artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

目[mé]「非常にはっきりとわからない」

会期:2019/11/02~2019/12/28

千葉市美術館[千葉県]

いつもはビルの8階に受付があるのだが、今回は1階のさや堂ホールに受付をしつらえ、7、8階の展示室に上がる仕組み。さや堂ホールは工事中みたいに半透明のシートで覆われ、中央に置かれた教壇のような台の上には布に包まれた彫像らしきものが2体置かれ、手前に椅子を並べている。んー、なんか怪しげだ。

まず8階に上がってみた。展示室にはところどころ目の作品や美術館のコレクションが飾られているが、一部にはシートが掛けられ、脚立や仮設壁が無造作に置かれ、あろうことかスタッフが道具を持って行ったり来たり、仮動壁をあっちこっち動かしたりしているではないか。展示し終わった作品を見せるのではなく、作品の搬入(搬出)プロセスを見せる「ワーク・イン・プログレス」のインスタレーションだろうか。などと思いながら7階に下りてみると……、あれ? と思ってもういちど8階に上がって確認し、また下りて、を何度か繰り返すことになる。ぼくだけじゃなく、みんなそうして自分の「目」を疑っていた。

まだ会期もあるのでネタバレしないように詳しくは書かないが、これは7、8階の展示室の特殊な構造に着目したインスタレーションであり、もし展示室の構造が違っていたらこの発想は生まれなかった展覧会だ。だとするなら、この展覧会は目のほうから美術館にアプローチしたのだろうか、それとも美術館が目にオファーしてから展示室に着目したのだろうか。いずれにせよここまでやりきるのは見事というほかない。しかもインスタレーションだけなら単なるトリックアートになりかねないところを、スタッフがあれこれ動かすパフォーマンスを加えることで時間軸を掻き乱し、複雑性を増している。

そもそも美術の根源は「物真似」にある、とぼくは思っている。目の前にあるものでもないものでも、ホンモノそっくりに描き出すこと。これが絵画の出発点だ。不思議なことに人間は、そうした物真似=ニセモノを喜び、ときにホンモノ以上に重宝したりする。こうしたホンモノとニセモノとのせめぎ合いを、目は楽しみながら作品化し、また見る者を驚かせようとする。美術の出発点が物真似遊びにあるとするなら、目はまさに美術の原点に戻って遊んでいるのだ。あれ? ネタバレしちゃった? 帰りに美術館の隣の更地を見ると、鉄パイプの足場が組まれ、仮囲いには「千葉市立美術館拡張整備工事」の看板が貼られていた。ひょっとして、これも目の仕業? 館名もわざと間違えた?

2019/11/30(土)(村田真)

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「みえないかかわり」イズマイル・バリー展

会期:2019/10/18~2020/01/13

メゾンエルメス8階フォーラム[東京都]

まず、映像をやっている奥の展示室へ。日にかざして真っ白に見える1枚の紙。その紙の裏側に指を置くと、そこだけ陰になり、群衆の像が見えてくる。紙を裏返して同じように指を置くと、今度はアラビア文字が浮かび上がる。裏表に画像と文字をプリントした紙を日にかざしただけの映像だが、ひとつのものでも見る角度やなにかを介在させることで、まったく別のものが見えてくることを示唆している。

壁を見ると、山並みのような線が引かれ、その線上に細い針が何百本も刺してある。作品リストを見ると、素材は「ピン」とだけしか書いていない。よく見たら、線を引いているのではなく、壁に刺した針の影の先にまた針を刺して、その影の先にまた針を刺して……を繰り返すことで山並みの線をつくっているのだ。つまり線は影だった。

大きい展示室には入れ子状にもう1つ部屋がつくられ、その内部にいくつかの作品を展示しているのだが、これが絶妙の効果を生み出している。その好例が、壁に小さな板を立てかけ、裏から光を当てた作品。まるで高松次郎の《光と影》のミニチュアだが、裏の壁にスリットを入れて向こう側の光を採り入れているのだ(壁の裏側に回ることができるので確かめられる)。ガラス張りのため日光がさんさんと降り注ぐこのギャラリーの、いささか使いづらい空間特性を生かした逆転の発想だ。

もう1点、気になったのは、台の上に細かい砂が敷かれ、その上にくっきりボールの転がった跡だけが残されている作品。ちょっとシャレててトリッキーでいけすかないなあと思ったが、帰りにエレベーターに乗ったら、ガラス越しにボールがぽつんと置かれているのを発見! オチをつけられたようで、愉快な気分になった。ちょっとした思いつきから発想された作品ばかりじゃないかと思うけど、どれも遊び心にあふれていて楽しめる。作者のイズマイル・バリーはチュニジア出身。

2019/11/23(土)(村田真)

退職記念展 母袋俊也 浮かぶ像─絵画の位置

会期:2019/10/30~2019/11/30

東京造形大学附属美術館+ZOKEIギャラリー+CSギャラリーなど[東京都]

1954年生まれの母袋は、世代的には80年代作家ということになるだろうが、ニューペインティングやらニューウェイブやら次々と登場した80年代の喧噪とは無縁の地平で、1人(孤軍奮闘と言っていい)独自の絵画を厳密とも言える態度で模索してきた画家だ。

80年代にドイツに留学し、キリスト教の精神性や彼が「フォーマート」と呼ぶ絵画形式を研究。帰国後、複数パネルを連結させた絵画を制作し始める。これには中心を持たない偶数枚パネルの「TA」系(アトリエのあった立川のイニシアル)をはじめ、縦長パネルの「バーティカル」、「TA」とは違い中心性を有する奇数枚パネルの「奇数連結」などのシリーズがあり、余白とタッチを生かした風景やキリスト教モチーフが描かれる。ここからさらに、風景を矩形の枠で切り取るための窓を有する「絵画のための見晴らし小屋」へと飛躍。これは母袋には珍しく屋外に展示する作品、というより、風景を見るための装置だ。

世紀の変わるころから、これらに正方形フォーマートの「Qf」系が加わり、豊かな色彩と筆触によるうねるような形態が現われる。よく見ると、キリスト像や印を結んだ手が認められるが、これはルブリョーフのイコンと阿弥陀如来像から引用したイメージだそうだ。この「Qf」絵画は、正方形の像が向こう側の「精神だけの世界」から、こちら側の「現実の世界」に押し寄せてくるものと考え、それを実体化して「Qfキューブ」という立方体の箱に行きついた。きわめて論理的に展開しつつ、精神性も重視している。ほかにも、同一サイズの画面にさまざまな空の表情を描いた「Himmel Bild」のシリーズがあるが、これらはすべてフォーマートと描かれる内容が連動しているだけでなく、シリーズ同士が相互に関係しながら並行的に制作されているという。

こうして見ると、母袋がドイツで学んだ絵画形式やキリスト教の精神性と、日本の風景や仏教美術などの相容れがたい要素を、長い時間をかけて把捉し、撹拌し、融合させ、作品に昇華させてきたことがわかる。それだけでなく、たとえば「Qf」系の作品では、パネルの側面を角皿のように削ったものがあり、これは母袋によると「物理的な絵画の厚みと『像』の厚みを切り離して認識すること(『像』の膜状性)を導くための試み」(解説より)とのこと。作品の見方・見え方にも周到な配慮が施されているのだ。母袋がいかに独自の絵画体系を築こうとしてきたかが理解できるだろう。

今回はこれらの主要作品だけでなく、膨大なプランドローイングをはじめ、映像、論文、これまでの個展のパンフレットまで公開している。系列ごとに整理された展示や、懇切丁寧な作品解説、保存状態のいいドローイングなどを見ると、作者の律儀で厳格な性格がわかろうというものだ。これまで断片的に作品は見てきたものの、本展でようやく母袋の全体像がおぼろげに浮かび上がってきた。

2019/11/18(月)(村田真)

アルフレッド・ジャー展 The Sound of Wind / 風の音

会期:2019/10/04~2019/11/02

KENJI TAKI GALLERY / TOKYO[東京都]

オペラシティに行く途中、開いてるみたいなので寄ってみた(会期はとっくに終わっている!)。アルフレッド・ジャーは昨年発表された第11回ヒロシマ賞を受賞したチリ生まれのアーティスト。今回はヒロシマ賞に因んで核をテーマにした作品が展示されている。

ギャラリーの中央に据えられたライトテーブルの上に、三つのキューブが置かれ、各面にそれぞれ「HI」「RO」「SHI」「MA」、「NA」「GA」「SA」「KI」、「FU」「KU」「SHI」「MA」の文字が刻印されている。みんな4音ずつであることにあらためて気づく。見ていたら急にライトテーブルが消えた。しばらくするとゆるやかに点灯し始める。光のエネルギーを感得させる仕掛けか。壁には三つの時計がかかり、それぞれ8時15分、11時2分、2時46分を指し示している。前2者は原爆が投下された時刻、後者は地震の発生時刻だが、よく見ると長針と短針は止まっているのに、秒針だけは動き続けている。

よく考えてつくられているなあと感心する一方、ふと「HIROSHIMA」「NAGASAKI」と「FUKUSHIMA」を同列に並べていいのだろうか、とも思う。核による甚大な被害を被った点では同じだが、前2者は戦争により人為的に投下され、何万もの人命を奪った大量殺人であるのに対し、後者は原発事故。福島の人はヒロシマ、ナガサキと同列に並べられ、モニュメンタルに作品化されてどう思うだろう? 逆に広島、ナガサキの人たちは? こういう社会問題を扱うのは難しい。

2019/11/12(火)(村田真)

試写『ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像』

名画をめぐるオークションの話はよくある。父と娘と孫の愛憎物語も珍しくない。でもその二つが絡み合う映画は見たことがなかった。時代に取り残された老画商が、オークションハウスで1点の肖像画に目を止める。サインはないが、もしかして、名のある画家の知られざる作品? そろそろ店じまいを考えていた画商は、最後に一花咲かせようと、この1点に賭ける。そのころ、音信不通だった娘から問題児の孫の世話を頼まれ、聞かん坊だが好きなことには夢中になる孫とともに、その絵の作者を調査。探し当てた作者は、ロシアの巨匠イリヤ・レーピンだった。しかし落札するにも金がない。画商は資金繰りに奔走し、とうとう孫の貯金にまで手を出してしまう。怒った娘は父と断絶……。

最後は父の死により家族のわだかまりは消え、物語としては丸く収まるのだが、なにか引っかかる。それはおそらく、老画商が芸術的価値を見抜く才能を持っているのに、それをあっさり金銭的価値に転換させてしまったことだ。もちろん画商は芸術的価値を金銭的価値に置き換えるのが商売だから、むしろそれをしないのは画商失格だが、しかしこの画商は作品がレーピンのものだと直感した瞬間から金の亡者と化してしまい、いかに金を集めるかばかりを考えてしまう。そうでなければ物語が進まないことはわかっているけれど、なんかこの主人公には共感できないなあ。

2019/11/06(水)(村田真)