artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

関口敦仁展 手がとどくけど さわれない

会期:2021/10/16~2021/11/23

O美術館[東京都]

O美術館へは、たぶん4半世紀ぶりぐらいの訪問となる。学芸員の天野一夫さんがいた90年代前半まではよく通っていたが、行かなくなった理由はただひとつ、おもしろい企画展をやらなくなったからだ。最近はせいぜい品川区にゆかりの作家を企画展として取り上げるくらいで、あとは貸し会場化していたらしい。そんな「美術館」で関口敦仁の個展が開かれるというから唐突に感じたが、なんのことはない、関口は品川区大井の出身、地元ゆかりの作家なのだ。

関口敦仁といえば、80年代のアートシーンを牽引した作家のひとり。「ニューウェイブ」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは関口の名前と作品だ。もの派やミニマルアートを引きずったような70年代の禁欲的な表現(非表現といってもいい)を払い除けるように、既視感のない流動的なイメージを奔放な色彩と構成で表現してみせ、新しい時代の到来を予感させたものだ。しかし1990年前後からメディアアートに軸足を移し、またパリに長期滞在した後、岐阜のIAMAS(情報科学芸術アカデミー)の教授に就任してからは、少なくともぼくの視界から消えてしまった。同展には1979年の《水中花1》《水中花2》から新作まで、約60点の作品が時代順に並んでいるが、ぼくになじみがあるのは前半を占める80年代の絵画、レリーフ、半立体状の作品たちだ。

最初の《水中花》の連作は学部生のころの作品で、波紋のような青と白の円弧が画面を埋め尽くし、画面の左右には垂直線、上方には2本の斜線が入ってている。円弧はフリーハンドで奔放に絵具を滴らせ、左右の垂直線はそれを制御するような役割を果たす一方で、上方の斜線と相まってどこか日本の伝統絵画を想起させもする。当時の絵画に対する関心ごとを見事に反映させた作品といえる。1981年の《自画像》でセザンヌ風のモチーフとシェイプトキャンバスが現われ、《食卓の夢》や《水の中から》では、金属や樹脂など異素材を組み合わせたレリーフ状の作品に発展していく。

しかし1990年前後からCGプリントや映像インスタレーションなどメディアアートに移行し、作品自体も少なくなっていく。作品リストで数えてみたら、80年代までが26点、90年代が16点、2000年代が7点、10年代以降が18点と、徐々に減りつつ近年再び増加に転じているのがわかる。もっともこれは出品点数であって制作点数ではないが、おおむね作品量を反映していると見ていい。

ところで、1990年前後に作品形態は大きく変わったと書いたが、コンセプトはほとんど変わっていないようだ。それはなにかというと、関口の場合とても難しいのだが、カタログの言葉を援用すれば、「自身の存在自体に目を向けようかと思ったり、創造衝動と存在の確認を重ねてみたりと、極めて内向きな視線を外の世界に接続させよう」とすることだろう。それがタイトルの「手がとどくけど さわれない」感覚につながるのではないか。

もうひとつ変わっていないものがある。それはコンセプトにも関係するかもしれないが、「円」への偏愛だ。もちろんお金じゃなくて丸のほう。最初期の《水中花》の連作では円弧の連なりとして現われ、《自画像》《ピークトルク》では赤いリンゴとして描かれ、その後も《みぬま》《食卓の夢》《ガラス球》など大半の作品に円が登場する。メディアを変えてからも、「笑いの回転体」シリーズは円形をしているし、《地球の作り方 赤道》は赤道という円環だし、《景観新幹線》は円環状のレールの上を模型の鉄道が走り、《知覚の3原色123》は3色の円形だけで成り立っている。最後の《赤で円を描く》はタイトルどおり、画面を赤い円で埋め尽くした絵画だ。そしてこの作品が、会場を一周して最初の《水中花》の連作に向かい合うように展示されているのは偶然ではないだろう。彼自身の制作もぐるっと回って円環状につながっているに違いない。

2021/11/06(土)(村田真)

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阿部航太『街は誰のもの?』

グラフィティは80年代前半ニューヨークで最初のピークを迎えたが、ニューヨークがジェントリフィケーションによって下火になるのと引き換えに、世界各地に飛び火していく。そのひとつがブラジルのサンパウロだ。この映画はサンパウロのグラフィティやスケートボードなどのストリートカルチャーを、デザイナーの阿部航太が追ったドキュメンタリー。

グラフィティを扱った映画は『WILD STYLE』や『INSIDE OUTSIDE』など、フィクション・ノンフィクションを問わず何本もあるが、違法にもかかわらず公共空間に書くことの意味を問うたり、依頼制作の合法的グラフィティ(それは「グラフィティ」ではなく「ミューラル=壁画」という人もいる)との違いについて語られることが多い。この映画も違法行為を繰り返すグラフィティライターを追いかけ、インタビューしていくなかで、タイトルにあるように、次第に街(公共空間)は誰のものなのかを問うようになっていく。ライターたちの言い分は、自分たちは無償で街を美しく飾っているのになにが悪い? ということだ。これはニューヨークでもヨーロッパの都市でも同じで、公共空間イコール自分たちの場所(だからなにやってもいい)という考えだ。実際、映画には路上で服や食べ物を売ったり、大統領に反対するデモを行なったり、地下鉄でギターをかき鳴らしたり、ホームレスが窮状を訴えたり、思いっきり街を活用している例が出てくる。

こういうのを見ると、やっぱりラテン系は騒がしいなと疎ましく思う反面、うらやましさを感じるのも事実だ。だいたい日本人は公共空間をみんなの場所(それはお上が与えてくれた場所)だから、自分勝手なことをしてはいけないし、自己表現する場所でもないと考えてしまう。だから、ゴミ拾いくらいはするけれど、街を美しくしようとか楽しくしようとか積極的に行動することはあまりない。これを国民性や文化の違いとして片づけるのではなく、表現の自由に対する自己規制や無意識の抑圧として捉えるべきではないかと思ったりもした。日本の街にグラフィティが少ないのは、必ずしも誇るべきことではないのだ。

さて、映画は後半以降グラフィティから離れてスケートボードの話に移るが、スケボーも同じストリートカルチャーではあるものの、とってつけたような蛇足感は否めない。映画としてはグラフィティだけでまとめたほうがよかったように思う。


公式サイト:https://www.machidare.com

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絵が生まれる場所──サンパウロ、ストリートから考えるまちとデザイン|阿部航太:フォーカス(2020年02月15日号)

2021/11/01(月)(村田真)

柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年

会期:2021/10/26~2022/02/13

東京国立近代美術館[東京都]

「民藝」とはなにか、なにがおもしろいのか、よくわからなかった。同展カタログによれば、「民藝」とは「1925年に柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎によって作られた新しい美の概念で、『民衆的工藝』を略した言葉」だそうだ。「工芸」が一般に巧みな技術によって創造された美的産物で、大量生産品より芸術性があり高価なものだとすれば、「民藝」はそれをより大衆化した安価なものらしい。いや、順序が逆か。そもそも「民藝」は人々の暮らしのなかに息づいていたが、そのなかから「芸術」を目指して美的にも技術的にも洗練されたものが「工芸」として差別化され、民藝は工業製品に押されて先細りになっていった。だから柳宗悦らはそれを「再発見」し、守らなければならなかったのだろう。あ、少しわかってきた。

ところで、「工芸的」という形容は、少なくとも美術作品に対してはホメ言葉ではなく、おおむね否定的に使われるが、「民藝的」といわれればどうだろう? 工芸的よりさらに格下かと思ったらそうでもなく、むしろ素朴で暖かく、人間味が感じられ、一周回って肯定的に受け止められないだろうか。うーん、やっぱりよくわからない。

展覧会のほうは、作品に興味を持てないのでほとんど素通りしたが、いくつか引っかかる点があった。ひとつは、民藝運動が単なる好事家たちの趣味などではなく、生活道具をとおして社会を美的に変革しようという文化活動、思想運動であったこと。これって、ウィリアム・モリスの提唱したアーツ&クラフツ運動と似てなくね? 確かに展覧会でもカタログでもアーツ&クラフツには触れられているけれど、両者にどれほどの影響関係があったのかは不明だ。もっともアーツ&クラフツは民藝より半世紀ほど前の運動だし、モリスも19世紀末には亡くなっていたから、民藝が関心を持ち始めたころにはすでに美術館入り(つまり「芸術化」「歴史化」)していたのかもしれない。

もうひとつは、彼らが『月刊民藝』に掲載した「民藝樹」という図。1本の木から枝が3本に分かれ、それぞれ「たくみ工藝店」「日本民藝館」「日本民藝協会」という実がなっている。これは民藝運動の三本柱を示すもので、たくみ工藝店は民芸品を販売するセレクトショップ、日本民藝館は民芸品の収集・保存・展示を行なう美術館、日本民藝協会は機関誌『工藝』『月刊民藝』などを出版する本部のこと。それぞれ市場価値を決定するマーケット、美的価値を保証するミュージアム、社会的価値を広めるパブリシティという三位一体を表わしているのだ。ここからも彼らがきわめて戦略的に運動を進めていたことがわかる。

最後に、「国立近代美術館を批判する」というコーナーを設けていたことにも注目したい。これは1958年に柳宗悦が『民藝』に発表した「近代美術館と民藝館」という批判記事に基づくもので、日本民藝館は「国立」「近代」「美術」を否定し、「在野」「非近代」「工芸」の立場に立つと主張したのだ。いってみれば日本民藝館は「在野立非近代工芸館」というわけ。その批判された近代美術館が民藝館からコレクションを借りて「民藝」展を開くと知ったら、柳は喜ぶだろうか、嘆くだろうか。

2021/10/25(月)(村田真)

アントワーヌ・ヴィトキーヌ『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』

2017年、レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる《サルバトール・ムンディ》がオークションで、美術作品の最高額を大幅に更新する約510億円で落札されて世界を驚かせた。しかもこの作品、2005年にわずか13万円で売買された代物。その後、修復してレオナルドの真作である可能性が高いと判断されたとたん、一気に値が釣り上がり、最終的に510億円で落札されることになった。わずか12年間で40万倍(!)にも高騰したことになる。この映画は、なぜ作品価格がこれほど釣り上がったのか、その裏ではなにが起きていたのか、そしてこの作品は現在どうなっているのかを、関係者の証言を交えながら追跡したドキュメント。 以前から専門家のあいだでは、レオナルド工房の《サルバトール・ムンディ》という絵があるといわれていたが、レオナルド本人が制作に関与したかどうかは不明だったし、そもそも作品自体も見つかっていなかった。裏を返せば、レオナルドの真作がどこかに存在する可能性がゼロではなかったことが、今回の狂騒のキモだ。

発端は、ニューヨークの美術商が競売会社のカタログを見て「これはひょっとして」と思い、13万円で購入。美術商はこれを知り合いの修復家に預けたが、彼女は修復の範囲を超えて加筆修整まで施してしまう。その甲斐あってか(?)、ロンドンのナショナル・ギャラリーで複数の専門家が鑑定したところ、真作であるとの意見が多数を占めたため、同館の「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に新発見の真作としてお披露目された。ナショナル・ギャラリーといえば美術界の権威中の権威、彼らがお墨付きを与えたということで、2013年には別の美術商が100億円で購入し、ロシアの大富豪に157億円で転売する。これが不当な売値であるとして富豪は美術商を提訴。ここまでで上映時間の半分以上を費やしている。

そして2017年、大富豪はオークション会社のクリスティーズにこの作品を委ねるのだが、クリスティーズの「煽り」がすごい。まず、美術オークションは通常「古典」「近代」「現代」の時代別に行なわれるが、《サルバトール・ムンディ》は古典美術ではなく現代美術の部門で扱われたのだ。理由は、現代美術の顧客は古典の知識が乏しいこともあってさほど真贋にこだわらないこと、また、芸術性よりも話題性のある作品、値の上がりそうな作品に興味を示すからだ。さらにクリスティーズは、オークション前の内覧会で作品の脇にカメラを据え付け、絵に見入る人たちの表情を捉えてPV化した。暗い背景の中で呆然と見つめる者、驚嘆する者、涙を拭う者などさまざま。同名のよしみか、ディカプリオも登場する。そんな宣伝効果も手伝ってか、《サルバトール・ムンディ》はオークション史上最高値の510億円で何者かによって落札された。

映画の終盤は、これを落札した人物と、《サルバトール・ムンディ》の行方を追う。落札者はその後、サウジアラビアの皇太子ムハンマド・サルマーンと噂される。同国のジャーナリスト殺害に関与したと疑われるヤバイ人物だ。作品は2019年にパリのルーヴル美術館での大規模な「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」に出品される予定だったが、所有者側は《モナ・リザ》の隣に展示されることを望んだのに対し、美術館側はあくまで「参考作品」としての扱いだったため交渉は決裂、出品されずに終わった。結局この作品、超高値で売買されたにもかかわらず真作か否か曖昧なままで、落札されてから一度も公開されていない。ひょっとしたら、皇太子は偽物をつかまされたってんで頭にきて破棄したんじゃないかとぼくはにらんでいる。そもそもイスラム国の指導的立場の人間が、救世主イエス・キリストの絵を大枚はたいて買うこと自体ありえない話。所有者の素行を見る限り、この絵を標的に「ダーツ遊び」しても不思議じゃないからなあ。

ぼくは実物を見たことないけど、報道を読んで《サルバトール・ムンディ》にレオナルドの手が入っている可能性はフィフティ・フィフティだと思っていたが、映画を見た後は限りなくゼロに近くなった。結局この映画が教えてくれるのは、レオナルドの偉大さでも芸術の奥深さでもなく、世界を躍らせるアートマーケットの耐えられない軽薄さであり狡猾さである。

公式サイト:https://gaga.ne.jp/last-davinci/

2021/10/22(金)(村田真)

小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌

会期:2021/10/09~2021/11/28

東京ステーションギャラリー[東京都]

小早川秋聲(1885-1974)といえば、なんといっても《國之楯》をはじめとする戦争画で知られる日本画家。2年前、《國之楯》を中心に約40点の作品による個展が京橋の加島美術で開かれたが、京都から始まった今回の展覧会は、初期から晩年まで100余点を集めた初の大規模な回顧展となる。

小早川は鳥取県の住職の息子として生まれ、僧籍に入りながら絵を学び、国内外を問わず旅を好んだ。初期のころは武将をはじめ、郷土玩具、旅先の風景などを描いた作品が多いが、目に留まったのは日露戦争に従軍したときの《露営之図》。暗闇のなか焚き火を囲む兵士たちをシルエットで描いたもので、30年後にも同趣の画題を繰り返すことになる。20代から東洋美術研究のためたびたび中国に渡り、1920年代には念願のヨーロッパ旅行を果たし、文化交流のためアメリカにも派遣された。こうした西欧見聞の成果が端的に現われているのが《長崎へ航く》だろう。これは日本に向けて出航するオランダ船を見送る女性たちを後ろ姿で表わしたもの。日本ではなくオランダから見た視点で描くというのは、国際的視野がなければできない発想だ。

小早川の人生が大きく動くのは1930年代に入ってから。1931年に満州事変が起こると中国に派遣され、戦争画に手を染めるようになる。多くの画家が従軍するのは日中戦争が始まる1937年以降のことだから、きわめて早い。以後、かつての《露営之図》を彷彿させる《護国》をはじめ、《御旗》《護国の英霊》《虫の音》《日本刀》《業火 シンガポールの最後》《出陣の前》など数多くの戦争画を制作。なぜ西欧を見聞し、国際的視野を身につけたはずの小早川が戦争画にのめり込んでいったのか、いまから見れば理解に苦しむ。しかし、享楽的で退廃的なエコール・ド・パリで一世を風靡した藤田嗣治が戦争画に転身したのとは違い、父は光徳寺住職、母は三田藩主九鬼隆義の義妹という保守的な家に生まれた小早川にとって、国威発揚のために絵筆を振るうのは疑う余地もなく当然のことだったのかもしれない。

だが一方で、従軍中に戦死した兵士の火葬に立ち合い、読経の供養もしたという小早川は、「惨の惨たるもの之あり候」と戦争の悲惨さを嘆いてもいる。従軍画家として戦意を煽りながら、仏教徒として生命を愛おしむというジレンマ。その葛藤の狭間に生まれたのが《國之楯》ではなかったか。寄せ書きのある日章旗を顔に被せた日本兵の遺骸を描いたこの作品は、陸軍が依頼したにもかかわらず受け取りを拒否されてしまう。遺体の描写は戦意を喪失させる、というのが理由だった。

戦争初期において日本兵の死を描くことはタブーだったが、戦況が悪化するにつれ戦死者は「殉教者」に祭り上げられ、全滅は「玉砕」に読み替えられ、死体の描写などの悲惨な場面も容認されていく。しかしそれが戦意を高揚させるか、厭戦気分を増幅させるかは微妙だ。藤田嗣治の《アッツ島玉砕》は悲惨な描写ゆえに圧倒的な支持を受けたが、それはギリギリの線を狙った藤田の戦略勝ちといえる。だが小早川にはおそらく戦略などなく、ただ画家であり仏教徒でもあるという二面性がこの作品で図らずも露呈してしまったということだろう。

戦後、小早川は戦争に協力したことを反省し、《國之楯》の遺体の上に散っていた桜を塗りつぶしてしまう。少しでも愛国的な要素を消そうとしたのだろう。そのため現在ではこれを「反戦画」として見直す人もいるそうだが、頭上と身体全体にうっすらと光輪をかぶせることで、遺体を「英霊」として聖化させていることは否定できない。戦後は戦争画を描いた画家としてその画業は忘れられていたが、半世紀たって《國之楯》が掘り起こされ、再び美術史に浮上して今回の回顧展につながったのだから、まことに戦争と美術の関係は一筋縄ではいかないものだ。

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小早川秋聲─無限のひろがりと寂けさと─|村田真:artscapeレビュー(2019年10月01日号)

2021/10/19(火)(村田真)