artscapeレビュー

村田真のレビュー/プレビュー

藤幡正樹「E.Q.」

会期:2019/07/06~2019/08/31

東京画廊[東京都]

壁に魚眼レンズで撮ったような映像が映し出される。よく見ると映像の中心にカメラが仕掛けられ、観客を含めた画廊空間全体が映し出されるのだが、その動画イメージの中心にブラックホールのような黒い穴ができたり、楕円形につぶれたり反転したり、動き続けている。奥の部屋には白い枕が置かれていて、近づくといきなり虫みたいなものが湧いてくる。これも正面に据えたカメラが捉えた観客の姿を細胞のように細かく分けて再生したもの。大ざっぱな原理はわかっても、なにをどうすればこういう映像が得られるのかさっぱりわからない。それはぼくの知識の問題だが、ここでは視覚技術がどこから視覚芸術になるのかが問われている。

2019/08/30(金)(村田真)

中谷ミチコ「白昼のマスク/夜を固める」

会期:2019/08/09~2019/09/01

アートフロントギャラリー[東京都]

中谷はレリーフを用いた作品を制作しているが、一般にレリーフが「浮き彫り」であるのに対し、彼女が使うのは凹凸を反転させた凹型レリーフ。思わず「沈み彫り」といってしまいそうだが、「沈み彫り」は地=背景面が彫った面より高い浮き彫りのことなので、鋳造過程における「雌型」といったほうがわかりやすい。雌型は通常ブロンズなどを流し込んで用を終えるが、彼女は雌型に透明樹脂を流し込んで固めたものを作品とする。だから透明な面をのぞくと奥に人物の顔や動物の姿が見えるが、それは凹凸がひっくり返った状態であり、いわば彫刻の「裏面」なのだ。ここに1つ反転の発想がある。

今回は新作として、内部に人物や草むらが見える黒い立方体の彫刻を出品している。これは「夜を固める」というタイトルのごとく、内部に雌型を配置して黒い半透明の樹脂で固めたもので、闇を立体化した彫刻といってもいい。闇を描いた絵というのはたまにあるが、闇を表した彫刻というのは見たことがないし、考えたこともなかった。そういえばかつて、なぜ光線があるのに闇線はないんだろうと疑問に思ったことがある。光のスポットを当てるように、闇のスポットを当てるとそこだけ暗くなるような、そんな闇線を発明したら、演劇やマジックショーでは重宝するはずだ。でもそれが不可能なのは、闇という実体があるのではなく、光がない状態を闇と呼ぶからだ。光がなければなにも見えないので、絵では黒色で表せるけど、彫刻では表しようがない。それを中谷は一種の情景彫刻として実現させたのだ。これがもう1つの反転の発想だ。「白昼のマスク/夜を固める」は2つの反転の発想で成り立っている。

2019/08/30(金)(村田真)

シンコペーション:世紀の巨匠たちと現代アート

会期:2019/08/10~2019/12/01

ポーラ美術館[神奈川県]

「モネ、セザンヌ、ピカソ──。巨匠たちと出会う現代アート」とのキャッチコピーが踊る同展は、ポーラ美術館が誇る近代美術コレクションと、現代の12組のアーティストの作品をセットで紹介する、いわば「近現代」のコラボレーションの試み。

最初のセレスト・ブルシエ・ムジュノは、モネの《睡蓮》の隣に円形の青い池をつくり、大小の白い皿を浮かべた。それだけでも睡蓮のように美しく涼しげだが、水を流動させて皿同士をぶつけることで、乾いた音を響かせている。ムジュノはもともと音楽家で、偶然性を取り入れたサウンド・インスタレーションを展開しているアーティスト。これはさわやか。渡辺豊はセザンヌ、ピカソ、藤田嗣治の作品イメージを断片化してキュビスム風に再構築していく。今回なぜか写真が多数を占めるなか、数少ない絵画であること、近代絵画に正面から向き合っていること、出品作品が50点以上とハンパないこと、それを9点の近代絵画に織り交ぜて壁いっぱいに展示していることで、本日のベスト。最後の部屋のオリヴァー・ビアは、10数点の東洋陶磁コレクションを台座の上に並べ、器にマイクを仕込んで反響音を増幅させ、音楽を生み出している。壷たちのオーケストラだ。音楽関連でマティスの《リュート》が掲げられているが、これはオマケみたいなもの。

屋外の遊歩道にも1点、スーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーションがある。森の木の幹に設置された11個のスピーカーから、ラヴェル作曲「シェヘラザード」の「魔法の笛」におけるフルートの旋律を断片化した音が流れてくる仕掛け。対する近代美術は「印象派」となっているが、これは印象派の画家たちが屋外で制作したことに因んだ選択で、実際に作品が屋外に飾られているわけではない。

こうしてみると、音を使った作品に佳作が多いことに気づく。まあ美術館や森のなかで音を出せばつい聞き惚れてしまうので、ずるい気がしないでもないが。でもほかに写真の作品が5組ほどいたけど、その多くは自作の写真を近代絵画と組み合わせただけで、展示にあまり工夫が感じられない。それに比べれば、サウンド・インスタレーションのほうがはるかにイマジネーションに富んでいた。

2019/08/09(金)(村田真)

artscapeレビュー /relation/e_00049885.json s 10156808

新鋭作家展 あ、これ、ウチのことです。

会期:2019/07/13~2019/08/25

川口市立アートギャラリー・アトリア[埼玉県]

いちおう審査に関わったので内輪ネタになります。今回8回目を迎えた公募展だが、ただ作品を見て合否を判断するのではなく、1次審査で作品プランを検討し、2次審査で面接して2人に絞る。ここまではよくあるが、同展は地域性を重視するため、1年近く学芸員と相談しつつ現地を取材したり、住人たちと交わったりしながら作品を制作し、発表してもらうという大河ドラマのような流れなのだ。

今回選ばれたのは、蓮沼昌宏と上坂直の2人。パラパラマンガを手回しで見る装置「キノーラ」で知られる蓮沼は、ギャラリーに隣接する団地に住むおもに海外からの移住者に話を聞き、それをパラパラマンガに描き起こしてキノーラで見られるようにした。テーブルと椅子が年季が入っていると思ったら、閉店した団地内のレストランから運び込んだものだという。

美大で建築を学んだ上坂は、プラスチックの衣装ケースを何十個も積み上げて3棟の高層団地に見立て、引き出しのなかにミニチュアの靴や雑貨を置いたり、磨りガラスの奥で人影を動かしたりして部屋のように仕立てている。なんとなく団地の室内をのぞき見る感じ。動く人影も団地の住人の協力を得て撮影したものだそうだ。そんなわけで2人展のタイトルは「あ、これ、ウチのことです」。願わくば、団地の人たちがもっと見に来るように。

2019/08/07(水)(村田真)

永遠の門 ゴッホの見た未来

盛り上げようと思えばいくらでもドラマチックに盛り上げられるはずのゴッホの生涯を、あくまで画家の立場から、画家自身の目で粛々と捉えた主観映画。ここでいう画家とはもちろんゴッホのことだが、監督ジュリアン・シュナーベルのことでもある。シュナーベルが80年代に新表現主義の画家として一世を風靡したことは知られているが、盟友ともいうべき早逝の画家を撮った「バスキア」をはじめ、映画監督を始めてからもつねに画家の立場、画家としての視線を忘れていない。この映画でもゴッホと自分を、表現主義の先駆者とその末裔として重ね合わせている。

ゴッホを演じるのは怪優ウィレム・デフォー。名前からするとオランダ系なので、それでゴッホ役に選ばれたのかと思ったら、ただのアメリカ人だそうだ(笑)。対するゴーガン役のオスカー・アイザックは、顔が似ているだけでなく、いかにも傲岸そうなふてぶてしさをよく出している。それにしてもゴッホより5歳上のゴーガンを、デフォーより2回りも年下の役者が演じているのに違和感を感じさせないのは、両者の名演ゆえだろう。

カメラは手持ちで画家を追い、またしばしば画家の目線で撮られるので、激しく揺れる。見にくいといえば見にくいが、それが観客をゴッホの揺れ動く不安な精神状態に導く。そして最期のシーン。ゴッホの死因はピストル自殺が定説だが、シュナーベルは悪童たちによる暴発説に従った。自殺のほうがいかにも悲劇的で「泣ける」のに、ここではあえてあっけない事故死を採用したのだ。シュナーベルがやろうとしたのは、ゴッホの生涯に感動させることではなく、ゴッホの内側に入って画家の生と死を追体験させることだった。いってみれば、観客をゴッホにする試みなのだ。だからツライ。終わった後、涙が流れて仕方なかった。

公式サイト: https://gaga.ne.jp/gogh/

2019/08/05(月)(村田真)