artscapeレビュー

木村覚のレビュー/プレビュー

神村恵・福留麻里「あさっての東京」

会期:2016/04/08~2016/04/10

STスポット[神奈川県]

神村恵と福留麻里が構成・演出・振付の一作。言葉と身体動作の関係がとても興味深い作品だった。冒頭、二人が並び立ち、次に神村一人が残ると、手にした「い・ろ・は・す」を指して「これやります」と一言。「い・ろ・は・す」を床に置くと、「い・ろ・は・す」を模倣し始めた。今度は福留が「これやります」と別のものを指して模倣を始める。その模倣に時間の要素が加わる。「これの10分後をやります」。ある時は、突然、最前列の観客を手招きし、椅子に座らせて、その観客の「60年後をやります」と口にし、福留は老いた体を「模倣」して見せた。「10分前をやります」とか「1年後をやります」とか、時間に関連する言葉が発せられると、観客はおのずとなんとなくそれはこういうものかなと曖昧なイメージを思い浮かべてしまう。神村や福留は、その言葉を発した後、ポーズをとったり、小さく動いたりする、すると観客は自分が思い浮かべたイメージと目の前の身体とを並べたり比べたりすることになる。普通、ダンス上演には言葉は持ち込まれない。そして、動作は抽象的であることが多い。観客は目の前の動作がダンサー(振付家)のどんな意図に動機づけられているのかを探りながらも、しばしば探りきれずに抽象的な動作を見ることになる。ときに観客は動作に潜む真意を追いかけづらくなる。それに対して、今作での言葉は、観客と神村・福留の二人を結ぶひとつの場になっていた。もちろんここでの言葉と身体の関係は、言葉が答えで身体がその答えに迫る、といった単調なものではない。もっと謎めいていて、その分豊かなものになっている。これは少しだけものまね芸に似ている。ものまね芸も最初に模倣する対象を伝え、次に模倣を実演するから。模倣対象のイメージと模倣した内容が一致することよりもむしろずれていることで、観客は笑う。この構造に近いとも言えるが、二人は笑いを求めているわけではなく(観客はときに大いに笑ったが)、置かれた言葉から喚起されたイメージと目の前の身体動作との距離を測ることが遊びとして用意されているようだった。観客の心の動きを「言葉」が置かれることで、いわば「振り付ける」作品だったといえるのかもしれない。

2016/04/08(金)(木村覚)

Q「ふくらはぎにおQをすえる~シャルピー編~」蒼いものかvol.3

会期:2016/04/08~2016/04/10

pool桜台[東京都]

市原佐都子が主宰するQの新作上演。その前半。タイ人ということなのだろうか、東南アジア系の女性に扮した女の子がコミカルなポーズを交えながら観客に向けてしゃべりまくる。それが一言も分からない。おそらく食堂で働いていて、客とのいさかいを話題にしているようだ。動作のリズムだけではなく、言葉もリズミカルなので、細部が分からなくとも見入ってしまう。そもそも女の子がしゃべっている言葉は、ぼくが理解できないというよりは、市原が自由に創作したデタラメ語だろう。そうなると、この言語を理解できる人は一人もいないわけだ。誰一人として理解できない言葉で突き進んでいく演劇。まずこれに驚いた。徹底して観客に媚びない舞台はQの専売特許だけれど、観客が分からないなりに分かった気になる状態に陥るのも織り込み済みで、さて、この「分からないなりに分かる」という「間違いながら突き進むしかないコミュニケーション」という事態こそ、Qが前提にしている誠実な人間と人間の関係ということなのだろう。後半、もう一人の女(日本人)が入ってきて、ことは重層化する。アパレル関係の仕事で東南アジアに来ている潔癖症の彼女は、アジアの食べ物が口に合わないし、食堂の女の子が動物に見えてしまう。異文化との接触から起こる女の子の変容が丁寧に描かれる。生理的な身体レヴェルの反応をベースに、「今日の日本女性」の感性にデリケートに迫る力量は、今回も素晴らしかった。

2016/04/08(金)(木村覚)

プレビュー:福留麻里企画ダンス公演『動きの幽霊』『あさっての東京』

会期:2016/04/08~2016/04/10

STスポット[東京都]

4月は今月のレビューでも取り上げた、福留麻里と神村恵に注目したい。STスポットで福留麻里の新作二本が上演される。『動きの幽霊』は時間がテーマで、過去とは本当に存在しているのか?見ていたものは本当に存在していたのか?と問う。福留本人に本作のことを聞くと、「3.11」以後の自分たちの地盤や自分自身が不確定になってしまったという気持ちが、背景にあるのだという。「自分がなにからできているのか」が知りたくなったというのだ。それでベースが「ラブストーリー」であるというのが謎といえば謎だが、福留曰く「案外ベタで攻めている」とのこと。つまり、スリリングな方法が展開されていつつもポップな作品に仕上がりそうだ。もう一本の『あさっての東京』は、神村との共作。これも時間がテーマで、それはタイムマシンと関連しているらしい。どちらも、今日的なダンスを目にする絶好の機会になるに違いない。

2016/03/21(月)(木村覚)

イデビアン・クルー『ハウリング』

会期:2016/03/18~2016/03/20

世田谷パブリックシアター[東京都]

始まって早々「なるほど!」と思った。タイトルのことだ。草原に男が一人。歩く手に白い紙袋。「キーン」と耳鳴りのような不快音がし、立ち止まる。それで男は歩く進路を切り替える。また、少し歩くと不快音がする……こんな冒頭。「ハウリング」とは、マイクから出た音を同じマイクが拾うことでスピーカーからノイズが出る状況のこと。誰だってハウリングが嫌いだ。でも、誰だってハウリングを出してしまう、他人にとって不快な存在になりうる。なんとイデビアン・クルーにふさわしいタイトルだろうと思っているとサックス奏者5人組が登場。今作の白眉はなによりも音楽だった。ブラジル音楽ならばサウダーヂと呼びそうな多層の感情が重なるような音楽。でも、ジャズがベースなので、ブラジル音楽よりも乾いていて、もっとひっちゃかめっちゃかだ。拍子の異なるリズムとリズムが折り合わさる。その感じは、イデビアン・クルーのダンスにじつにピッタリ合う。60分のコンパクトな作品のテーマは、お見合いと結婚。二重の円を描いて向かい合う人と人。息を合わせているが、そうは簡単には合わない。気持ちを押しつけたり、気持ちに応えようとしたり、それで独りよがりになったり。そんな気持ちのズレやズレへの恐れやズレがどうでもよくなって衝動に任せるところなど、すべてがダンスの要素となる。むしろそれこそがダンスというものなのではないかとさえ思えてくる。けれども、同時にこんな気持ちも湧く。じつに井手茂太らしいダンスだと。もはやそれは一種の芸だ。井手が一代で築き上げた独自の芸能だ。その変わらぬクオリティを愛でつつ、笑ったり、ぐっときたりしているぼくは、多くの観客たちと同様、井手ダンスに魅了されているファンの一人に相違ない。でも同時に、このハイ・クオリティな舞台が透明な天井に突き当たっているようにも見える。結局、〈井手の思う/感じるところ〉にこの舞台は支配されている。〈井手の思う/感じるところ〉はじつに豊かだが、とはいえ、その豊かさには限界がある。そこには外部へと通じるほつれが意外と見当たらないのだ。ラストには、バブル期の結婚式のパロディか、ゴンドラ(?)から新婦(のみ)がスモークとともに降りてくる。彼女は文金高島田を頭に被り、しかし衣装は迷彩服。これが外部へのほつれを生むかと思いきや、戦争のモチーフは、文金高島田によるブーケトスへとズラされる。このズッコケはおかしいが、戦争にリアリティがもてない自分たちを露呈させはすれど、そこに留まる以外の道筋が描かれることはない。別に戦争を描けと言いたいわけではない。ウェルメイドな構成に、ピナ・バウシュのタンツテアターを連想させられたけれども、バウシュならば60分ではなく、その2倍かそれ以上のヴォリュームにしただろう。もしそうするならば、バウシュはどんな場面を付加しただろう。物質的な自然を用いた場面か? そんな想像をしながら、本作の外部に思いを寄せてしまう(だからといって、バウシュらしくせよ、などと思っているわけではない)。

2016/03/18(金)(木村覚)

福留麻里『多摩動物公園』(「Hino Koshiro plays prototype Virginal Variations」東京公演)

会期:2016/03/13

VACANT[東京都]

日野浩志郎の新プロジェクトによる演奏がメインアクトの公演で、福留麻里がオープニングアクトとして踊った。福留は10年以上前からほうほう堂で活躍してきた、日本のコンテンポラリーダンスの代表的なダンサー。一昨年から自作のソロ公演を行なうようになったのだが、どの作品にも共通するのは、どこかの土地(地域)に端を発しており、その土地のリサーチをベースにしているところである。『川に教わる』(STスポット、2014)は福留が親しんできた多摩川を調べた作品だし、『そこで眠る、これを起こす、ここに起こされる』(世田谷美術館、2015)は砧公園を含む世田谷美術館周辺に取材した作品である。今作も、その点は類似している。なんせタイトルには「多摩動物公園」とある。暗転したなか、福留はまず会場の印象的な階段のあたりに現われた。黒い服に白い豆電気がいくつか輝く、その手には小さなラジカセがあって、そこから動物の声が聞こえてくる。動物園で撮られたものだろう、その音声は原宿の会場をジャングルのような雰囲気に変えた。こうしたフィールド・レコーディングの素材を直に舞台空間に持ち込むことで得られる効果は大きい。あるいは、今回は用いられなかったが、映像の素材にも同様の力はあることだろう。さて、そうした素材とは異なり、今回のダンスに持ち込むのはダンサーだ。ダンサーはそこ(多摩動物公園)にあったかもしれないが、ここ(VACANT)にもあるという存在だ。ダンサーという媒体にもなにほどかが記録(記憶)されているかもしれないが、それを物理的に、客観的に、ここに置くこと(つまり、記録媒体のように、記録ないし記憶を踊りによって再生すること)はとても難しい。ダンサーはここで、音を持ち込み、音にあるものを気づかせる役を担う。ときには、奇妙な生き物と化して、観客の胸をかき混ぜる。それもひとつの方法だろう。けれども、ダンサーは別の役割もできないだろうか、フィールドを再生させるような役割が。もちろん、福留が目指したのがそれであるかは不明だが、先に述べたような難しさを無視せぬまま、その克服の可能性を求めても良いように思うのだ。

2016/03/13(日)(木村覚)