artscapeレビュー
村田真のレビュー/プレビュー
シュテファン・バルケンホール展
会期:2019/09/07~2019/10/05
小山登美夫ギャラリー[東京都]
戸谷と同じく木彫ながら、戸谷とは違って具象の人体像をつくるのがドイツの彫刻家、シュテファン・バルケンホールだ。その特徴は、まず1本の木から台座ごと彫られた一木造であること。しばしば上の人物像より台座のほうが大きいこともある。二つめは、彫り跡のささくれを残すなど仕上げが粗いこと。そのため、彼がデビューした80年代にブームだった新表現主義の彫刻家と目された。三つめは、人物像のサイズが等身大より小さいこと。たまに大きいこともあるが、等身大ではない。四つ目は、人物が非個性的で無表情であること。作者はこれを「Mr. Everyman」と呼んでいるそうだ。五つ目は、表面を彩色していること。男性像は白いシャツと黒いズボン、女性像は赤い服という設定になっている。
これらの特徴から、バルケンホールが彫刻の伝統を重視しつつ拡張していることがわかる。また、これが人物彫刻である以前に、文字どおり木を彫った「木彫」であるという主張も伝わってくる。だから主題はだれでも、なんでもよく(ゆえにMr. Everymanなのだ)、極端に言えば人物像はトッピングに過ぎないのだ(もちろんトッピングがいちばん目を引く)。今回は彩色レリーフや、一刀彫のドローイングもあって、「彫刻」概念をどこまでも拡張してくれる。
2019/10/01(火)(村田真)
菅野由美子展
会期:2019/09/24~2019/10/12
ギャルリー東京ユマニテ[東京都]
菅野はここ10年と少し、カップや皿や瓶など器ばかりを描いている。最初はスルバランのように横に並べただけの静謐なものだったが、次第に棚が現れ、それがエッシャー空間のように複雑化し、にぎやかになってきた。今回は棚も床もなく、器が宙に散らばっているような静物画もある。いや、これは果たして静物画と呼ぶのだろうか。いちおう床置きの設定だろう、影はあるのだが、遠近感が無視され、奥の器も手前の器も同じ大きさに描かれている。あるいは、1枚の画面にいろんな器をそれぞれ別個に描き込んだともいえる。初期の頃は器の存在感を表象しようとしていたように見えるが、いまはその存在感を成り立たせる現実感が薄らいできているように感じる。この先どんな静物画が描かれるのか、楽しみのような、不安なような。
2019/10/01(火)(村田真)
松本倫子展「ニューヨークに銭湯」
会期:2019/09/27~2019/10/27
BankART SILK[神奈川県]
フリーハンドで丸っこく切り抜いたカラフルな板が、壁一面に飾られている。よく見ると、どれもネコが1匹から数十匹まで固まった形をしているのだが、曲線で分割された面には蛍光色や赤、緑、水色などおよそネコらしくない色彩が施され、水玉やウロコ模様まで描かれている。中世のアラベスク模様を思い出させるが、パラノイアックなアウトサイダー・アートと見ることもできるし、ポップな現代絵画と捉えることもできる。しかしその「どれでもなさ」が彼女の作品の特質だ。
展示も、四角いタブローなら横一線に並べるところだが、丸っこい板なので、まるでネコがくつろぐように壁一面に散らしている。これは楽しい。板だけでなく、襖、仮面、ショッピングバッグに描いた作品もある。ドローイングには、ネコが玄関の上に居座る《ニューヨーク銭湯の外観》と題する作品もあって、これがタイトルにも使われているわけだが、いうまでもなく「入浴」と「銭湯」をかけたダジャレ。
2019/09/28(土)(村田真)
ダ・ヴィンチ没後500年「夢の実現」展 記者発表会
桑沢デザイン研究所[東京都]
来年1月、代官山のヒルサイドフォーラムで、ダ・ヴィンチ没後500年「夢の実現」展が開かれる。主催する東京造形大学がその概要を発表した。このプロジェクトは、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画、彫刻、建築、工学など未完成を含む作品や発明品を、最新の技術を駆使して制作当時の姿に復元しようというもの。《聖ヒエロニムス》《東方三博士(マギ)》の礼拝》《最後の晩餐》など16点の絵画をはじめ、《スフォルツァ騎馬像》「大墳墓計画」「距離測定車」など計31点におよぶ。といっても、本物そっくりに模写したり、彫刻を再現したりするわけではなく、CGなどを使ったヴァーチュアル復元だが、それでもレオナルドがなにを考え、どのようにつくったかをたどりながら復元するという。
しかしなんでそんな大それたことを小さな一美大がやるのかといえば、造形大がバウハウスのような総合芸術の教育を目指しているので、レオナルドは素材としてもっともふさわしかったから、とも言えるが、それよりなにより、レオナルド研究の第一人者である池上英洋氏が同大の教授を務めているからだろう。だから期待は高まる反面、池上教授を除くとレオナルドやルネサンス美術の専門家が見当たらないのが、いささか心もとない。蛇足ながら、池上教授は会見で「レオナルド」と呼んでいたが、タイトルは「ダ・ヴィンチ没後500年」となっている。ダ・ヴィンチとは非嫡出子で姓のないレオナルドに冠せられた「ヴィンチ村出身の」といった程度の意味だから、ここはやはり「レオナルド没後500年」にすべきだと思うのだが。
2019/09/25(水)(村田真)
アートのお値段
ポロックやウォーホル、バスキアの作品が100億円を超す高値で売買される現代。よく聞かれる疑問が、本当にそれだけの価値があるの? そもそも美術品に適正価格はあるの? ってこと。これに対する答えは、美術品(に限らないが)の価格は需要と供給の関係で決まるということだ。つまり、その作品を欲しい人が2人以上いれば価格はいくらでも上がるが、1人もいなければゼロに等しい。そしておそらく、2人以上がほしがる作品は全体の1パーセントにも満たず、大半の作品は値がつかないか、つけても売れないということだ。この極端な格差がごく一握りの作品を超高額に押し上げる一方、99パーセントのゴミを生み出している。これを聞いて思い出すのが、世界の富豪上位26人が有する資産の合計(約153兆円)が、下位半分(38億人)の資産とほぼ同額という統計だが、アートの世界はもっと極端かもしれない。
この『アートのお値段』は、高騰を続ける現代美術の価格と価値を巡るドキュメンタリー映画。そもそも現代美術の価格が高騰し始めたのは、日本のバブルがはじけてアートマーケットが縮小した90年代のこと。日本人が近代美術を買い漁って底をついたため、今度は作品がいくらでも供給できる現代美術にスライドしたというのだ。だれが? ごく一部のギャラリスト、オークショニア、コレクター、そしてアーティストだ。言ってみれば、アートマーケットは彼ら数十人のプレイヤーが動かすゲームみたいなもの。その最優秀プレイヤー(?)として登場するのが、広大なスタジオでスタッフに絵を描かせ、自分は指示を出すだけのアーティスト、ジェフ・クーンズであり、その対極として描かれるのが、かつてドットを使ったオプ・アートの旗手として名を馳せ、現在は郊外の一軒家で目の覚めるようなペインティングに取り組むラリー・プーンズ。その中間に位置するのがゲルハルト・リヒターだ。
『アートのお値段』というタイトルは身もふたもないが、原題は『THE PRICE OF EVERYTHING』で、これはオスカー・ワイルド著『ウィンダミア卿夫人の扇』のなかの「皮肉屋というのは、あらゆるものの値段を知っているけど、そのものの本当の価値を知らない人のことさ」というセリフから来ている。つまり価格と価値は別物だということであり、ここではクーンズは価格派、プーンズは価値派であり、リヒターは価値を重視しながら価格に乗る派、に分類できる。いずれにせよ、アートのお値段は芸術性とは関係ないということだが、実は無関係というだけでなく、美を感じる脳と欲望により活発化する脳とでは正反対の反応を示すと、精神科医でコレクターの高橋龍太郎氏はパンフレットのなかで指摘する。どうやら価値(美)と価格(欲望)は別物どころか、対極に位置しているらしい。なんとなくアートマーケットに感じていたモヤモヤ感が、少しすっきりした。
この映画でもうひとつおもしろかったのは、プーンズのほか、美術評論家のバーバラ・ローズやギャラリストのメアリー・ブーンなど、1970-80年代に活躍した過去の人たちが登場すること。もっとも、すっかり別人のようになったメアリー・ブーンはつい最近、脱税で捕まって名前が出たばかりだが。新表現主義をマーケットに乗せた彼女も、結局「アートのお値段」に振り回されたのか。
公式サイト:http://artonedan.com/
2019/09/22(日)(村田真)