわけだが、そこに再び何千倍、何万倍もの貨幣価値が付与されるというマジック。同じく中国のヤオ・ポンは、切手のようにミシン目の入った小さな連続絵画を出品。描かれているのはケネディの葬儀風景、笑う毛沢東、靴を投げられるブッシュなど20世紀の政治家たちだ。イランのシャプール・ポウヤンは、大から小まで5個のずんぐりとした鉛色の陶を並べている。旧ソ連の最強兵器ツァーリ・ボンバをはじめとする核兵器の比較らしい。よく見ると端にもう1個、1ミリ足らずの陶がガラスケースに入れてあり(広島に落とされたリトルボーイだろうか)、傍に虫眼鏡も置かれている。

どれも刺激的だが、もっとも感心したのは日本のSHIMURAbrosによる「映画なしの映画」。黒っぽい小さなオブジェで、どうも人の形のようだが正体がわからず、説明を聞いて納得。映画のワンシーン7〜8秒間の人物の動きを3Dプリンターで立体化したものだという。その映画は、ブニュエルの『アンダルシアの犬』とクレショフの『創造的地理』。そもそも映画とは、画像を連続してスライドさせることで動いているように見せかける装置だが、彼らはそれをスライドせず縦に積み重ねることで画像を3次元化してみせたのだ。3次元の被写体を2次元化した映画を再び3次元化させたわけだが、元の3次元と違うのはそこに時間が加わっていること。その意味では「時間の彫刻」であり、デュシャンの「時間の絵画」にもうひとひねり加えたものともいえる。これはおもしろい。



[Courtesy of Tokyo Gallery+BTAP]


2021/09/03(金)(村田真)

寺内曜子 パンゲア/コレクション展: ひとつの複数の世界

会期:2021/07/10~2021/09/20

豊田市美術館[愛知県]

東京でパスった「モンドリアン展」を見に行ったが、垂直・水平線と三原色で構成されたいわゆるモンドリアンらしい絵画は4点しかなく、大半は抽象以前の初期作品に占められ(それはそれで興味深いけれど)、期待していた展覧会とは違った。でも「モンドリアン展」の関連企画で、寺内曜子の個展を見られたのは幸いだった。

作品は正方形の展示室を使ったインスタレーションで、壁のほぼ目線の高さにグルリと赤い線が引かれている。その線は出口を超えて窓の外まで続き、終わりが見えない。この一定の高さを保った水平線は、文字どおり海の水平線を思い出させるが、注意を喚起する赤の色彩も相まって、東北で見た津波の最高到達点を示す線を想起させもする。だが、この作品の意図はとりあえずそこではない。展示室の中央には台座が据えられ、これもほぼ目線の高さに、ところどころ赤い線が走る直径数センチの球体が置かれている。この球体は紙を丸めたもので、赤い線は紙の四辺の縁(小口)に塗られたものであることがわかる。とするなら、壁の赤い線はその紙を拡張させて壁に達したときの接線ともいえる。



[筆者撮影]


タイトルは《パンゲア》。数億年前に存在したといわれる超大陸の名で、古代ギリシャ語の「パン(すべての)+ガイア(大地)」を語源とする。大陸移動説によれば、このパンゲアがいくつかのプレートに分裂して現在の6大陸になったという(プレートテクトニクス理論)。この小さな球体も元は1枚の平面であり、その縁が内部に丸め込まれたり外側に露出したりして球面上の赤い線として現われるのだから、プレートテクトニクスのモデルと見ることもできるだろう。ならば壁の赤い線は超大陸パンゲアの地平線か。紙を丸めたり壁に線を引いただけで動態としての地球に思いを馳せられるのだから、痛快きわまりない。そして、プレートの離合集散が地震を起こす要因であるなら、壁の赤い線に津波を想起したのもあながち的外れとはいえないだろう。

2021/08/31(火)(村田真)

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生誕160年記念 グランマ・モーゼス展─素敵な100年人生

会期:2021/07/10~2021/09/05

名古屋市美術館[愛知県]

グランマ・モーゼスの作品は西新宿の超高層ビルの上階にあった美術館に何点か常設展示されていたので、企画展を見に行くたびに目に入ってはいたけれど、いつも素通りしていた。アウトサイダーアートならともかく、こうした素朴派というのはどうも好きになれない。なのに今回わざわざ見に行ったのは、東京で見逃した「モンドリアン展」のついでもあるが、このあとも塔本シスコや丸木スマなど歳を重ねてから絵を描き始めた女性の展覧会が続くので、少し興味が湧いてきたからだ。

グランマ・モーゼスことアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスは、1860年にニューヨーク州の農村に生まれ、1961年に亡くなるまで101年の生涯を東部の農村地帯で過ごした。5歳のときにリンカーンが暗殺され、亡くなった2年後にケネディが暗殺されたというから、アメリカ近代史を丸ごと生きたことになる。美術史でいえば、なんと新古典主義とロマン主義が対立していた時代に生まれ、ポップアートの登場するころまで健在だったというから驚きだ。でも彼女はそんなモダンアートの激流などどこ吹く風、まったく時代から隔絶した素朴な農村風景を描き続けたのだから、スゴイというかなんというか。ともあれ彼女は12歳で奉公に出され、27歳でモーゼスと結婚し、67歳で死別。72歳で次女の看病の合間に刺繍絵を始め、75歳で本格的に絵を描き始める。80歳でニューヨークのギャラリーで初個展を開き、90歳でアメリカ人ならだれもが知る国民的画家にまで上りつめてしまったという信じられない人生を送ったのだ。

その素朴な農村風景画は、モチーフも構図も筆づかいも亡くなるまで4半世紀のあいだほとんど変わらなかった。作品を通覧すると、だいたい画面手前に柵か小道が横切り、中景に農家、畑、牧場、小川、林に働く人々や家畜を配し、遠景に小高い緑の山々、そして画面上4分の1ほどを青灰色の空が占めている。ほとんどワンパターン。鉄道や自動車は皆無ではないがほとんど描かれず、3階以上のビルもない。そんな素朴な絵が大衆的人気を博するのは第2次大戦後のこと。戦争が終わり、都市生活もアートもめまぐるしくモダナイズするなかで、時間が止まったような田園風景が受けるのはよくわかる。そこが好きになれない理由だから。

2021/08/31(火)(村田真)

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ポコラート世界展 偶然と、必然と、

会期:2021/07/16~2021/09/05

アーツ千代田 3331 1階メインギャラリー[東京都]

3331の開館以来、障害者の芸術活動を支援してきたポコラート事業の10周年を記念する展覧会。これまで9回の全国公募を実施し、計11,490点が出展されたが、今回はこの国内公募を含む計22カ国からの50人による約240点が出品されている。ややこしいのは「障害者の芸術活動を支援」といいながら、作品は障害の有無を問わないこと。それだけでなく「美術」という枠組みさえ飛び越えていること。そういうと、ピンからキリまでなんでもありのグチャグチャな展覧会を想像するかもしれないが、見事なまでにアンビリーバボーな作品が揃っている。たまに障害のなさそうな人の作品もあるが、それらはよくできているけれど明らかにインパクトが違うし、比べようがないほど評価基準が異なっている。その意味では確かに「美術」の枠組みを超えている。

作品の半数くらいはこれまでにも「アール・ブリュット展」などで見たことがあるが、何度見ても呆れるほど感心してしまうところが現代美術との大きな違いかもしれない。誤解を恐れずにいえば「ホンモノ」なのだ。例えば、ポーランドのトマシュ・マフチンスキは時代、男女、年齢、職業を問わずさまざまな人物になりきってセルフポートレートを撮る。なんだ森村泰昌と同じじゃんと思われるかもしれないが、森村より20年も早くから撮り始め、すでに2万2千枚に達したという。1日1枚以上のペースだ。イギリスのカルロ・ケシシアンは、幻覚の延長でノートにびっしりと日記を書いている。異常なのはその密度で、A4サイズ1ページに1万字ほど詰め込み、12時間連続で書くこともある。問題はだれにも読めないこと。

中国の郭鳳怡(ゴウ・フォンイ)は大きな紙に霊媒による素描を即興で描いていく。制作中は本人もなにを描いているかわからないが、描いているうちに神が降臨するように、徐々に精霊の姿が立ち現われてくるという。黒田勝利は、他者から見れば解読不能なコマ割り漫画をカラーペンで描く。ユニークなのは、通常とは逆に結末からストーリーを遡っていくこと、そして、人が殺されるような破滅的なシーンも大笑いしながら描くことだ。古久保憲満はロール紙に道路、鉄道、ビル、遊園地、果てはお店の商品やレストランの料理まで細々と都市風景を描き、これまでに400点ほどになった。

ぼくらはいったい彼らの作品のどこに惹かれるのだろう。受けようとか、売ろうとかしない純粋無垢な無償の行為だからか。でもそれはわれわれがそう思っているだけで、見る者の自己満足かもしれない。だれにも真似できない(しようとも思わない)ユニークな表現だからか。確かに無駄としか思えない悶絶的な細密描写、強迫観念的な同じパターンの繰り返し、常人では考えられない色使いなどは驚異的だ。だが興味深いことに、こうしたユニークな表現は彼らが共通して持っている特性で、われわれから見ればユニークであっても、彼らからすれば「これしかできない」限定的な表現だったりするのだ。考えれば考えるほどわからなくなる。そこが魅力なんだな。

2021/08/22(日)(村田真)

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