artscapeレビュー
木村覚のレビュー/プレビュー
マリー・シュイナール『春の祭典』『アンリ・ミショーのムーヴマン』
会期:2015/10/24~2015/10/25
神奈川芸術劇場[神奈川県]
今月は、ダンス、演劇ともに話題作が目白押しではあるのだけれど、見逃せないのはマリー・シュイナールだ(ダンスでも演劇でもないが、障害者プロレスの代表的団体ドッグレッグスの興行「超害者──毒にも薬にもならないならいっそ害になれ」も見逃せない!)。『春の祭典』と合わせて上演される『アンリ・ミショーのムーヴマン』は、背後のスクリーンにミショーの絵画をディスプレイしつつ、絵画に描かれた身体をダンサーたちが踊ってみせる。「2.5次元ミュージカル」に似ている?と言うつもりはないけれど、ミショーの絵画を舞踏譜に貼り付けた土方巽のことは思い出さずにはいられない。シュイナールの際立った異形性は、以前から舞踏と親近性があると思っていた。けれども、さすがにミショーをフィーチャーしたとなるとその近さは放っておけない。もちろん、実際のダンスは舞踏のムーヴメントとは異なる。とはいえ、だからこそ、ぼくたちはオルタナティヴな舞踏をそこに見ても良いのかもしれない。いずれにしても、美しくてユーモラスで批評的で生成変化を志向するシュイナールのダンスは、けっして見過ごしてはならない。今回は、全国ツアーであり、関東圏(神奈川)のみならず、金沢、高知でも上演される。
2015/09/30(水)(木村覚)
相模友士郎『ナビゲーションズ』
会期:2015/09/25~2015/09/27
STスポット[神奈川県]
舞台と客席がある。踊る人が居て、それを演出する人が居て、それを見つめる人が居る。演出する人は見つめる人に話しかけ、スマホと持ち物を預かる。スマホはバッグに集められて舞台に吊るされる。持ち物たちはすでに置かれたいくつかのものたちと床に散りばめられた。そして、はじまる。踊る人が現われる。演出する人(相模友士郎)は客席の脇で、身を隠さぬまま照明をコントロールしている。冒頭から明らかなのは、ここには、隠されているものがなにもない、ということ。はじめ(1)、踊る人(佐藤健大郎)はゆっくりと歩き、初めて見る持ち物たちの名前を読み上げる。次に(2)、持ち物たちの前に立ち、それを用いる身振りを行なう。それが終わると(3)、持ち物を身につけてみたり、水筒ならば中身を飲んでみたりする。その次には(4)、持ち物を誰かが身につけ用いるのを手助けするようにして、その誰かと踊ってみる。シンプルな佐藤への四つのインストラクション(「ナビゲーション」)が、時間を構成し、空間を構成する。ここにあるのは、それだけ。相模の「ナビ」に促され、佐藤は動作をとる。それを、見つめる人は追いかける。見つめる人の持ち物が、踊る人の動作を動機づけていく。持ち物が見えない糸を生み、見つめる人と踊る人とを結ぶ。この見えぬ「糸」が、微弱な緊張を作り出す。ゆっくりとした動作を続ける踊る人から、見つめる人はなにを受けとるのだろう。自分の持ち物と踊る人に、見つめる人は割って入ることはできず、ただ「見つめること」をもって応えるしかない。まるで現世に降りた幽霊の如く、傍観するほかない。(4)で踊る人は誰かと踊った。しかしその「誰か」は目に見えない。不在ではない。しかし、見えない。ここにも幽霊がいる。踊る人も例外ではない。佐藤健大郎もまた、持ち物に触れはするものの、その場に「踊る人」として居るだけで、佐藤健大郎個人の実体は見えない。「隠されているものがない」と先に述べた。「ナビ」にとなるわずかなルールが構造をなし、スケルトン状態でむき出しになっている。そのなかを幽霊たちは徘徊し、彼らを別の幽霊たちが見つめている。それが本作での出来事なのだ。パフォーマンスの基本的関係をあらわにしたところで面白い?と問われるかもしれない。では本作は「空っぽ」(中身なし)なのかというと、それが違うのだ。佐藤の動きは丁寧で動作が正確になされた。「正確」とは、余計なものがない、ということ。ゆえに見応えがあった。最終場は、それまでの丁寧な動作を濃縮したダンスで締めくくられた。ダンスとはどこに宿る? 踊る人のなかに、輪郭に、それとも外側に? わからないが、その「ダンスなるもの」を舞台空間に降臨させるようとする繊細な手つきが、本作をあまねく満たしていた。
2015/09/25(金)(木村覚)
フェスティバルFUKUSHIMA! presents 納涼!盆踊り in TodaysArt.JP 2015 TOKYO
会期:2015/09/12
東京海洋大学 グラウンド特設会場[東京都]
大友良英のPROJECT FUKUSHIMA!が、「オランダ発の最先端アートの祭典『TodaysArt.JP 2015』」の関連企画として、東京海洋大学で行なわれた。「3.11以後のアート・プロジェクト」と「最先端アートの祭典」と「東京海洋大学」との関連は希薄で、夕方にまだまばらな観客たちとプロジェクトFUKUSHIMA!盆バンドをしゃがんで聞いているころは、その「とってつけた」感じに馴染めずにいた。次第に音頭の演奏となり、観客は踊り手となって櫓を囲み踊りだす。すると、温泉に浸かっているような、じわじわと心と体がほぐれるような感触が訪れた。それが島根の盆踊りだとしても、自分の体の中にあるなにかが触発されて「腑に落ちた」気持ちになってくる。盆踊りによって自分の眠っていた「日本的身体」を目覚めさせられた、とまでいってよいのかわからないが、そんな錯覚に陥る。珍しいキノコ舞踊団が踊りをサポート。彼女たちらしい振りのコミカルさかわいさには、自分は「腑に落ちた」気持ちになれず。だが、伝統的な踊りばかりでは「ただの盆踊り」になってしまう。土地のものと最新の感性とが混じり合って、その土地の魅力を消さずに洗練されたものを生み出す、そんな大地の芸術祭に感じた「年季」みたいなものが、いつかこの「盆踊り」からも滲んでくるとよいのでは、と思わされる。その後、DJフクタケが、歌謡曲やアニソンのなかの隠れた音頭ソングを1時間超、かけ続けた。その楽曲の多いこと! 100年前、50年前ではなく、多くは20~30年前のものだ。今日の日本人も、ことあれば音頭を聴きたがってきた、そんなことがわかるプレイだった。いよいよ、大友良英のバンドによる音頭に編曲した『あまちゃん』関連曲が演奏されると、『あまちゃん』へのなつかしさに「ふるさと」を感じて、踊りが勢いづく。そんな仕掛けも巧みだが、ふるさとを奪われ傷つけられた「福島」が、誰もが自分の「ふるさと」であるかのように思いをはせる場「FUKUSHIMA」へと変貌していくとしたら、この「盆踊り」は土地に根ざさずとも永続する祭りとなるかもしれない。
2015/09/12(土)(木村覚)
『テニスの王子様 青学vs聖ルドルフ』
会期:2015/09/05~2015/11/03
TOKYO DOME CITY HALL[東京都]
2004年に始まった「テニミュ」(『テニスの王子様』ミュージカル)は、しばしば「2.5次元ミュージカル」と呼ばれる。いまやその名は人口に膾炙するところとなり、「一般社団法人 日本2.5次元ミュージカル協会」が設立されるほどにまで発展してきている。3次元(現実空間)と2次元(フィクション)との中間を意味する「2.5次元」とは、より具体的にはなにを意味するのか? 「物語を舞台に受肉させる」というだけならば、すべての劇は「2.5次元」ではないか。とりたててそう名づけるとき、舞台では一体なにが起きているのだろう。本上演は、まさにその点を図示するかのように始まった。一冊の本が舞台に落ちている。やんちゃな中学生たちが手にとり、読み始める。すると、舞台上に決めポーズをとった役者たちが現れる。と同時に背後のスクリーンには、役者のとったポーズと同じポーズをとる漫画絵が映る。なるほど、役者たちのポーズは(一般の演劇でもそうであるように)演出家によって施されたものというよりは、漫画のコマなどに描かれたポーズを基にしているわけだ。原作漫画はここでは単なる原作ではない。舞台が実現に注力すべき要素そのものなのである。言い換えれば、観客は舞台に漫画が具現することを、目前に「越前リョーマ」が、彼の部員仲間やライバルがそのままの姿で出現することを望んでいる。ファンは、キャラの具現化を重視するファンとキャラを具現化させる役者目当てのファンに二分されるのだそうだが、いずれにしても高解像度のキャラのリアリティは「2.5次元」にとって必須なのだ。
ところで、これはテニスの物語。いささかコミカルにも映る試合場面も含め、ラケットを振るう姿が何百回と繰り返される。ダンスと化した素振りは、歌舞伎の見得のように、独特のグルーヴを宿す。女性観客たちは、漫画という「フィルター」を被せた「男子の肉体の躍動」に興奮する。とはいえ、本当のテニス・プレイヤーとは異なる。もっといえば、役者たちは演技もダンスもけっしてうまいわけではない。ただの「茶番」だ。放課後の部活やサークルで生身の男子が肉体を躍動させているところを(チラとでも)見ているだろうに、それでも「フィルター」越しの鑑賞を若い女子たちは求める。この「フィルター」は、生身の男子に直面することを回避しつつ、限りなく接近することを許す。「テニミュ」とは、女子の欲望にとって最適化が施された場なのだ。物語は男子対男子の戦い。奇妙に偏ったホモソーシャルな世界を観客は傍観し続ける。物語が一旦終了するとショーが始まる。客席を役者たちは駆け回り、ハイタッチを観客と交わす。そうして観客と役者たちとは対面する。しかし、あくまでも彼らは役名のまま、表情を変えない。すべては「見る女性」の欲望に奉仕する。彼女たちの欲望を肯定する空間は、彼女たちが抱く生身の男子たちへの不安、恐怖、自信のなさを一旦棚上げにしてくれるのだろう。そうしたパラダイス空間を切望する女性たちから、彼女たちを容易に受け入れてくれない現実の過酷さが透けて見える。
2015/09/08(火)(木村覚)
EAT & ART TARO『「上郷クローブ座」レストラン』
会期:2015/07/26~2015/09/13
上郷クローブ座[新潟県]
8月の末、6度目となる大地の芸術祭のために、3日間越後妻有に滞在した。3日では全貌を知るのに足りず、見逃した展示・上演のほうがはるかに多いのだが、わずかに体験したなかでもっともよかったのが「上郷クローブ座」だった。筆者にとって4度目の大地の芸術祭。今回強く印象に残ったのが、新潟の土をテーマにした「もぐらの館」のような、いわゆる現代美術とは直接関係ない展示の魅力だった。よく言われることだろうが、北川フラムの手による地域フェスティバルでは、一応「アート」目当てで足を運んだはずが、アートという「図」に隠れていたはずの「地」のほうに観客の目は奪われてしまう。自然の景色や地元の人の佇まいに触れ、そこが人口減少の進む過疎地であること、ゆえにここでの人の営みは永続するものではないこと、そしてそうした問題はここだけではなく日本全土を覆っていることなどに心は引き寄せられる。10年ほど前の大地の芸術祭では、「地方」に「アート」を置いた驚きと違和感のなか、その「とってつけた」印象が拭えなかった。都市でも、どこかでも見られる「アート」がなぜここにあるのか、その因果性が乏しいと感じてしまったからだろう。また泥だらけの「大地」の世界に、ホワイトキューブをつくろうとすれば、無理があるものだ。しかし、上郷クローブ座のレストラン・パフォーマンスのような上演は、ここでしか見られない。それは運搬すればどこでも見られる「アート」の遍在可能性(というモダニズム)とは一線を画すものだった。旧上郷中学校を改装した建物の1階で、それは行なわれた。いったん暗幕で窓が覆われると、地元の女性が一人、ゆっくりとロウソクの火を灯して、観客たちが座る食卓の周囲を巡る。信濃川流れる土地の紹介が音声で流される。方言の抑揚が土地を感じさせる。これからはじまる饗宴に捧げられたささやかな儀式。この「フレーム」が置かれることで、その後の女性たちのもてなしぶりが「演劇」に映る。今朝採れたとうもろこし、焼いた糸瓜、グループ名の由来でもあるクローブで味付けされた豚肉などに、地元の女性たちのていねいな説明が施されると、ただおいしいだけではなく、この土地を胃袋を通して鑑賞しているかのような気持ちにさせられる。食事は、地元の料理を元に、EAT & ART TAROがアレンジしたもの。洗練されている。「うぶすなの家」もそうだった。都市型の感性とのコラボで地元の良さを引き出すのも、大地の芸術祭が得意とするところだ。クローブ座に出演した地元の女性たちは会期後、どんな日常に戻っていくのだろうと思いを馳せる。この土地の未来を想像しつつ、日本の未来への想像力をたくましくさせる、それこそが6回目の大地の芸術祭が観客に与える最大の土産なのだ。遍在可能であるがゆえに抽象的なモダニズムのアートでは到達不可能なところに観客を導く「別種のアート」の可能性が、そうしたところに示唆されていた。
2015/08/31(月)(木村覚)