artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

大橋可也&ダンサーズ『テンペスト』

会期:2015/11/06~2015/11/08

東京・両国 シアターX(カイ)[東京都]

大谷能生が舞台上で朗読する言葉(表題通りシェイクスピアの戯曲もあり、安倍晋三の発言もあり)たちとダンサーたちの踊りが共振する。言葉は断片的で、だから物語も展開も明確には存在しない。わずかにわかるのは、描かれているのが「嵐」によって文明がゼロ状態になった世界ということ。東日本大震災を反映しているのは間違いない。ダンサーたちは風に飛ばされるように、突然何者かに意識を奪われて自分の意思が行方不明になってしまったかのような動きを繰り返す。見ながらずっと考えていたのは、舞台に社会を映し出そうとする大橋の試みに的確に反応するのは誰だろうということだ。世間の多くは、舞台に現実を見ようとはしない。言い換えれば、世間の人々は現実に向き合っていないのではなく、向き合いすぎていて(それがいかに独りよがりの世界解釈だとしても)、現実に直面することよりも逃避することを望んでいる。自分を社会という鏡に写したくないのだ。では、誰はそれを望んだか。大橋可也&ダンサーズは以前、非正規雇用が深刻な社会問題として話題になったころ、「ロスジェネ」の苦悩に応答するような舞台を意識的につくっていた。いまでも大橋作品の観客にはその層がいるはずだ。ロスジェネの怒りは社会から自分が見放されていることにあった。だから彼らは社会という鏡が自分を映すことを求めた。「ロスジェネ」世代もそこで確認された問題も消えたわけではない。とはいえ、一方で、SEALDsのような社会をつくろうとする動きが出てきている。彼らの台頭によって、社会が自分を映してくれるかどうかよりも、社会自体を変えようとする意識が高まっているなか、さて、舞台は「反映」の役割を担うべきかどうか、いまそれが問われるのではないか。発見か発明か。もちろん二者択一ではないのだが、発明の要素、すなわち「変容」へ向けた想像力のほうを、筆者などは舞台に探してしまう。

2015/11/07(土)(木村覚)

プレビュー:岡田利規『God Bless Baseball』

会期:2015/11/19~2015/11/29

あうるすぽっと[東京都]

フェスティバル/トーキョー(F/T)をはじめとして、この時期は舞台芸術ラッシュなわけだけれど、もっとも見逃してはならないのは岡田利規の『God Bless Baseball』だろう。岡田作品なのはもちろんのこと、舞台美術に高嶺格、また『Urban Folk Entertainment』の記憶も新しい舞踏家・捩子ぴじんの参加など、話題性はふんだんにあり、また韓国の出演者たちとのコラボレーション、光州での初演といった東アジアとの交流のあり方を考える良い機会であることも注目すべき理由のひとつだ。それにしても、「野球」というテーマが気になる。もちろん、自国の優勝決定戦をワールドシリーズと呼んでしまうアメリカ合衆国の野球界から日韓に持ち込まれたスポーツであることは言うまでもない。その「野球」にどこまで深いメタファーがちりばめられているのか、その深さが今後の日本の舞台芸術の指針になることを期待したい。


岡田利規『God Bless Baseball』フェスティバル/トーキョー15  トレーラー

2015/10/31(土)(木村覚)

岸井大輔『始末をかく4「茶屋建築に求めてゆかなければならぬ」』

会期:2015/10/03~2015/10/12

横浜各所[神奈川県]

馬車道の喫茶店サモアールを出発点に、横浜各所(10カ所)を歩いて見ていく演劇作品。各所に着くたび手紙を渡される。手紙には、次の場所の来歴が岸井の言葉で語られる。横浜は世界的な観光地である。日本丸のあたりで手紙を読む。ドックの保全が芸術作品によって、次に商業施設によって、いまは「BUKATSUDO」(街のシェアスペース)によって図られているとの説明を受ける。景色が、いつもと違って見える。他には、横浜市のクリエイティブシティ事業で補助を受けるアーティストのアトリエ、展覧会開催中の横浜市民ギャラリー、ヨコハマアパートメント、かつて居酒屋だった建物、あるいは黄金町バザールが会場となった。岸井は『POTALIVE』で散歩を演劇として捉える活動を10年以上前から始めている。2時間以上ゆっくりと横浜の港エリアだけではなく、山のほうのエリアもめぐる。手紙にも書いてあったが、疲労度でいえば、これは高尾山登山に類する体験だ。丁寧に歩くことで、横浜が立体的に見えてくる。食べたり飲んだりも、バスやタクシーでの移動も、すべては日常のことでありながら、劇の一部でもある。痛快なのは、上演の輪郭が見えないことで、「始末」とは始まりと終わりのことだというのだが、それを「欠いている/書いている」のがこの演劇なのだ。途中で降りてもよい。かくいう筆者も、見過ごしたエリアを残してしまった。座席の角度で見えない芝居ができてしまうように、各自の体験によってしか「始末」は問えない。観客はすべて異なる演劇を観た。劇場に縛られないが故のことだろう。

2015/10/12(月)(木村覚)

『“distant voices - carry on”──青山借景』

会期:2015/10/10~2015/10/12

スパイラルホール[東京都]

fieldworks(ハイネ・アヴダルと篠崎由紀子)を中心に、インスタレーションに梅田哲也、著名な日本人ダンサーたちも多数加わった、豪華な企画。スパイラルホールというビルのあちこちを前半は移動しながら、後半はフラットな舞台空間で上演が行なわれた。白い箱と黒い箱。大きいサイズもあれば、手の平サイズもある。前半は、観客7人ほどが組となり、1人のダンサーに連れられ、街やビル内の雑貨店などへとまなざしを促され、箱を見つけながら、時が過ぎていく。サイトスペシフィックな上演は、いまやまったく珍しいものではない。とくに越後妻有や瀬戸内を経験したあとでは、都心でのこうした形態の上演が「抽象的」に思えてしまう。越後妻有や瀬戸内では、美術作品を見ていたまなざしがその周囲に存在する自然や人の営みを思いがけず拾う、そうした不意の出会いが面白いのだけれど、ここでは美術作品は白と黒の箱に変わり、目が泳いでも、見えるのはいつもの街のアイテムたちで、新鮮な発見とはいい難い(この対比は、たんに住んでいる場所に依存するものかもしれず、地方在住の方たちは、この上演に新鮮さを感じるかもしれない)。ダンサーに案内される「見学旅行」は舞台裏を覗く楽しさがあるとしても、ダンサーの踊りの味わいは微弱だし、さて、なにをどう味わえばよいか……と思っていると、楽屋のエリアで目を瞑るよう指示される。そこでは、梅田哲也の演出する音響に耳を傾けることとなる。次いで、舞台空間に通されると、観客の前に、50個の白い箱が現われ、ダンサーたちはそれを押したり引いたり、組み上げたり、壁にしたりした。箱には音響的仕掛けがしてあって、各様の音がする。真っ暗になったり、爆音に包まれたりと、驚くことはあるが、諸々の要素にちぐはぐさも感じる。小さい箱と同サイズのアルファベットが出てきて、ダンサーたちは文章をつくり出した。あるときは「様々なひとが様々な仕方で同じものを理解するdifferent people understand the same thing in different way」という文章が現われた。最後には、冷蔵庫が舞台に持ち込まれ、なかにはスパークリング・ワインが入っており、その目の前には、今度は「あなたにこれをあげますyou will see what you get」との文章が。グラスを手にし、観客たちは歓談をはじめて、気づけば終幕。多様な刺激があったといえばそうだし、けれども、それらがほぼどれも微弱な刺激だったのも間違いなく、そんな塩梅が今日のコンテンポラリー・ダンスなんだよといわれているようで、でも、そんな戸惑いをワインが流してしまった。

2015/10/11(日)(木村覚)

川村美紀子新作ダンス『まぼろしの夜明け』

会期:2015/10/09~2015/10/11

シアタートラム[東京都]

上演時間80分の内、最初の50分まで、舞台の上ではほぼなにも起こらない。『ボレロ』の舞台に似た舞台を囲み、観客はずっと立たされたまま、「なにも起こらない」ことの意味を探った。爆音でハウス系(?)の音楽が鳴り、照明はミラーボールその他があたりを照らしているのだが、スモークがときおり舞台を吹き付ける以外は、6人のダンサーはずっと寝たままだ。腕がちょっと上がったりするが、しばらくすると倒れてしまう。残り30分くらいからか、一人の上体が起き、するともう一人も背中が立ち、残り10分となるころ、一人立ち、二人立ち、最後の一人が両足で立ったかと思われた瞬間に、暗転。明転後に拍手はなかった。足早に帰る観客のなかには、明らかに不満を表わしている者もいた。この上演に、ポストモダン・ダンスとの関連性を推測したり「ノン・ダンス」なんて言葉を当てがったりするのは、筋違いだと私は考えている。あるいは、ゆっくりと起床する様に、審美的な評価を与えようとするなら、そのひとは便器にも美を見出すことだろう。ここにあるのは、デュシャンの連想に乗じてさらに遊戯的に説明するなら、「寝ているだけでも上演になる」という一種の錬金術だろう。ふざけてる。このおふざけを「不思議ちゃんの踊り子がしたこと」として受容することが、ふさわしいことなのかがわからない。彼女を「ダンス界のアンファン・テリブル」と形容するダンス批評は、上演を作品としてというよりも踊り手=恐るべき子どもの行ないとして捉えているのだろう。そこに置かれた「親」と「子」の図式に、川村も乗っかっているように見えるからやっかいだ。「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」とフライヤーにあって、そのうえでのダンスの不在。狡猾だ。けれども、その狡猾さが親に対する子の反抗のように思えてしまう。内輪でヒートしても、外部には伝わらない、外部は盛り上がれない。

2015/10/09(金)(木村覚)